第6話

 少女は夕食を終えた後、テレビを見ながら、食器を洗っている母親にふと話しかけた。

「ねえ……お母さん。私のお父さんって、どんな人だったの?」


 母親の食器を洗う手が、一瞬止まった。母親はひとつため息をつくと、流しの水を止め、少女の方を振り向いた。

「何、急にどうしたの?」

 何気ない様子を取り繕ってはいたが、明らかに母親は動揺していた。その質問が、いつか娘から自分に向けられるだろうことは予測していたが。いざその時が来ると、やはり気持ちが揺れ動くのを隠せなかった。

「うん、ちょっとね。でも、いつか聞いてみたいと思ってたの。もし、お母さんが答えにくいんだったらいいんだけど……」


 その言葉を聞いて、逆に母親は覚悟を決めた。いつかは言わなければならない事なのだ。それに、あの事が起きてから、あまり時間を置かない方がいいだろうとも思った。

「答えにくいって事はないんだけどね。お母さんにも、ほら、心の準備がいるのよ。洗い物を済ませてからでいい?」

 母親の言葉に、少女は素直に頷いた。母親は、自分の娘ながら、素直な子に育ってくれて本当に良かったと感じていた。女手一つで、仕事をしながらの子育てで、目が行き届かない事もあっただろうけども。この子は本当に自分にとって宝物だと思っていた。だからこそ、父親の事はいつまでも隠してはおけなかった。この子がそれを知りたいと言うのなら、教えてあげなければならないだろう。それが自分の務めであると、母親はそう決心したのだった。


 洗い物を終え、母親が少女の座っていたソファーの向かい側に座ると、少女もそれまで見ていたテレビを消した。一瞬の沈黙の後、母親が静かに言葉を切り出した。

「あなたのお父さんはね……とっても素敵な人だった。うん、本当に。今でもそう思ってる。お母さんは、本当にあの人の事を好きだったの。いつもまっすぐに、自分の夢に向かって進んでいた。何があっても自分のやりたい事を曲げたりしなかった。でも、お母さんにはとても優しかった。お母さんは、あの人と一緒に、あの人の夢をかなえる事が自分の夢でもあると思ってた。そして、あなたを身ごもったのだけれども……」


 母親はそこで一旦言葉を切り、一度娘の方を見てから、心を決めたように再び口を開いた。

「お父さんはね、なんて言うか、そういう生活を望んでいなかったの。妻と子供を養いながら暮らしていくっていう、平凡な、ありきたりの生き方って言うか。そういうところがあの人の魅力でもあったんだけどね。自分のやりたい事を、家族のために諦めるとか、そういうことを好まない人だった。でも、もしかしたら、お母さんに子供が出来たという事をあの人に言ったら。あの人は、私と、そして生まれてくる子供のために、自分の夢を捨ててしまうかもしれない。夢を諦めて、私と子供のために生きてくれるかも。いえ、生きてしまうのかも。そうも思ったの。だからお母さんは、何も言わずに、あの人の元を去った……。

 あなたのお父さんに、私が好きだったあの人のままでいて欲しかったの。それも今思えば、お母さんの自分勝手な我侭だったかもしれないんだけど。その後あの人は、私の実家にも訪ねて来たりして、私の行方を随分捜したらしいけど。私は二度とあの人の前に姿を現すことはなかった。結局そのまま時は流れ、お母さんは一人であなたを産み。そしてあの人とお母さんは、違う人生を歩み始めたの……」


 少女は、初めて聞く母親の話にじっと聞き入っていた。これまで決して話してくれなかった、話そうとしなかった自分の父親の話を。一言でも聞き逃すまいと、母親の言葉に集中し続けていた。

「それからのお母さんは、あなたを育てる事が自分の人生の目標になった。その傍ら、あの人が自分の目指した世界で成功する事を祈って、いつかあの人の名前をどこかで耳にする事があるんじゃないかと、そんな事を考えながらね。一度だけ、あの人の名前を新聞の記事で見た事がある。その記事は切り取って、今でも大事に取ってあるわ」

 母親はそこで立ち上がり、タンスの引き出しの一番奥から、茶色に変色した一枚の紙を取り出した。


「これが、お父さんの記事……?」

 少女の言葉に、母親は黙って頷いた。少女はその記事を、何か胸が熱くなるなるような思いで読み始めた。日本のある団体が、海外への進出を始めたという小さな記事。その団体の代表者の中に、少女の見た覚えのある名前があった。

「お母さんがあの人の名前を目にしたのは、あの人の元を去った後、それが最初で最後だった。先月、あの事故が起きるまでは……」

 そう言うと、母親は静かに目を閉じた。少女は、その「事故」が起きた日の事を思い出していた。ある日、学校から帰ると、まだ会社にいるはずの母親が家にいて。しかも部屋の隅で泣きはらしていたのだ。何があったのかと聞く少女に、母親は答えた。あなたのお父さんが、事故で亡くなったのだと……。


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