第3話

 しかし、私は今度は、少しだけ冒険をしてみようと思っていた。「冒険」などというにはあまりにちっぽけな行動であったが。まずは何よりも、彼女がこの車両に乗っていなければしょうがない。私は一度目を閉じ、祈るような思いで車両に乗り込み。そして、再び彼女を見つけた。まるでそこが、彼女の指定席であるかのように、あの座席の左端に座る少女を。そして私も、この二日間ほとんど私の指定席のようになっている、彼女の向かい側の座席の、ほぼ真ん中辺りに腰を降ろした。それから、ごく自然に。そう見えるように、着ていた上着のポケットから文庫本を取り出した。


 学生時代からもう何度も読み返した、私のお気に入りの小説。数え切れないほど繰り返し読んだせいで、本のカバーは随分と痛んでしまっていたが、大袈裟に言えばそれも私の狙いの一つだった。ようするに、あの少女に、同じ車両に自分と同じように文庫本を読んでいる人がいるということを、気付いて欲しかったのである。それが私のちっぽけな「冒険」であった。彼女をただ見つめているだけではなく、私という存在を、彼女に少しでも意識して欲しかったのだ。そして、私が読んでいる本が、何度も読み返した跡のある本だというのが。私が読書好きである。つまりは彼女が私の事を、自分と近い趣味の人間ではないかと。そう思ってくれるのではないかと、そんな淡い期待を抱いていたのだった。


 こうして私は彼女のはす向かいで、足を組みその上で文庫本を広げつつも、時折ちらりと彼女の様子を伺うといった、そういう状態を保ち続けていた。果たして彼女は私に気付いてくれるだろうか? 三日間、同じ時間の同じ車両に乗り続けている、自分の父親のような年齢の男に。気付いてくれたとしても、それが逆に怪しまれるようなことになっては元も子もないのだが……。そんな期待と不安の入り混じった思いのまま、電車は幾つかの駅を通り過ぎ。いよいよ、次は彼女が降りる駅となった。


 私のささやかなる「冒険」にもかかわらず、彼女はいつもと同じく、ずっと膝元の本に視線を落としたままだった。まあ、そんなもんだろうな。電車の中で向かい側に本を読んでいる男がいたとしても、それは彼女にとっては何も意識するに足るような事ではないのだ。それが当たり前だろう。私は自分の思い付きが浅はかだった事に苦笑いしながら、彼女が降りる前にもう一度と、ちらっと向かい側の席を見たのだが。彼女はいつも通りにカバンに文庫本をしまい、そして座席から腰を上げようとする、その瞬間。私の方を、ちらりと見た。そして、あろうことか、少しだけ微笑んだように見えた。私はもう少しで、その時の驚きと喜びを思いっきり声に出してしまうところだった。今、確かに、彼女は私の方を見た。私を見て微笑んだ……? 


 いや、それは単なる勘違いかもしれない。私がそうなってくれればいいと願ったからこその、思い込みかもしれないじゃないか。突然の出来事に私が戸惑う中、彼女はそれっきり私の方を振り返ることなく、いつもと同じ様にこちらに背を向け、ドアの前に立ってしまった。私はこのまま彼女の後を追いかけていきたい、一緒にこの駅で降りたいという衝動にかられたが、かろうじてそれはこらえた。そしていつものように、彼女はまっすぐな姿勢で電車を降り、駅のホームを歩き去っていった。


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