敬仰/新見啓一郎の事件簿より

麻生 凪

敬仰

 一ヶ月前

 静岡県警察 三島警察署刑事課


「署長室に呼ばれたって、主任は何をやらかしたんだ、神奈川に異動とは」


「いや出向だよ。とは言えど栄転のようなものだ。神奈川県警には居ても二年間くらいだろう」


「地方公務員が他県に、聞いたことがない」


「昇任試験に受かったようだ、ノンキャリア組では最短での警部補だ。警察庁も高く買っている」


「そこの二人、驚く程のことではない。優秀な人材が全国に飛ぶのはよくある話だ。新見啓一郎にいみけいいちろう。成るべくして成った、それだけのことさ」

 川村 修はあふれんばかりの笑みをたたえ、目を細めながら窓の外を眺めた。


 ・・


「新見警部補、早速で申し訳ないが、来月から神奈川県警に出向して貰いたい」


「神奈川に出向ですか」


「ここ十年来、神奈川県警管轄の署員による不祥事が後を絶たない。裏金問題。警察本部の会計担当者が、業者に預ける経理操作の手法で公金をプールし、総額十一億余円が不正に流用されていた事が判明」


「存じあげております。前本部長が減給。訓戒、注意など、何らかの処分を受ける対象者は、全部で五百人以上にのぼったとか」


「そうだ、他にも不祥事は毎年のように発覚している。制服を着た現職警察官による公務中の空き巣事件。巡査部長の強制わいせつ罪。厚木警察署の超過勤務強要……」


「重大なものでは、逗子ストーカー事件で脅迫罪の逮捕状執行の際に、記載された被害女性の結婚後の名字や転居先住所などを2回読み上げた。これにより、加害者がストーキング対象の女性の詳細を知り、殺人事件につながった」


「ほうっ」


「相模原警察署の巡査部長が、覚せい剤取締法違反容疑で警視庁組織犯罪対策課に逮捕される。職務質問を受けた際に言動が不審だった為、尿検査を行なったところ発覚。等がありますね」


「その通り、流石だな。細かなものまで入れたら切りがない状態だ。そこで警察庁は大規模な人事刷新の一環として、近隣都県からの出向も視野に入れた。君に白羽の矢が立ったと言うわけだ」


「白羽の矢、ですか」


「そういう理由わけだ。神奈川県警本部長は私と同期でね、静岡県警を通し優秀な人材を希望された。どうだね、行ってくれるかい」


「望月警視監ですね。警察学校で特別講義を拝聴したことがあります」


「君らにとっては雲の上の存在だろうがな、現場の若返りを図りたいそうだ」


「承知致しました。ご命令とあらば何処へでも」


 ♢ ♢ ♢


 第一回捜査本部会議 横浜緑警察署

 横浜市緑区にある神奈川県警察が管轄する警察署の一つ。 横浜市警察部隷下の中規模警察署である。


「被害者は佐伯 孝三十五歳、男性独身。職業は横浜理工科大学、生物資源学部海洋生物学科の准教授をしております」


「発見現場は横浜市緑区、大型ショッピングセンター、ネクストバリューの第二駐車場。本人所有の車の後部座席で腹部及び、左背部を刺された状態で発見されております。発見時間、九月二十八日午前五時頃。近隣の住民が犬の散歩中、不審車両に気がつき……」


「おい、あの男は誰だ、吉川警部の隣に座っている男だよ」

 会議に遅刻した所轄の山下やました誠次せいじ巡査長は、いぶかしげな顔で望月に尋ねた。


「県警本部の新見にいみ警部補です。今回の人事で確か、静岡から出向して来た方ですね」


「出向の警部補、若いな。この事件は所轄の仕事だろ、なんで本部の人間が居るんだ、まさか……。お前、何か望月本部長から聞いてないか」


「いいえ、叔父からはなにも」


「まぁ、そうだろうな……」


「おい! そこの二人、私語は慎め。山下遅れて、何か掴んで来たんだろうな」

 所轄の吉川警部は眉間に皺を寄せ、凄味を効かせる。


「えぇまあ、後ほど報告します」


「よしわかった。では続けてくれ」

 吉川は意味ありげににんまりと笑うと、鑑識課担当に目配せした。

 山下は、自分を見つめる新見に鋭い視線を送る。新見は左の口角を少し上げ、微笑してそれに応えた。


「死因、左背部を刺されたことによる出血性ショック。司法解剖の結果、刺し傷は大動脈に達していました。凶器は刃渡り九センチの登山ナイフで、抜かずにそのままの状態でした」


「犯人は返り血を懸念したのか」

 山下が神妙な顔でつぶやく。


「先ず犯人は鳩尾みぞおち部分を刺し、被害者が逃げようとして背中を向けたところを後ろから刺しています。後部左ドア取っ手に、被害者が掴んだ際に残されたであろう血痕と、被害者の指紋が検出されております」


「腹部を手で押さえた後に、逃げようとしたんですね」

 望月の問いに、

「当たり前のことを聞くんじゃねえよ」

 山下は吐き捨てるように答えた。


「死亡推定時刻、司法解剖の結果、前日二十七日二十三時から二十四時の一時間。胃の残留物及び直腸検査、死後硬直具合から判定されております」


 会議の途中、白腕章を付けた刑事数人がぞろぞろと会議室に入って来た。

「あれは特別鑑識、それに麻薬捜査……鬼の安藤」

 山下は怪訝な顔で新見に視線を移した。新見は会議室入り口を見るや瞬時に立ち上がり、素早く敬礼をした。

「何事だ……」

 山下の疑問は直ぐに解決される。

「等々力警務部長。て、ことは……」

 県警本部ナンバーツーの登場に、緑警察署長はじめ捜査員全員が立ち上がり、一斉に敬礼をした。


「そこまでだ。只今この時間より、所轄から神奈川県警に捜査権限が移行した。被害者のアウディから麻薬が検出された」

 全員が沈黙する。時間は午前11時を回っていた。


「今後は、県警本部に特別合同捜査本部を設置する」


「麻薬だと、しかも合同捜査かよ、やりにくいな。ん、待てよ。この席に県警の警部補、新見と言ったか、奴が居たということははなからそのつもりだったのか、野郎っ!」

 山下は声をおし殺し望月に言うと、固く握り拳をつくり新見を凝視した。


「殺人事件の捜査に関しては、神奈川県警の木内警部が指揮を執る」


「なんだ奴はキャリア組か、黒縁眼鏡の陰気野郎、三十前の若造じゃねえか。殺人事件に重きを置いてねえのか……てことは、麻薬捜査が主導かよ、益々やりにきぃ」


「山下さん聞こえますよ」

 望月が制した。


「尚、補佐をする新見警部補には所轄を統括して貰うことになるので、皆よろしく頼む。これ迄の捜査資料は全て、新見警部補に提供するようお願いする。以上だ」

 等々力警視長は新見に目配せすると、そそくさと会議室を出て行った。木内警部以下、腕章の捜査員達が後に続く。新見は敬礼をしながら見送った。

 一行が退室すると、会議室内はにわかにざわめき立った。


「新見の野郎は太鼓持ちか、キャリアの木内もそうだが俺と歳は変わらねえ。まぁここは、お手並み拝見と行きますか。県警の警部補さんよ」


「……」

 新見に向けた山下の鋭い視線に、望月は絶句した。


きゅうではあるが、先ほど警務部長が仰った様に、ここからは新見警部補に指揮を執ってもらいます」


 捜査員達のざわつきの中、新見は緑署署長に一礼すると、促された中央の席に立つ。疑心の眼差しは、容赦なく新見を蜂の巣にした。

「県警の新見 啓一郎と申します、よろしくお願い致します。では、続きの鑑識報告からお願いします」

 ざわざわとした不穏な雑音は、新見の言葉を打ち消した。鑑識課には届いていないらしい。

「…………」

 署長の杞憂きゆうに新見は笑顔で応え、暫く様子を見ようと椅子にゆっくり腰かける。


「野郎、動揺しねえのか。しかし、これでは会議になるまい」

 山下は腕組みをしながら高みの見物を決め込んだ。隣に座る望月はこの状況に顔を赤らめ、わなわなと震えている。

「おい、どうした望月よ」


 山下の言葉を無視し、望月は咄嗟とっさに立ち上がると、

「義を見てせざるは勇無きなり! 皆さん、会議に集中しましょう」

 と声を張り上げる。


「ふっ、やれやれ優等生が……」

 山下は後輩刑事の行動に、長髪の頭をかいて苦笑いをした。


 新見はその若者を見るや、

あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり!」

 と瞬時に返し、「君の名は!」と問うた。


「所轄の望月もちづきつかさ巡査であります!」


「経歴は!」


「入署、二年であります!」


 二人のやり取りに室内は静まりかえる。捜査員の数名は、自身をかえりみ下を向いている。


(一挙好転。へへ、やるじゃねえか……)

 山下は目を細め、新見を見ながら心で呟いた。


「ありがとう。では鑑識課より、続きの報告をお願いします」

「警部補、彼は望月警視監の甥だよ」

 署長が新見に耳打ちをする。

「なるほど、そうでしたか」

 望月は武者震いしながら、憧憬の眼差しでこちらを見つめていた。


「被害者アウディの室内には、犯人らしき指紋が多数検出されております。照合したところ該当する人物は見つかっておりません」


「次に目撃者情報」


「はい、駐車場での事件当夜の目撃情報ですが、第二駐車場は満車時の緊急時、関係者、業者用の駐車場として使われています。防犯カメラの設置はありません。近隣住民及び従業員への聞き込みでは、今のところ情報は上がっておりません」


「次に被害者背景の報告を班長から」


「その前に質問いいっすか」

 山下が手を挙げた。


「待て、先に全ての報告を聞いてからだ」

 吉川警部がそれを制し、新見に目をやると、

「いいでしょう、確か、遅刻したかわりに何か掴んで来たと」

 新見は山下をチラと見、許可を出した。


「山下巡査長、質問をどうぞ」

 新見は長テーブルに両肘をつき、胸の前で手を組むと山下に促した。


(なぜ俺の階級を、吉川警部が教えたか。まぁいいが)

「ありがとうございます。先ほど麻薬課、いや、組対本部マルボウの連中が何人かいたようですが、先ず麻薬の種類はなんなのか、また、組織犯罪も含め、殺人捜査と麻薬捜査、主導はどちらになるのでしょうか」


「なるほど、良い質問だ」

 新見は捜査員全員を見渡しながら話し始める。

「先ず麻薬の種類はコカイン、純度は60%を越えている。どちらに重きを置くか、現段階ではこの殺人事件が麻薬絡みによるものか、否かにより別れる。その判断は今後の捜査次第だ」


「ん、そこまで解っていて、なぜはじめから合同捜査にしなかったんですか」

 山下は落胆をあらわにし、懐疑的な表情を新見にぶつけた。


「そこは微妙なところだ、麻薬の件は暫くはマスコミに伏せて進めるという県警本部の意向もある。しかし、君も感じているように……」

 新見は一瞬含みのある笑みを浮かべ、山下に視線を投げた。

「等々力警視長 直直じきじきに所轄の捜査本部に乗り込んだこと、又、刑事部組織犯罪対策本部より選抜された先ほどの顔ぶれから予測するに、麻薬絡みの殺人であれば、県警挙げての重要案件となることは確実だろう。広域的な捜査に拡大されることも範疇はんちゅうに入れ、ことに当たるべきだ。すでに厚生労働相及び、各都道府県本部には通達されているはずだ。神奈川県警にも麻薬取締官が入るだろう……」


「……然るにここは、殺人事件の犯人を早急に逮捕し全容を明らかにするしかない。ですか」


「その通り、我々の責務は重大である。それを認識し捜査して貰いたい」


 山下はじめ捜査員全員が生唾を呑み込んだ。

(その指揮を執るこいつは、何者なんだ)


「では私からの質問だが、君は何を掴んで此処に来たのだ。被害者の詳細か」


「あ、はい。被害者の就業先である横浜理工科大学に行っていました。この後の捜査報告でも発表されると思いますが、被害者佐伯 孝は、大学の生物資源学部ではかなり地味な存在でして、学生からの人気は皆無。研究室とアパートを、バスで行き来するだけの生活だったそうです」


「うん、それで」


「しかし学生の話では、ここ数ヵ月服装や髪型が以前よりも派手になり、通勤はバスを利用していますが、プライベートで使用するアウディは最近購入したそうだと。私は車好きですが、あのS6アバントは大学の准教授に買える代物ではない」


「確かにそうだな。中古ならまだしも、新車であれば一千万は下らない」


「それとアパートの大家の話では、マンションを購入予定だから、来月で賃貸契約を終了するつもりだと。以上です」

 山下は望月の熱い視線を感じつつ、椅子に腰を下ろした。


「ありがとう、よく調べたな。では再度、班長より被害者の詳細の報告をお願いします」

 新見は言った後で山下に目をやると、大きく頷いてみせた。


「山下さん凄いじゃないですか」

 望月が耳打ちをすると、

「うっせぇ、大したことじゃねぇよ」

 山下は悪態をつくが、そんな彼を望月は憎めない。


「被害者住居は、神奈川区三ツ沢下町◯◯ コーポ旭。出身は北海道札幌市で、最終学歴は青森大学大学院。その後同大学の水産研究室の研究員を経て、五年前から横浜理工科大学の准教授となっております。大学では、フコイダンの抽出と食品への添加をテーマにした研究をしています」


「フコイダンというと、昆布やワカメ、めかぶなどの海藻にみられるぬめり成分ですね。 褐藻類の粘質物に含まれる多糖類……」

 新見は顎に手を当て思考を巡らせた。



 第一回合同捜査本部会議

 神奈川県警本部


「緑区准教授殺人事件で、被害者は同区内、大型ショッピングセンターの駐車場で発見されているが、なぜそんな所で殺されたんだ」

 県警木内警部が新見に問う。


「現在調査中ですが、営業終了時刻が22時、殺害時刻が二十三時から二十四時の一時間。そのことからも、ネクストバリュー関係者が、何らかのかたちで関わっていたのではないかと推測されます」

 新見は一旦言葉を切り、百五十余名の捜査員に体を向けると、用意した資料を掲げながら話を続けた。

「お手元のレジュメをご覧下さい。三頁目に記載しておきましたが、店内は食料品販売を中心とした直営店の他に、三十のテナントで構成されています」

 資料には各テナント名と、テナント毎の主力販売商品が明記されている。

「これまでの聞き取り調査の中で、捜査線上にあがった店舗は、こちらに記載した北海道産食料品専門のアンテナショップ『道産子うまいもの市』。ここで被害者の購入履歴が確認されております」


「被害者はいつ、どんなものを購入していたのだ」


「はい、店員の話から、三ヶ月程前に来店し道南産のがごめ昆布と、羅臼産の根昆布を大量に購入しております」


「昆布を大量に」


「被害者は大学で昆布からフコイダン、レジュメの五頁です……の抽出をし、食品添加に活かす研究をしております」


「フコイダンとはなんなんだ」


「簡単にはもずくや昆布、ワカメなどのぬめり成分。大学で研究されているのは低分子化フコイダンというものですが、これは免疫効果に優れ、健康食品として、また、がん治療と併用する事で大きな力を発揮すると」


「がごめと根こんぶ?」


「はい。昆布の中でもフコイダンの元となる滑り成分は、この種類に多く含まれます」


「そうなのか……」

 木内はレジュメに記載された、大学での研究内容に目を移す。


「その日、研究室に宅配されるはずの昆布が、宅配業者の事故により未着となり、急遽アンテナショップ、道産子うまいもの市で大量購入したようです」


「確かに、すごい量だな」

 木内は、添付されたレシートのコピーを確認しながら言った。


「尚、これ以降の店舗での購入はありませんが、被害者が札幌にある本社との接触が無かったかを現在調査中です」


「ん、それはどういう事だ」

 木内は首を傾げながら新見に問う。


「能無しかよ」

 後方の席で山下が呟く。

「駄目ですよ山下さん、聞こえちゃいますって」

 隣で望月が耳打ちをした。


「大量購入となれば、現地から直接昆布を手配した方が安くあがりますから」

 新見は顔色ひとつ変えず木内に答えた。


「あぁ、……そうだな」


「駄目だこりゃ。望月よ、新見の旦那は苦労するぜ、警部は頭でっかちのすっとこどっこいだ」

「ふふふっ、だからぁ、聞こえますって」

 望月は笑みを抑えながら山下を制した。


「大学教授の話では、この研究に関しては被害者 佐伯を中心としたプロジェクトであることから、詳細に関しては把握はしていないと。また、その後の購入に関しては、事故で遅れていた昆布が、後日搬入された為、次に購入するタイミングとしては九月下旬頃だろうと」


「だから……」


「……そのタイミングでの価格交渉となるかと」


「さすがに警部補も、顔に出ちゃいましたね」

 望月が山下に耳打ちする。

「おい、お前は、俺に似る必要はない」

「えっ……」

 寂然せきぜんと眉をひそめる山下の横顔が、あの日の刹那の表情を思い起こさせる。

(あの苦悩……。故に僕はこの人を憎めない)

 その想いは、望月の眉尻を凛と上げた。


「よし分かった。他に調査中の案件は」


「はい、凶器の登山ナイフについてですが、ハンドル部分に、アイヌ模様を施された鹿皮が装飾されております。民芸品ということからも、犯人は北海道と何らかの繋がりがあると念頭に置いて、ネットでの購入も視野に入れ、出所でどころを捜査中です」



 横浜理工科大学 海洋生物学科研究室


「乾燥昆布を粉砕して、粉末状に加工したものからフコイダンを抽出します。二十五倍の水で練り込み、それを攪拌式熱水抽出機に……」


「ち、ちょっと待って下さい、ちんぷんかんぷんで」

 望月は片手をかざし、研究室学生の説明を遮ると、メモをあきらめ、スマホの録音アプリを起動させた。


「抽出機に適量の水を加えてから八十から九十℃で60から百二十分間、攪拌しながら煮沸し、アルコール抽出タンクに移してアルコールを除去し、濾過抽出された原液を超高速遠心分離機にて分離精製した後、濃縮機にて四から八倍に濃縮するとフコイダン含有濃縮液が完成します」


「はぁ~、手間がかかるものなんですね」


「これだけの設備だ、とはいかねえや」

 山下が研究室を見回しながら口を出した。


「粉砕する前の工程も手間が掛かるんですよ。今回は先生が、を自宅でしてくれましたがね」

 学生が得意気に答える。


「はぁ?」

 山下はあんぐりと口を開け、眉間に皺を寄せた。

(洒落の効いた学生だぜ、ちとウザいが)


「ふぅ、……すると佐伯准教授は、宅配業者から届いた昆布を、一度自宅に持ち帰ったということですか」

 望月が気を取り直し尋ねる。


「はい、何箱かを。これらの昆布は、マンニットが付きすぎているから綺麗にしてくると」


「えっ、マンニット、それはなんですか?」


「昆布の表面に浮き出る旨味成分ですよ、糖アルコールマンニトールといいます。純粋なフコイダンを抽出する際には邪魔になるものですから」


「なるほど」


「いつもは研究室内で、布巾で落とした後に水洗いして使用するのですが、ああ、これですよ。時間が経つとこんな感じで出てきます」

 学生は、保管されていた昆布の切れ端をガラス瓶から取り出すと、望月に見せた。


「これですか。カビのように見えますが、この白いのはうまみ成分なんですね」


「えぇ本来、料理で使う場合は喜ばれるものなのですがね」


「へぇ、そうなんですか。あれ、山下さんどうかしましたか」

 乾燥昆布を見つめたまま、微動だにしない山下に望月が声をかける。


「白い粉、これは……」


 ・・・


「被害者の自宅アパート浴室排水口から、微量のコカイン反応があったようだ。お手柄だったな」


「水に溶かしたコカインを、昆布に噴霧して乾燥させ、付着したものをマンニットに見せかける。手の込んだことをやりやがる。宅配業者に確認したところ、事故により配達されなかった昆布は佐伯により全てキャンセルされていて、後日研究室に届いたものは別の宅配業者からでした」

 山下が新見に報告をする。

「宅配業者は個人事業者を名乗っていたそうですが、詳細は不明です。組織犯罪の可能性が大きいですね」


「ご苦労様、すでに北海道警察本部を通じ、道内各署に通達したそうだ。道産子うまいもの市には札幌警察本部より捜査の手が入った。山下と望月は明日札幌に飛んでくれ、向こうの担当部署には連絡を入れてある」


「私で、良いのですか」

 望月が不安げに山下に問う。


「勿論だ。俺の相棒はお前をおいて他にいない」

 山下は即座に答えた。


「……山下さん」


「ではふたりとも、よろしく頼みます」


「はい! 承知しました」

 新見の言葉にふたりは異口同音で答え、背筋を正した。



「あの、新見警部補」

 会議終了後、望月が廊下で声を掛ける。

「少しお時間を頂けますか、お話したいことが」


「山下巡査長のことか」


「はい、でもどうしてそれを」


「彼が私を疎ましく思っているのは知っている。彼の言動は正直だ」

 新見は後ろ手を組み、意味ありげに苦笑しながら望月に背を向けると、窓の外に目をやった。


「いえ、違うんです。最初はそうでしたが、あっ失礼しました。でも、今ではその逆で。あの人は、そういう人なんです、二年前のあの日から」


 望月の話を聞きながら後ろ手を解き、面と向かうと新見は静かに話した。

「出身は新潟県下越地方の東蒲原ひがしかんばら阿賀あが町。二○○四年に津川町、鹿瀬町、三川村、上川村の四町村が新設合併し発足した自然豊かな町だ、学生の頃に旅したことがある。彼は温泉宿の次男坊、神奈川文理大学在籍中に結婚し婿養子に入った」


「……警部補」


「吉川警部から聞いている、緑署きっての優秀な刑事だとな。巡査二年後、緑署署長の推薦で巡査長となり、嘱望されたが、二年前巡査部長昇任試験の日、愛妻の交通事故で試験を断念した。その半年後、奥さんは帰らぬ人となり、彼はその日から昇任には無気力となる。悪ぶってはいるが、今でも刑事としてのセンスはピカ一だ。愛娘まなむすめは小学三年生……、ん、望月……何を泣いている」


「いいえ……、嬉しいんです。警部補は山下さんを理解してくれている。だから……、ただ嬉しくて……。山下さんは、時々吉川警部にも挑戦的な態度をとったりします。たまに、見ているこっちがハラハラしたりして。でも、警部補に対しては違う気がするんです」


「そうか、望月巡査わかった、よくわかったよ、私も彼に歩み寄るつもりだ。彼の能力に期待している」


「ありがとう、ございます」

 望月は深々と頭を下げる。


 新見は、この若き刑事の一途なさまに口元を緩めた。

「明日は早い、遅れるなよ。山下にしっかり学んでこい」


「はいっ!」



 翌朝

 札幌行 航空機内


「警部補からの伝言です。得心いくまでとことん捜査せよ」


「ん、そうか……」

 山下の脳裏に、所轄の捜査会議で見せた、新見の左の口角を少しあげて微笑する顔が浮かんだ。


「山下さんは文理大出身ですよね。仏教の勉強をされたと聞きましたが」


「まぁな、文学部で仏教学を専攻した」


「そうなんですか。お坊さんになるつもりだったとか?」


「いや、違う」


「では、教育者か何かに……学校の先生ですか」


「あぁ、それも考えたことはある。が、純粋に仏教とその歴史を学んでみたかったんだよ」


「実家は旅館ですよね、どうしてまた」


「子供の頃から家業は兄貴が継ぐのだと教えられていた。いや、教えられたと言うよりも、両親の期待が俺に無かったのを子供ながらに認識していた」


「そうだったんですか」


「お陰で俺は、何の縛りもしがらみも無く、自由にやらせてもらったがな」


「目に浮かぶなぁ。新潟の大自然の中で野山を駆け巡ったり、川に飛び込んだり。さぞ、ガキ大将だったんでしょうね」


「へへっ、そう見えるかい。実はまるっきりその逆だ。卑屈で地味なガキだったよ、独りでいるのが好きだった。実家の近くに古寺があってな、暇さえあれば遊びに行っていた。仏教に興味が出たのはその頃からだ」


「へぇー、子供の頃お寺って、薄気味悪い印象の方が強かったけどな」


「まあ、俺もそうさ。しかしそこが、平等寺薬師堂という面白い寺でな。境内には樹齢千四百年の、将軍杉と呼ばれる日本一でかい杉の木があってさ、幹の窪みが丁度リクライニングチェアーのようで。家で嫌な事があると、いつもそこに座って居眠りをしては和尚おしょうに怒られて」


「想像出来るな。山下さんて、孤独を愛する雰囲気ありますもんね」


「その寺は『落書庵』と呼ばれてな、柱や壁に会津芦名家落武者の落書きが残されているのさ。一般客は見ることが出来ないが、和尚は落ち込む俺に話して聞かせたよ。人の持つ、ごうの奥深さを学んだ気がした」


「そうだったんですか」


人生意気じんせいいきに感ず、功名こうめいたれた論ぜん」


「それは?」


「和尚が教えてくれた漢詩さ。人間とは意気に感じてこそ動くもの、功名など誰が問題にするものか。人は利害や打算で行動するのではなく、相手の心意気に感動して動くものだ、ということだ。つまるところ人が幸せを感じるのは、成功して名を上げることよりも、自分を期待したり心配して、見ていてくれる人がいるってことじゃないかな。人生をそういう風に捉えると、子供ながらに世界が違って見えてきた……」


「ん、やました、さん?」


「大学時代めぐみに……女房に出逢った。そういう人に、初めてな。へへっ……、仏教の教えとは、経典を読み見地を豊かにする。二千五百年の昔にその土台が作られた経典は、単なる古典ではない。そこから、考えるヒントや今を生きるヒントを得ることが出来るんだ。女房を失って、和尚の言葉を思い出した。今、俺には娘がいると」


「良いお話ですね……」

 望月は声を殺し咽び泣いた。


「……新見の旦那もな」

 最後に山下は、ぼそっと呟いた。



 了


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

敬仰/新見啓一郎の事件簿より 麻生 凪 @2951

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ