午後6時40分から7時ちょうど

 5月2日午後6時40分。ニューラグーン大学の学生寮の1つ、睦寮。ニューラグーン大学は幼稚園から大学までエスカレーター式の市内最大の教育機関である。

「ああ、ほんとにまいったな」

「どうしたの?」

「いや、この前さあ……」

「うん? 何の話だっけ?」

「ほら、あれだよ……えーっと……そうだ! あの話!」

「あの話ってどれだよ!?」

「だからぁ~、あれだってばぁ!!」

「もう、わかんないよぉ!!」

「俺もわかんねぇんだよ!! とにかく、俺はあの話がしたいんだ!!!」

「じゃあ、はっきり言ってくれよ!!!」

「そう言われても困るんだけど……うーん……。まあいいか。とりあえず、あの話をしようぜ」

「わかったよ。で、どんな話なんだ?」

「それは……忘れた」

「はあっ!? なんでそんな大事なことを忘れちゃうわけぇ!?」

「仕方ねーじゃんか。思い出せないものは思い出せないんだから。でも大丈夫だ。問題はない。なぜなら……」

「なぜなら?」

「今からお前が話すからだッ!!!」

「ええっ!? ちょっと待てよ!! それどういう意味!?」

「いいから早くしろ!! そして語れ!! お前自身の物語を!!さあさあ、遠慮はいらないぞ!! 存分に語るがよい!!」

「お断りします!! 僕は語りません!! 絶対に語りません!!」

「なぜ断るのだ!? 恥ずかしいのか!?」

「そういう問題じゃないし!! 」


 5月2日午後6時41分。南海市場。

 睦寮は2階建ての建物の2階にあって、1階は南海市場という店になっている。

 南海市場はいわゆるお土産屋である。

 カラン

「すいません、探しているものがあるんですが」

「はい、なにをお探しでしょう?」

「えっと……この辺の地図ってありますか? できれば縮尺の大きなものがいいのですけど」

「ああ、それでしたらこちらになりますね」

 店員についていくと、そこには色とりどりの世界地図があった。

「わぁ! きれいですね!」

「はい、こちらは世界中から取り寄せた地図を展示しておりまして……」

「あのー、これください」

「ありがとうございます!」

「あ、あと、ここらへんでおすすめのお店とかあったりします?」

「そうですねぇ……。近くに牛笑という焼肉屋さんがありますし、ここからだと少し遠いかもしれませんが、居酒屋華というところがありますよ」

「じゃあそっちに行ってみようかな」

「では、楽しんできてください」

「はい!」


 5月2日午後6時45分。大学警察。

 ニューラグーン大学にある警察支所は通称大学警察と呼ばれている。

「ここら辺ですか?」

「はい」

「それで、何を無くしたんですか?」

「財布です……」

「財布を……?失くしたのはいつ頃なんでしょうか?」

「昨日なんですよね……。講義が終わってから気付いて……でも、今日も来てみたらいなくなってたんですよ!」

「えっとですね……。一応お聞きしますけど、盗まれたという可能性はないのでしょうか?」

「ないと思いますよ?僕はいつもカバンに入れてましたし!だから盗られたってことは考えにくいと思うんですよね……」

「分かりました。それでは中を確認しますね?」

「はい……」

「あの……。この財布ってあなたの物で間違いないんですよね?」

 受付の制服警官は目の前の生徒に質問する。生徒の隣には別の生徒がいたのだ。そして彼はこう答える。

「そうですけど……。何かあったんですか?」

「この財布の中に入っている学生証があなたのではないのですが……。どうやらあなたの名前になっているようなのですよ」

 するともう1名の生徒は不思議そうな顔をして言う。

「おかしいな……。僕の学生証はこの方の学生証と名前が違うはずなのにどうしてそんなことになっているんだろう……」

 すると生徒は少し焦った表情で言う。

「えっ?ちょっと待ってください!それは本当に僕の学生証じゃないんですか!?」

 すると制服警官は首を横に振った。

「残念ながら違います。中身の方も確認させていただきました。間違いなくあなたとは別人のようです」

「そんなあ、僕の財布だったのに……。まさか偽者の学生証を入れられていたのか……?」

 2名の生徒が困っている様子を見ていた制服警官はすぐに二人の元へ近寄ると笑顔でこう話す。

「どうかしましたか?」

「実は……その……」

 事情を説明するとその警官は納得していた。

「なるほどそういうことですか。安心してください。きっと見つかるように手配いたしますので」

「本当ですか!?ありがとうございます!!」

 かれらは感謝の言葉を伝えるとその場を離れていった。


 5月2日午後6時47分。結城ハイツ202号室。

 レフはフンッフンッとスクワットをしている。

 かれは筋肉を鍛えるのが好きである。

 今も、こうしていつものルーティンをこなしている。

「ふぅ」

 と息をつく。

 それから彼は鏡の前に立ち、ポージングを決める。

 いわゆるボディビルダーがやるやつだ。

 上腕二頭筋を強調するポーズを取る。

 そして、ニカッと白い歯を見せて笑った。

 爽やかな笑顔である。実にいい感じにキマっている。

「さて……今日も一日頑張るかにゃ!」

 そう言うと、シャワーを浴びるために浴室に向かった。

 服を脱ぎ捨てると、全裸で浴槽に浸かる。

「あぁ……気持ちいぃ……」

 風呂から出ると、バスタオルで体を拭きながら洗面台に向かう。

 ドライヤーを手に取り髪を乾かしていく。

 ようやく髪の毛を乾かし終えると、今度は髭剃りを始める。

 鼻の下だけではなく顎にも当てていく。

 慣れた手つきでテキパキとこなしていった。

 最後に顔を洗い流す。

 顔を上げるとそこにはイケメンの顔があった。

「よし!これで俺様の完成だにゃ!!」

 鏡の前で自分の姿を見ながら満足気に呟いた。


 5月2日午後6時49分。火災現場。

「つまり、自分たちに代わって現場を調べるってコトッスね」

「はい」

 突然彼女たちに代わって現場を掌握し始めた黒スーツの男に向かってアキは訊く。

「それであなた方は誰っスか?」

「市の総務2課、入江です。捜査のお手伝いを命ぜられましてね」

 総務2課とは、公務員とは名ばかりの、いわゆる闇の何でも屋である。

(ゲッ、つまりは事件ってことっスか)

 そう察して、アキは男に言った。

「わかりました。後はそちらにお任せするっス」

 それに対して、男はウンザリするほど嫌みで丁寧な会釈で返す。


 5月2日午後6時50分。ホテルカチューシャ305号室。

「はいじゃあ。次の問題ね。おおよその数を求めるときに、必要な位の1つ下の……」

 ピーン

「……忘れたのだ」

「ブー。正解は四捨五入。……眠い?」

 春香に訊かれた坊ちゃんは、首をあちらこちらユラユラしながら返す。

「眠いのだ……」


 5月2日午後6時55分。結城ハイツ203号室。

 ジェルーンは夢を見ている。夢の中、彼の身体が重力の束縛から解き放たれたかのようにふわりと浮き上がっているのだ。しかしそのことに不思議さや不安を感じない。むしろそれが当然であるような感覚すらある。

 彼は自分の肉体を上から見下ろしていた。まるでビデオカメラで撮影した映像を見るように……いや、それとも少し違うか? ジェルーンは自分の手足がどうなっているのか確認しようとしたが、何故かうまく見ることができなかった。しかしそれでもいいと思った。今見ている光景が自分の目で直接見ているものなのか、それともただのイメージに過ぎないのか、そんなことはどちらでもよかった。ジェルーンにとって大切なのはこの夢の中でなら自由に動くことができるということだった。そのことがわかれば充分だ。

「さて……」

 ジェルーンは呟いた。そしてゆっくりと周囲を見回した。そこは彼が住んでいるアパートの部屋ではなかった。自分が暮らしている部屋よりもずっと広い空間が広がっている。薄暗いその場所には家具のようなものは何も置かれていない。

 ここはどこだろう? ジェルーンはそう思ったが、同時に答えは既に出ているという確信もあった。何故ならばこの空間に漂う空気感には覚えがあるからだ。ここは間違いなく彼の心の中なのだ。

 するとその時、不意にあるイメージが浮かんできた。それは自分に向かって微笑みかける女性の姿であった。彼女は白いワンピースを着ており、その表情はとても穏やかで優しげなものであった。ジェルーンはその女性のことを知っているような気がしたが、具体的に誰であるかを思い出すことはできなかった。

 その女性が一体何者であるのか、自分は彼女のことをどれほど知っているのか……ジェルーンはそのことを確かめようとして意識を集中させようとした。だが次の瞬間、その女性は跡形もなく消え去ってしまった。それと同時にジェルーンの中にあった疑問も霧散してしまった。

 まあいいか……。ジェルーンはそう思い直して再び周囲を見渡した。やはりこの場所に見覚えはない。しかしここが心の中の世界であるという実感だけは確かに存在している。

 では、どうしてこんな場所にいるのか? その理由については既に理解している。ジェルーンは今まで自分が行ってきた行動を思い返した。そうだ、きっとあれが原因に違いない。

「そろそろ時間かな」

 ジェルーンはそう言って歩き始めた。一歩踏み出すごとに地面を踏みしめる確かな手応えがあった。

 そうしてジェルーンは目覚める。


 5月2日午後6時57分。睦寮。

 むかしむかしのはなし。

 リンクス子爵というものがいた。この男、たいへんなうぬぼれやで、いつも自分のことを世界一の大人物だといっていたそうだ。そしてある日のこと、彼はこう言ったという……。

「わしがもし死んだら、墓に『世界の英雄』と書いてほしいものだ」

 するとその夜のうちに、彼の言葉どおりになったのだ! 翌朝、彼が目をさましてみると、ベッドの上に一枚の紙が落ちていた。その紙には、次のようなことが書かれていたそうな……。

「あなたの願いをかなえてさしあげましょう。ただし、わたしと契約なさったあと、あなたは二度とふたたび死ぬことはできませんよ」

 これを読んだとき、リンクスは大喜びだった。だが、しばらく考えてから、ふとあることに気がついた。それは、『二度とふたたび死ねない』ということの意味だ。つまり、生きているかぎり、ずっと生きつづけなければならないということである。それでは困るではないか? そこで、リンクスがもう一度手紙を読みなおしてみたところ……そこにはさらにこんなことが書かれているだけだった。

「契約なさらないなら、お好きなようになさいませ!」

 こうして、リンクスは死んでしまった。しかし、死後もかれの人生はつづいた。なぜならば、かれはすでに一度死んでいて、それから永遠に生きることになっていたからだ。

 だから、かれにとっての死とは、肉体的なものではなく、ただ単に意識を失うだけのものだったのだ。

 ……ここまで書いて、カナタはあることに気づいた。

「あ、主人公死んじゃったじゃにゃいか!」

 カナタはニューラグーン大学の創作ゼミの生徒だった。今日が卒論用の小説の冒頭を提出しなければならないのだが、かれは未だ出来ていない。

「ど、どうすりゃいいにゃ?」

 カナタは前足で耳を掻きながら、苦悶している。


 5月2日午後6時59分。大学警察。

「ようやく、終わった〜」

 制服警官がデスクで引き続きの書類を作りおわった。

 これから非番で、1日休みになる。

「ふぅ」

 彼は背伸びをして、帰ろうとしたその時だった。

 電話が鳴った。

「はい! こちらニューラグーン大学警察支所です!」

『あーもしもし? 私だ』

「……えっ?」

 その声は聞き覚えがあった。

 ついさっきまで一緒にいた人物のものだったからだ。

「もしかして、先輩ですか!?」

『ああそうだよ。お前の先輩だよ!』

「どうしたんですか? 急に……」

『今からそっちに行くぞ』

「はい……って、えぇぇ!! なんでこっちに来るんですか!!」

『もうすぐ着くと思うけどなぁ〜じゃ、また後ほど〜』

 ブチッと切れた。

「まさか……嘘だろう?」

 彼の予感は的中する。

 5秒もしないうちに、そこから見知った人物がやってくる。

「やあやあ後輩君♪」

「せ、先輩……何やってるんすか?」

「決まってんだろ? サボりに来たんだよ!」

 ドヤ顔で言う彼女。

「堂々と言わないでくださいよ……」

「いいじゃん別に〜今日ぐらい許してくれよぉ〜」

「まあいいっすけどね……」

(この人には敵わないな)

 そう思った彼であった。

「ところで、なんでここに来たんですか?」

「そりゃもちろん、後輩君のところへ来るためだよ」

「俺に会うためにわざわざここまで来たってことですか?」

「そういうことだ。それに、ここには私の好きな場所があるからな」

 彼女は大学警察の建物をぐるっと見て言った。

「ここはいつも人があまりいないから落ち着けるんだよ。だから私はよくここに来て仕事してるわけだしな」

「そうなんですね」

「まあそんな話は置いといて、とりあえず行こうぜ!」

「どこへ行くんですか?」

「飲み屋だ!」

「はぁ……やっぱり飲む気満々じゃないですか」

「当たり前だ! せっかく給料日なんだしな!」

「はいはい、わかりましたよ。行きましょう」

 2人は居酒屋華へと向かった。


 5月2日午後7時ちょうど。ホテルカチューシャ305号室。

「はーい、帰ってきたよ……。あれ?」

 買い出しから帰ってきたスナちゃんは、勉強会が終わってることに気づいた。

「シー、今寝たところなんだ」

「わかった、寝ている間にご飯食べとこう」

 ヒソヒソ相談している春香とスナちゃんのかたわらで、坊ちゃんが幸せな夢を見ている。

「ムニャムニャ、もう食べられないのだ」

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