1-10 Unescapable past

 来店するなり、いきなりその鋭い目を俺に向けてきた女性はスナックには到底似つかわしくないブラウンのビジネススーツで全身を包んでいた。その右手には俺でもわかる高級ブランドのハンドバックを、左手には右手の物とは世界観が違うスーパーのレジ袋が握られていた。


「お久しぶりです。お元気そうでなによりです」


 傍から見れば最低はOLの独身、最高で家族持ちの女性社長に見えなくもない。しかし、それは見た目だけ。中身はそんな平和とは程遠い事を俺は知っている。


「あんたのお陰で元気にならざるを得ないんだよ!! まったく、面倒なことだけ残して」

「面倒?」

「あの後の事後処理。誰もいなくなっちゃったから私が全部やったんだよ!!」

「あー……。それはごめんなさい」

「ごめんで済むなら世の中はもっと平和だね。それで? 急に姿を表してどうしたのさ?」


 ママさんはカウンターの方に入っていき、手洗いをしてビジネススーツの上から割烹着を着た。ママさんの恰好はもう和洋折衷を飛び越えてしまっている。和の良さと洋の良さが喧嘩しあい、悪い面だけが抜き出ている。ビジネススーツと割烹着の合わせ着ってこんなに似合わないんだ。ママさんはカウンター下から包丁を準備するとレジ袋から色々な材料を取り出して料理の下準備を始めた。


「それは色々あって」

「ふぅーん。それで今日は何の用?」

「実は……」


 とりあえず事のあらましをママさんに全て話した。ママさんは話が終わると包丁を置いてまたこいつは……という顔でこちらを見てきた。


「何です?」

「いや、変わってないんだなと思ってさ」


 そう言いながらママさんはパスタ鍋に大量の水を入れて沸かし始めた。何を作ってるのか気になり、体をカウンターに少し出すとフライパンにはミートソースが、タッパーには豚肉が揚がる直前の状態にそれぞれ準備されていた。


「えっ!! もしかして今スパカツ作ってます?」

「うん」

「もしかしてマジで作ってくれるんですか?」

「アンタがない?って聞いたから作ってるんでしょうが」

「いつもみたいに断られるかと思ってました。まさか、ママさんのスパカツが食べられる日が来るとは…。どういう心境の変化? 此処はスナックだって言っていっつも作ってくれなかったじゃないですか?」

「簡単なことさ。此処は私の店じゃなくなったからね。雰囲気が壊れても私には関係ないからね」


 それを聞いて店員、美紅といったか、は嫌な顔でママさんに苦言を呈した。


「いや、ママ。私には関係あるんだけど」

「うーん。聞こえないね」

「もう!!」


 と言いながら苦言とは裏腹に美紅はママさんを止める様子はない。ママさんが好き勝手するのはいつもの事で、美紅も慣れているのだろう。


「もう此処がママさんの店じゃないっていうのは?」

「あぁ、店変えたの。今はRエリアの方でやってるから今度時間あるときにでも顔出しなさい」

「Rエリアで?」

「さっきも言ったけどアンタが残した後処理の影響でね。仕方なくRの方で店を開かざるを得なかったの」

「それは色々と本当にご迷惑を……」

「本当にね」


 パスタを塩を入れたお湯で茹でながら、トンカツを揚げるための油を準備しながらママさんは話を続ける。


「それで最近の内情だっけ?」

「そうです」

「内情自体は少し変わっただけで、大まかには変わっていないわ。去年の一件から余計な干渉はするもんじゃないって学んだからね。変わったのはRエリアの統率が弱くなったくらいかな」

「Rエリアは首長の権力一辺倒って感じでしたからね。そうなるのも無理は無いか。他には?」

「最近一旗揚げようとヤンチャをしている連中がいる。多分アンタが話してくれた奴らと一緒だね。三エリアを自由に荒らしてくれるもんだからこっちでも問題になってきてる」

「荒らすって……一体何を?」

「連中、変な商売してるみたい。ウリとかヤクとか。そのせいで人がそっちに流れちゃってる。うちのお客さんの中にもそっちに流れちゃった人もいるし、商売あがったりだよ、全く。警察に通報しても捕まえられなかったで終わりだし。監視カメラ役に立ってないじゃない」

「……」


 その監視カメラはもう既に死んでいる。期待するだけ無駄だ。この事実を言うべきか一瞬迷ったが、止めておいた。伝えたところで何かあるわけじゃないし、そこから情報が洩れてパニックになられるのも困る。俺の胸の内に秘めておこう。


 ママさんが油の中に菜箸を入れて温度を確認すると、箸先から大きな泡が幾つか上がってきた。おおよそ160℃から170℃といった所か。温度を確認してからママさんは音を立てずにトンカツを油の中に沈めた。カツは音を立てながら少しずつきつね色を付けていた。


「連中がよく表れる場所とか知ってます?」

「Kエリアによく表れてるみたい。連中の商売的にもKエリアとは相性が良いしね」

「じゃあKエリアで探してみるか」


 連中と一緒に小倉がいる可能性も高いだろうし、まずはKエリアで探索してみよう。もし小倉が一緒に居なくても何かしらの情報は持ってるはず。とりあえず目的地は決定だ。


「しかしKエリアはなぁ……中々居心地が悪いんだよな」

「何でさ?」

「一番欲望が剥き出しになってるから。人のそういう欲望を見るのって結構体力使いません?」

「全然。むしろ、私はそういうのが好きな方だわ。だから、スナックなんてやってるし。そういう関係の話を聞くのも面白いわよ」

「そりゃママさんはそうだろうね。これは話す相手を間違えたな」


 人の欲望を見るのには覚悟と体力がいる。欲望を否定している訳ではない。俺にだって欲はある。けれど、人の欲はあまり人の前で晒すべきではないと俺は思う。人の欲は何人にも冷やされない程の熱を持っているゆえに、熱に焦がされる。そして、その熱は人一人では終わらない。熱は人に伝播していく。伝播していき、最後には到底信じられない馬鹿みたいな結果に終わる。人は熱に浮かれ、浮かび、焦がれ、焦げてしまう。その結末が幸せに終わることは決してない。良くてビター、最悪は想像通り。俺が知っている限りではそんな結末で終わってしまっている。


「でも理解できない訳じゃない。そういうのが苦手だっていう客も何人もいるしね。アンタの反応はいたって普通だわ。でも」

「でも?」

「欲望が一番金になる。覚えておいた方が良いわよ。将来アンタを助けるのは欲望。善意とか、恩じゃない。これだけは絶対に変わらないわ」


 重い説得力を持ってその言葉は表れた。果たしてその言葉は経験か、それとも教訓か。どちらかは分からないが、それでもその言葉は俺の心に居残った。


 カツは綺麗に揚がり、バットの上に周囲に程よい熱を発して鎮座している。包丁で切ると耳に心地好い音を立て、その断面には余計な色は見えない。そこからのママさんの行動は早かった。茹で上がったパスタを熱した鉄板の上に乗せ、揚げたてのトンカツ、大量のミートソースの順に上からかけていく。カツの上に乗り切らなかったミートソースが鉄板皿に垂れパチパチと周囲にはじけ飛んでいる。


「はい、お待たせ。味わって食べなよ?」


 ママさんはどうだと言わんばかりの顔で俺に鉄板皿と紙エプロンをこちらに手渡してきた。受け取った紙エプロンを制服の上から着用し、食べる準備を終える。目の前の食事に焦点を合わせて、手を合わせる。


「ほんじゃあ、いただきます」

「どうぞ。召し上がれ」


 鉄板から跳ねる油をエプロンでガードしながらフォークでカツとミートパスタを一緒くたにして、口に放り込む。しかし、それが失敗だった。


「あっつ!!」


 第一声をくだらない形で消費してしまった。普通に考えてみればそれもそうだ。スパカツは熱々の鉄板の上でずっと熱し続けられている。それも一番最初の一口なんて熱い決まっている。そのまま食べてしまえば火傷は必須。食べる前に息でも吹きかけて冷ますべきだった。


「そりゃそうでしょうよ。なんで一気にいくかね?」

「だって美味そうだったし……」


 下に残るジリジリとした痛みを反省として刻み込み、一度冷ましてからもう一度口にする。運が良いことに舌は味を感じてくれた。サクっと音を立てて歯で嚙み切れるトンカツにトマトの微かな酸味と熱することで生まれる優しい旨味に、それらを存分に吸い切ったひき肉、コンソメのギュッと濃縮された野菜達の複雑な甘みと旨味が混ざりあったミートソースがよく合う。ミートソースには深いコクもあり、トマトとひき肉、コンソメの味だけでなくソースの中に溶け切った玉ねぎの甘み、形が揃い食感によいアクセントが広がり口を楽しませてくれる人参を口の中で感じられる。しかし、これらだけではこの深いコクは表れない。きっと隠し味にはウスターソースを使っているんじゃないか?いや、それだけじゃない。恐らく赤ワインも使っている。


 伝えるべき言葉はたった一つ。


「美味い!! やっぱりママさん料理上手いわ」

「ありがとう。ほら、冷めないうちに食べちゃいな」


 照れているのか、それとも正常運転なのか、ママさんは俺の方を一切見ずに調理に使った器具の清掃を始めた。一切こちらに目を合わせないところを見ると、照れていると見ても良いんじゃないだろうか。


 冷めないうちにどんどん口にスパカツを放り入れていく。折角の出来立て、それもわざわざ作りに来てくれたのだ。冷まして食べるのは失礼に値する。勿論、放り入れているとはいえ、きちんと味わっている。


「やっぱり……もう!! ママ!! 店の中がスパカツのにおいでいっぱいになっちゃったじゃない!! 此処はスナック。食堂じゃないの!! はぁ……だから止めたのに……」

「そんな事言われても私は悪くないわよ。悪いのはそこの男」

「いや、俺!?」


 確かにスナックにはあるまじき揚げ物のにおいとミートソースの香りが店いっぱいに広がっている。確かにこの惨状ではスナックではなく、食堂か何かだと勘違いしてもおかしくはない。現に入り口付近から腹減ったなぁという声が幾つか聞こえる。店内の他の客も俺のスパカツを羨ましそうに見ている。こうしてしまったのは間違いなく俺が原因だ。


〈スナックは食堂じゃなくて、大人の憩いの場〉心のメモ帳にそう記していると、恨めし気な顔で美紅は俺を見てきた。


「……君、名前は?」

「俺?」

「他に誰がいるのよ?」

「和島。和島 雄介」

「雄介、今度うちでバイトしなさい。本当のスナックが何か教えてあげる」

「いや、俺知っ……」

「知ってる人はスナックでスパカツなんて頼まないの!! 分かった?」

「……はい」


 なんだかなぁ。理不尽な事故にあった気分だ。言うなれば、歩行を歩いていたのにバイクが突っ込んできて、それをギリギリでかわせたと思ったら横からロードバイクで轢かれた気分だ。


 そんな俺を見て、ママさんは軽く口で笑っている。


「良かったじゃない。バイト先見つかって」

「勘弁してくださいよ……」


 気が付けばスパカツは半分以上無くなっていた。6切れあったカツも残り二つだけ。後は三口、四口で食べ終わってしまいそうだ。それを感じて食べきってしまうのが少し名残惜しい。しかし、冷ますのも馬鹿らしい。別れを決め、だが、味わいつつ口に入れていく。


 あっという間にスパカツは食べ終わり、残ったのは空になった鉄板だけ。もう一度手を合わせ、感謝を表す。


「ご馳走様でした。美味しかったです」

「そう? それは良かった」


 情報も手に入った。腹も膨れた。後はするべきことをするだけだ。


「それじゃあ色々とありがとうございました。また今度来ます」

「今度は私の店においで。アンタならすぐに分かるから」

「? 分かりました。それでスパカツの値段って幾らです?」

「いいよ。払わなくて」

「えっ。いや、それは申し訳ないから払いますよ。…色々と迷惑をかけましたし」

「いいって」

「いや、払いますって」


 そうして、俺とママさんの払う、いらないの押し問答が何度か続いた。俺もこれは負けるわけにはいかない。俺にも男としてのプライドがある。まだ高校生だけどこれくらいは分かっているつもりだ。しかし、どちらも折れることはなく、ママさんは俺に折衷案を出してきた。


「はぁ……分かった。じゃあこうしよう」

「?」

「私が質問をするからアンタはそれに答える。それでスパカツは無料にする。これででどう?」

「でも……」

「そもそもメニューにスパカツなんて無いんだ。スパカツの金額が出て来られても後で面倒になるだけだから、これで納得してくれない?」

「そういう事なら」


 若干まだ納得はいかないが、面倒になるというなら俺が折れるしかない。今回浮いた分はまた来て此処で消費しよう。自分でそう納得させて、この話を飲み込むことにする。


「それで質問は?っていっても、そんなにお互い知らないことは無いでしょ」

「アンタあの子の墓参りに行かないの?」

「……その質問は予想外だったなぁ…」

「行かないの?」


 ――逡巡。そして、拒否。


「申し訳ないけど、行きません」

「理由は?それなりの理由がないと怒るよ」

「……ダメなんです」

「何が?」

「俺にはまだ無理です。今更俺があいつと会って良いか分からないし、それにまだ何も決まってない。あいつと今度話すときは俺の夢が決まった時か、俺が死んだ時か。そう決めたんです。だから今はまだ」

「……そう。なら良いわ。でも、何時までも逃げられる訳じゃあないからね」

「!! 俺は逃げてなんか」

「逃げてるでしょう。少なくとも私にはそう見える。いつかは経験することに何時までも囚われちゃダメだからね」

「……」

「ほら、もう行きなさい。アンタにはすることがあるんでしょう? 聞きたいことも聞けたし、私ももう用はないわ」

「……色々とありがとうございました。それじゃあ」


 出口になったドアを通り、外へ出る。外では濃い霧が辺り一体に広がり始めていた。光も人も飲み込む濃い霧だ。その霧が今はとても嬉しい。いつもなら憎むだけだが、今だけは俺の表情を隠してくれるから。

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