1-2 Reality Check
次の日、朝起きると我が家は喧しかった。二階の俺の部屋まで聞こえてくるほどの声だ。朝から一体何をしているんだ?
「あんたこの成績はなんなの? クラスの半分以下って本当に勉強したの?」
「したって‼ それでもこの点数なんだよ‼」
「してこれな訳がないでしょ‼ もっと本気になりなさい‼」
中学一年生の弟と母親の喧嘩だった。どうやら最近会った学力テストが良くなかったみたいだ。最近中学に上がった弟は小学生の勉強と中学生の勉強のギャップについていけないようで、小学生の頃のようにテストで高い点数を取ることがなくなっていた。
「二人とも朝から煩い。母さん、過ぎたことを言ってもしゃあないだろ。ヒロもテスト前に友達と遊びに行ってたろ?それはダメじゃないか?」
「兄貴……だって」
「だっても何もない。次はちゃんとしろ。わかったか?」
「……分かった。次はちゃんとする……」
ダメだこりゃ。すっかり不貞腐れている。後でもう一度話さないと。ったく朝からなんでこんなことをしなきゃいけないんだ?
「母さんも朝からそんなにキレてると夜まで持たないよ? 怒るのは良いけど感情は少し抑えよう?」
「何回も言ってるのにわからないヒロも悪いでしょ。それともあんたはヒロの味方なの?」
「どっちの味方でもないよ。誰かの味方をするのは嫌いなんだよ」
「ヒロ、次はちゃんとしなさいよ。じゃないとスマホ没収するからね」
「そんな……それだけは」
「ならきちんとしなさい」
そういうと眉間にしわを寄せていた母さんの顔が緩んだ。どうやらこの話は此処で終わりにしてくれるみたいだ。助かった。朝からそんな話を聞きながら朝食は食べたくはない。朝はゆったりとした気分で飯を食べたい。
二人はお互いに言いたいことを言い終わったみたいで黙々と朝食を食べ始めた。我が家の朝食は自分で食べるものは自分で用意するスタイルだ。誰も準備はしない。各々が食べたいものを食べる。母さんは朝食にはご飯派だから白ご飯とみそ汁、それに明太子を準備して食べている。ヒロはパン派だからか食パンをきれいにトースターで焼き上げ、その上にマーガリン、目玉焼きを乗せて食べている。どちらも魅力的だ。
俺は朝は食べられれば何でも良い派だ。時間を見ると七時三分。本格的に作る時間はない。四十分には家を出ないと学校に間に合わない。
今日は白ご飯にしよう。茶碗によそえばすぐに食べられるし、腹持ちもいい。みそ汁はインスタントを用意して母さんの明太子を少し貰おう。炊飯器の中を見るとちょうどひとり分のご飯が残っていた。
自分の茶碗に残りを全てよそい炊飯器を空にする。炊飯器が空になるとどこかスッキリとした気分になるのは俺だけか?
一口米を食べてみると、柔らかすぎず固すぎない良い塩梅で炊きあがっており、米を炊いた人の水分調整技術がうかがえる。インスタントみそ汁は朝餉のみそ汁を準備する。インスタントの中では朝餉のみそ汁が一番の好みだ。出汁が強めのみそ汁で具も麩というところが良い。お椀に味噌と出汁粉末、具を入れ沸騰させたお湯を入れる。この時にお湯で味噌とカツオ出汁が溶けていく匂いがたまらない。
朝食の準備はできた。早く食べて学校に行く準備を済ませてしまおう。熱々のご飯の上に明太子を乗せ、ご飯を食べる。ご飯の甘みと明太子の塩辛さが混ざりあいご飯を食べるのが止まらない。それに、口をリセットするみそ汁も口に含めばそこは天国だ。味噌と出汁が混ざり合い、口に出汁と味噌の旨味を届けている。至福の時だ。
「今日は母さん何時に出勤?」
母さんの仕事は保育士だ。しかし、普通の保育士ではなく障がい児保育専門だ。仕事の性質上、出勤時間が決まっておらず早番や遅番などバラバラだ。もし遅番なら今日の夕飯は俺が作ることになる。
「今日は九時出勤。だから、遅くても十八時には帰ってくると思う。夕飯何が良い?」
「俺は魚かな。サバが良い。ヒロは?」
「俺も魚が良い。でもサケが食べたい」
「分かれちゃったか。じゃあ今日は安かった方の魚にする」
「分かった。ヒロは? 今日何時に学校終わるんだ?」
「部活もあるから七時に帰ってくるかな。兄貴は? 今日バイトは?」
「俺か? 今日はバイトはないし、学校も特に用事がなかったら五時には帰ってきてると思う」
「そっか。そういえば兄貴は結局どうするの?」
「どうするのとは?」
「進路だよ。ほらもうそろそろ進路を決める時期だし、兄貴はどうするのかなって」
「また進路の話だよ…」
「私も聞きたかった。アンタ一体どうするの? 家の家計的には就職してくれると助かるけど。別に進学してもいいけどね」
気持ちを落ち着かせるべく、お椀を持ちみそ汁を口に運ぶ。みそ汁が喉を通り、胃を温める。少し気持ちが落ち着いたが、完全には落ち着いていない。慎重に脳から言葉を引っ張り出す。
「……まだ決まってない」
昨日寝る前も考えたが思いつくものはなかった。進路を決めなけれないけないことは分かっている。けれど、すぐには決められそうにない。こればかりは仕方がない。勘弁してくれ。幸いにも今週いっぱいは猶予がある。もう少し考えてもいいはずだ。
「早く決めなさいよ。じゃないと中途半端に終わるよ」
聞き覚えがある言葉。聞き慣れた言葉。そして残念ながら説得力がある言葉。ウンザリだ。
「分かってる。もう少し悩ませて欲しい」
期限があるのは知っている。それでももう少し悩みたい。やりたいことがあるわけではないが、それを理由にして中途半端な選択だけはしたくない。
そうして朝食の時間は過ぎていった。皿も洗い、身支度を整えて軽くヒロと話をしたら時刻はもう七時三十分。そろそろ家から出ないと。
家の倉庫からママチャリを取り出す。家から高校までは自転車で四十分かかる。今日は雨が降っていないから自転車で行けるが、もし雨が降っていたら一時間に一本しかない朝早いバスに乗るしかない。バス通学も良いなと高校一年の頃は思っていたが、そんな思いはすぐに打ち砕かれた。
まず朝来るのが早すぎる。七時十五分に高校行きのバスが家の最寄りのバス停に停車する。それを逃してしまうと遅刻確定だ。そして一番の問題はバス代が高すぎるのだ。家から高校までの片道で四百二十円。往復にすると八百四十円。それを五日続けると四千二百円。一か月で約一万七千円かかる。これは痛すぎる出費だ。自転車で行くだけでこの出費を抑えられるなら誰でも自転車登校を選ぶはずだ。
本当はバスでも自転車でもないもう一つの手段があるのだが、そっちは色々あって今は使えない。そっちが使えたらずいぶん楽になるんだけどな……。
タイヤの空気が抜けていないかを確認してからサドルにまたがる。ここからは黙々と自転車をこぐだけだ。自転車を漕ぎながら眺める風景も約二年半を見続ければ見飽きてくる。
しかし、無心で学校に行くのも馬鹿らしい。幸いにも考えることはある。あまり考えたくはないことだけれど。
時刻は八時二十分。色々と考えていたら少し遅くなってしまった。四十分も自転車を漕げば汗は自然と出てくる。校門前で自転車から降り、駐輪場まで自転車を押しながら歩く。
俺が通っている高校は今時珍しく原動機付自転車での登校が認められている。そのため、駐輪所には自転車のほかに原付が一緒に駐車されているのを見ることができる。
駐輪所に自転車を駐車させていると、聞き慣れた声が後ろから聞こえてきた。
「おはよう。相変わらず辛気臭そうな顔してるな‼」
朝にもかかわらずこの元気そうな声は長年の腐れ縁の
「おはよう、学。お前も同じような顔だよ」
辛気臭そうな顔って……。朝からなんだってそんなことを言われなければいけないんだ?若干イラっとした俺はその言葉をそのまま返してやった。
「そんなわけがない。なんたって今日は給料日だぜ‼ 辛気臭くなるわけがないだろ?」
嬉しくて堪らないといった様子で学は上機嫌そうに顔を緩ませていた。
「そんなに嬉しいってことはどんだけ働いたんだ?」
「うーん。週五で五時間だから……九万ちょいかな」
九万‼それは嬉しくもなる。九万もあれば高校生なら何でもできる。
しかし、分からないのがこいつは何でそこまで稼ぐ必要があるんだ?高校生の小遣いなら三万か四万もあれば事足りるはず。学の家の家計が急激に悪化したなんて話は聞いたことがない。稼ぎたいだけと言われたらそこまでだが、長年こいつに付き合っているのだ。そんな奴ではないことを知っている。
「そういえばなんで最近そんなにバイトしてるんだ? お前確か就職するんじゃなかったっけ?」
学は就職すると言っていた。それに内定も貰っている。ならそこまで働かなくてもいい筈だ。どっちにしろ将来バイトで働く以上のお金を貰えるのだから。
就職組で内定を貰った奴らは残りの高校生活を楽しむぞと息巻いて放課後には近くのショッピングモールに行き、毎日遊んでいる。それと比べると町で血をバイトに費やしている学は少し、いやかなりの変わり者だ。
「確かに就職するけどさ……」
「就職するけど?」
「その……内定先が運転免許が必要なとことでさ。運転免許代を稼がないといけないんだ」
「運転免許代?親が出してくれるんじゃないのか?」
「出さないと言われた。だから自分で免許代を稼がないと内定も取り消しになっちまう。それでバイトを頑張ってるのさ」
「……大変だな」
最近よく眠れていないのだろう、学の目元をよく見ると青紫の隈が出来ていた。
就職組は就職が決まれば後は安心なんだろうなと考えていた俺の考えは間違いだったみたいだ。就職が決まれば次はその就職に備えるための準備を始めなければならない。安心なんてできるわけがない。
「大変だけど俺は良いんだよ。やることはもう分かってるからな。やることさえ終われば後は働くまでゆっくりできる。お前はどうなんだ?」
心配そうな顔をしながら学は俺に訪ねてきた。
「どうとは?」
「分かってるのに聞き返すなよ。お前の悪い癖だぞ。進路についてだよ。結局お前はどっちにするんだ? 就職か? それとも進学か?」
またこの話だ。しかし、元を辿れば就職の話を振った俺が悪い。学の話だけ聞いて俺は何も話さないでは不平等だ。話すしかないか。
「まだ決まってない」
といっても話せることは何もない。何も決まっていないなら話すも何もない。何も書かれていない紙を見せられても何も言えないだろ?それと一緒だ。
「決まってないって……。そろそろマズいんじゃないか? 今の時期進路が決まってないのはお前くらいだろ」
「俺だけだな。その証拠に放課後に進路相談があっても居るのは俺だけだよ」
「この時期にまだ進路相談をしてる時点でだいぶヤバイけどな」
「仕方ないだろ? 自分でも何がしたいか分かってないんだよ。妥協したらしたで残りの人生を後悔しそうだ。自分で納得できる進路を見つけたいんだよ」
俺の言葉を聞いて一瞬、学の顔が曇った。そして口元がボソッと微かに動いた。何か言ったように見えたが俺の耳には届かなかった。そしてその言葉は学の感情が圧縮された言葉のように思えた。
「学? 何か言……」
「ほら行くぞ。もうそろそろ教室に行かないと始業に間に合わないぞ。俺はともかくお前は遅刻したらマズいだろ?」
確かに。去年、一昨年といろいろと俺はやらかしている。これ以上遅刻はできない。もししたら学年主任の爺さんにこってりと絞られる。あれは二度と食らいたくない。
「そうだな。急ごう。あの爺さんと二人っきりでお話は嫌だ。急ぐぞ‼」
「そう言っているだろ……。あっ」
突然何かを思い出したかのように学は立ち止った。こんな時に一体何だ?
「どうした? 急がないと間に合わないんだろ?」
「トイレ行きたい」
「ハァ? 今?」
「今」
校門前の置時計を見ると時刻は八時二十五分。トイレに行って教室なら間に合うか?結構ギリギリになりそうだ。
「じゃあ行くぞ‼」
「いや、良いよ」
「いや良いって……。トイレ行きたいんだろ? 我慢は体に悪いぞ」
「時間かかる方だぞ」
「先に行けってことね。了解。じゃあ先に行ってるぞ」
「おう、先生に言っといてくれ」
学に手を振り言外にわかったと伝える。自転車の籠に入れていたリュックを取り、教室に急いで向かう。どうか間に合いますように‼
リュックを手に取り教室に向かって走る雄介が段々と遠ざかっていく。遠ざかっていく雄介を見て少し気持ちが落ち着く。上手くこの感情を隠せただろうか。雄介のことは人間として好きだ。でも時折、羨ましくなる。いや、嫉妬しているのだろうな。まだ自分のやりたいことを見つけられるはずと信じて悩む雄介の姿はこれ以上見たくない。否が応でも自分と比較してしまう。
「眩しいな……」
空は雲り。太陽は遮られている。この街に生きているのに夢を見つけられるとまだ考えている雄介の姿はとても眩しく、自分には到底直視できそうになかった。
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