第46話 騙しのテクニック

「本来ならば、ここで気付くべきだったのだよなあ」

 琅玕は、寝室の天井を仰いで嘆息。

 …通常、いちどつがいちぎりを交わしたアルファとオメガであれば、たとえ変装しようが暗闇だろうが長期間生き別れになろうが、相手を間違うようなことはありえぬとされている。発情期でなくとも、普段から発する微量の体香を嗅げば、すくなくとも当人どうしであるかどうかは一発でわかる、と普通は言われているが、

「あのとき私と王仁礼どのは、着ていたものを交換しておりましたゆえ」

 なにしろ非常時であるから、さすがの琅玕もあわてていたことを差っ引いても、このとき王仁礼が着せられていた紫翠の服には、たっぷりと紫翠の体香が染み付いている。

 おまけに、

「私と王仁礼どのは血縁上、従兄弟の間柄でございますゆえ血が近い。外見だけでなく体香も似ている、と周囲の者が申しておりました」

 ここまで条件が揃ってしまうような事は普通ない、このときばかりは状況が特殊すぎる、と妙にまじめくさってフォローする紫翠。

「特殊なあ。その特殊な状況とやらを、お前、最初から意図して段取ったのか」

 あまり慰められたような気分にもならず、やや不貞ふてくされて琅玕がそう聞くと、

「まさか、そのような先のことまで見越して策を考えられるほど、今の私はまだ手練てだれではありませぬ」

「だとしたら、そういう流動的な状況の中で偶然をとっさに上手く利用していった結果か。なんともはや、大した度胸だな。むしろ先々のことを考えてあらかじめ策を仕込んでおく方がまだわかる」

 言っておくがこれは本当にめておるのだぞ、決して皮肉ではない、と琅玕。

 が、紫翠は紫翠で、あまり褒められたような顔つきではない。

「このときの段取りは本当になりゆきまかせの博打同然、度胸勝負で無理やり押し切ったようなもの。瞬時に閣下に見破られてもおかしくはございませなんだ。こんな無茶な策を採るしかない時点で、まだまだ修行が足りませぬ」

 閣下の仰る通り、全てを事前に計算済みで仕込んでおく方がよほど「腕利き」なのだ、などと、真顔で己の仕事を反省してみせた。

 ともあれ、そのときは琅玕はまんまと紫翠の策にだまされた。さらにはその直後、壁画広場の奥の揚戸の柱の鍵穴に、挿さったままの銀の鍵を発見してしまう。

「閣下に対して手荒な真似はしたくありませんでしたが、それでも、まさか閣下をあの青い光にさらすわけには参りませぬ」

「まあそりゃそうだ」

 背に腹は替えられぬ。仕方なく、琅玕が鍵穴の鍵に手を触れる直前、その背後から首筋に手刀しゅとう一閃いっせん

「…で、今に至る、か」

 大伽藍のがんせきのなかで見張り番をさせられていた若坤道ふたりは、実は紫翠たちの仲間だったのだそうな。彼女らに口裏を合わさせ、王母子と琅玕・菱陽起の四名を壁画広間に置いたまま、紫翠はひとり先に脱出。その直後に観長沈氏と坤道たちが四名を救出しに降りていったが、彼らはあの壁画広間でなにがあったか、それは全くなにも知らぬとのこと。

「そこまでは、それほど大変というわけではなく、おおむね予想の範囲内ではございましたが…一番問題だったのは、むしろその後の方で」

「後?」

「閣下が玄牝観の病室で、菱先生とともに隔離かくりされておられる間、ああも毎日『私』に逢いたがるとまでは思いませんでしたゆえ」

「…ひょっとしてお前、あの全身ただれあがった姿を毎日、それも少しずつ症状が進行していくさまを変化を加えながら扮装ふんそうして、それで病室に寝て俺を待っておったのか」

 呆れた話もあったものだ。

「まあその、閣下がいらっしゃるのは毎日決まった時間でございましたし」

 紫翠が顔に張りつけていた瘢痕とおなじ要領で、全身が爛れたように見せかける扮装を、琅玕が顔を見せるその時間に「だけ」施して寝て待っていれば良く、琅玕が消えればその扮装を外せるわけだから、楽といえば楽だったそうな。

「これでもし、不定期に、いつ誰が見ているかわからぬような状況であれば、四六時中あの格好でおらねばなりませず、もし本当にそうだったとしたら、さぞかし面倒だったに違いありませぬ」

「そりゃそうかも知らんが…どうもあれだな、内幕を聞くと、なんというかたかが俺のごとき、間抜けな男ひとり騙すためだけの事に、ずいぶんと手間ひまかけて涙ぐましい努力をしておるものよな」

「この場合、騙すべきなのはどちらかというと、閣下おひとりというよりも、周囲や世間の方でございますれば」

 琅玕本人を最後の最後まで完全に騙そうということは、そもそも最初から考えてはいなかったとやら。それはまあ、なにしろ紫翠はその後、いずれ“当代尖晶王殿下“として琅玕の元に戻って来るのは、最初から決まったことである。

「はい、仰る通り、このように戻って参りました」

「いくら俺が間抜けでも、死んだはずのお前がこうして生きて目の前に出て来られて、それでも事の次第が理解できんようなことは、まさかあるまいからな」

 それにしたってその後、琅玕が「仕掛け」に気づいて騒ぎ出すのでは、とは思わなかったのか、と聞くと、

「その可能性はおそらく低いもの、と判断いたしました」

 現にいま、琅玕は周囲にこのことを漏らしている様子はない。さらに言うなら、

「閣下がたとえ周囲に言いふらして騒いだところで、世間がそれを素直に信じるとは限りませぬ」

 なにしろ「オメガの新米役人で兵部卿閣下の側室」である紫翠なる人物は、公的には死んだことになっている。それが、その後に死んだのは別人であるだの、本物はどこかで生きているはずだなどと琅玕ひとりが主張したところで、よほど歴然たる物的証拠でもない限り世間は相手にするまい。

「愛妾を亡くした悲しみのあまり、錯乱したと周囲は解釈いたしましょう」

「…妙にシビアなことを言ってくれるな、まあその通りだろうとは思うが」

 そういえば、日参してくる琅玕の前で、日に日に変わり果ててゆく姿を演じたのは紫翠本人だったわけだが、その後「死亡」が確認されたのち荼毘に付された「遺体」があり、遺骨は間違いなく墓に埋葬されている。

「あれは私の仲間が用意した別人の遺体にございます」

「やはりそうか。事件当初の安宿火災、あの現場で発見された破落戸ふたりの遺体もか」

「左様にございます。そもそもくだんの破落戸ふたりというのが、元々我々の仲間で」

「ああ、なるほど」

 当然ながら琅玕の解剖した「王仁礼の替玉」の黒焦げ遺体も同様とのこと。さすがに、これらの遺体をどこでどう探してきたかまでは、具体的には知らされておらぬらしく語らなかった。

「遺体が必要だからといって、そのへんの乞食や浮浪者を生きたまま捕えてきて、そのために殺したのではあるまいな」

「任務遂行目的のために無辜むこの市井人を犠牲にすることは禁じられておりますゆえ、そこはご安心くだされ」

 少なくとも紫翠本人は、決して無関係の市井人を巻き込むべからずと厳しく仕込まれたとのこと。まあ紫翠とても密偵稼業のすべての事例を知るわけではないので、あるいはそういう非常の手段を取ることも例外的にあるのかもしれないが、今回の件に関してはそういうことはとりあえずないようだ。

「無礼を承知で申し上げますが、閣下とても解剖のために墓から遺体を盗みはしても、生きているものをそのつどわざわざ解剖用に殺したりは致しますまい。それと同じにございます」

 説得力のある喩えである。

「しかし王葎華どのの方に限っては、病状も、遺体も、間違いなくご本人、本物でございますよ」

「…ああ、そうだろうな」

 琅玕は、わずかに声を低めた。

「ひとつ聞くが、お前や王仁礼は、いずれあのように―――王葎華のように、全身を爛れさせて死んだりはせぬであろうな」

 

 

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