第42話 アクシデント

「私は、子を産むなら、自分の手で育てとうございますゆえ」

 これだけはどうしても譲れぬ、であれば早いうちに一旦、琅玕のそばを離れなければならない。

「中堅どころの士大夫層出身のオメガ、刑部の新米役人として閣下のお近くに寄せていただき、即座にお手がついたところまでは問題ないのですが」

 まさかいきなり共家の正式な妾にまでしてしまうとまでは予想外だった。

「密偵が潜入捜査で市井にまぎれこみ、一般庶民の仮面を被って暮らすうち、妻を娶り、あるいは嫁に行き、場合によっては子供が生まれ、そのまま孫曾孫たちに看取られながら死ぬ―――ということも、状況によっては出来なくはございませぬ」

 しかし、いずれ数年後には『当代尖晶王殿下』に戻らねばならぬ身としては、それは不可能だった。

「自分で言うのもなんですが、閣下は私を熱愛しておられる。いますぐに閣下の御子を孕ってもおかしくない状況の上、御実家の共家は跡取りを喉から手が出るほど欲しておられますゆえ…愚図愚図ぐずぐずしておれば私は、数年後、我が子を置き去りにして姿を消さねばならなくなります」

「それなら、わざわざ偽りの身分など装って俺の前に姿をあらわすなどという、手の込んだ真似をしなければ良かったろうに」

「今にして思えば、私も、認識が甘うございました」

 自分が、我が子を捨てて去らねばならぬ(かもしれない)立場に実際に立たされてみてはじめて、

 ―――そんな真似は死んでも出来ぬ。

 と、実感するに至ったそうな。

 実際、オメガや女で長期間の潜入をする者の中には、死亡や失踪を偽装して家族の元を離れざるを得ず、結果的に、その間に出来た子供を泣く泣く手放すしかなかった者というのも、結構いるらしい。

「密偵稼業に上からの命は絶対でございますれば、これまでは、それが命令ならば仕方があるまいとしか思っておりませなんだが、いざ己がそういう立場に置かれたとなりますと…」

「それで十日と経たず謎の病死か」

「閣下が早い段階で私の正体に疑念を持っておいでと知っていたら、おそばを離れる前にさっさと全てを打ち明けるべきでございました」

「まあなあ」

 琅玕は、頭のうしろで腕を組み、寝台に上に仰向けにひっくり返った。

 そして、

「…王仁礼は、生きておるのか、それとも死んでおるのか」

「健在にございます」

 五体満足、お体に傷ひとつなく私の仲間に保護されておいでです、ご心配なく。

「なんでしたらお会いになられますか」

「まあそれはそのうちにな。それよりも、一体どういう顛末で彼が“焼死”させられたのか、それを説明して貰おうか」

 

 

 

 

 

 

 

 くだんの安宿火災の前日。

「私は、普段の通り役人稼業に精を出し、夕刻、帰宅の途にありましたところを、道すがら、ふいに顔馴染みの密偵仲間に呼び止められたのです」

 ―――ちと、手伝ってくれぬか。

 密偵仲間のなにがしは、それ以上説明しない。繰り返しになるが、情報の漏洩防止の重要さを思えばこれは当然のことで、この稼業のものには言うまでもない常識であったから、紫翠の方もいちいち聞かぬ。

 仲間のなにがしは、紫翠に顔から偽傷痕を剥がさせ、頭巾のついた外套を着せ、その姿でさる高級住宅街の近所まで連れて行った。

「閣下の別邸のお近くの通り道の角で、これからやしきの奉公人がここを通りかかる、その者の前に立ちはだかって頭巾を取り、素顔をよく見せてやるのだ、それだけでよい、口はいっさい利く必要はない、その後はこのことは忘れろと」

 紫翠は仲間の言う通りに振る舞った。

 突然、妙な人影に目の前を通せんぼされた『或る邸の奉公人』は、当然ながらそれだけでも大層驚いたが、その妙な人影が頭巾を取った顔を見て、こんどは凍りついたようにその場に棒立ちになった。

「正直な話、私の方も驚きましたが―――目の前に鏡がある、と言われたら信じたかもしれませぬ」

 自分と瓜二つの人間が、その場にぼう然と立っていたら、それはまあそんな風に思っても無理はない。

 それでも紫翠の方は、内心を顔や態度に出さぬ訓練というものを受けている。が、先方はそうはいかない。露骨に動揺しているところに、横からひょこひょこ出てきた密偵仲間のなにがしが近づき、耳元で何事かをささやく。

 そうして、『或る邸の奉公人』は、なかば放心したような状態のまま、抱き抱えられるようにして近くの家屋へと姿を消す。

 そのうちに別の密偵仲間が出てきて、もう帰っていい、顔に傷痕を戻すのを忘れるな、とだけ告げた。

 この時点で、普段の帰宅時間を大幅に過ぎている。言われた通り、紫翠は黙ってその場を去った。

 

 

 

 

 

「これを白状すると、さぞかし閣下には呆れられてしまうと思うのですが…私は、そもそも自分の実父母が何者で、自分がどういう素性の者であるか、数年前に“実家“の義母の部屋であの肖像画を発見するまで、知らずに育ったのです」

「…。待て。待て待て待て」

 呆れるというより単に驚いて、琅玕は、さすがに寝っ転がったままではいられず、寝台上に飛び起きた。

「密偵稼業につくべく稽古をさせられて育つ子供というのはなにか、自分の出自を捨てねばならぬ決まりごとでもあるのか」

「さあ、そういう掟はとくにないはずですが」

 くだんの寺で育つ子供たちの背景というのは本当に千差万別で、それを本人に教えるか秘するかは状況によるようだ。だから一概には言えないようだったが、紫翠の場合はただ単に、

「私のような、居ても居なくても大差ない末端皇族に、帝位継承権保持者としての出番があるなどとは、全く思っていなかったからのようですね」

「まあなあ…」

 いずれ帝室の一員としてそれなりに重用されるであろう予定なら「皇族兼密偵」として、しかるべく自覚を持つような教育をする必要もあるだろう。が、そういう出番がないなら、ことさら皇族としての躾どころか、己が皇族であることを知る必要すらあるまい。

「“実家“であの肖像画を発見したのは、純然たる偶然でございます」

「そうなのか」

「まあ寺の者も、別に徹底して隠し通さねばならぬと思っていたわけではなし、私がどこかで独自に嗅ぎつけたところで別に問題はなかったわけですが」

 額を外せば板絵には前尖晶王第二王子の名が書かれている。それとなく周囲に聞いてみれば、二十年近く昔、岐の皇族にそういう評判の美形兄弟がいた、というところまではすぐ解ったが、それ以上の詳しいことは、なかなか情報が入ってこなかった。

「これは、考えてみれば当然のことで、私の母や伯父のことをよく知る者がいる環境に私を潜入などさせれば、すぐに失敗してしまいましょうから」

 意図的にそういう危険性の少ない環境を選んで、紫翠を潜入させたと考えるべきだろう。

「それでも、このときばかりは、ついいつもの習慣を忘れて、そういう背後事情というものを少し探ってしまいました」

「そりゃ、当たり前だ。そういうことを全く考えず、日頃は思考停止状態などというのは、しかるべき理由あってのこととはいえ、それでもやはり異常だろうに」

「まあそうですが、しかしこのときはまだ、私が兄弟王子のどちらの血を引くのか、正確にはわからなかったのです」

「ああ、そういえばそれもそうか」

 聞けば、このときは兄弟王子のどちらがアルファでどちらがオメガかそれともベータか、属性すら知る者が周囲にはいなかったらしい。

「本当に、皇族にそういう兄弟王子がいたという以上のことは、からきし判明しませんでした」

 さらに言うなら、必ず血縁があるとの物証が示されたわけでもない。極端な話、ただの他人の空似という可能性とて、ないわけではなかった。

「まあなあ」

 ともあれその後は、そんなことを頭の隅で薄っすら考えながら暮らし、そののち、やれ水菓子中毒を装って顔に瘢痕をつくれだの、科挙を受けろだのいう妙な命が降ってきたときは、紫翠は前述の通り、いつも通りなにも考えずにその通りに従った。

 が、琅玕との出会いの直前、王仁礼と無言の対面を果たしたあとはさすがに、

 ―――あれは自分の血縁者のたれぞか。であれば、やはり皇族につらなるのだろうか。

 と、そういうことをつい考えざるを得なかったという。

 とはいえそのときは、密偵仲間からは王仁礼という名すら知らされずに追っ払われたから、やはりそれ以上のことはなにもわからない。

「そして翌日、朝早くに呼び出された私は、安宿火災の現場で閣下と運命の出会いを果たすわけですが」

 琅玕と別邸で暮らすようになって、紫翠は、事ここに至ってようやく、おのれの素性をふくめ、諸々の背後事情について真剣に考えるようになった、という。

「そもそも私の顔に、醜い瘢痕が残った跡をつくれなどと命じてきたのは、どう考えても私の嫁入りを阻止するのが目的だったに違いないわけで」

 思い起こせば、その命が降ってきたころは丁度、岐の帝室で東宮の二皇子が落馬事故に遭った直後ではあった。

「つまり私に、が突然回ってきたゆえ、全くの別人として嫁に行かれては困る、という事でございましょう」

 自分が前尖晶王家の血を引く者であったとして、紫翠も、尖晶王家というのが皇族としてどれほど末端であるかぐらいは知っている。そんな自分に「皇族としての出番」、つまり皇帝の座が回ってきた、というのなら、それはよほどの「政治的な事情」があってのことに違いあるまい。

「おまけに、通常ならばこういう場合、それこそ急病死でもなんでもよそおって、「平凡な良家のオメガ息子」である私の存在を消滅させてひっこめてしまえば済むものを、あえてそれをせず、顔に傷をつくらせた後は今度は新米役人になど仕立て上げるなどという手間のかかる妙な小細工をしたのは、一体なぜなのだろうかと」

 まさか琅玕の側近くに送り込むためだなどということは想像もせず(当たり前だが)、紫翠ひとりで無い知恵を絞って考えても答えが出ず、

「しかたがないので手近なところの密偵仲間をつかまえて、ともかく上の者に事情を聞いてこい、それなりの答えが返って来ぬとあらば納得せぬ、帝位なぞ徹底拒否してやる、場合によっては最悪の事態も覚悟せよと伝えよ、と柄にもない啖呵を切ってやるしかありませんでした」

「上の者とやらに、直接連絡は取れぬのか」

 琅玕はむしろその点に呆れた。密偵などという連中の仕事のしかたというのは、一体どうなっているのやら。

 実際、「上の者」からは、なかなか返事が返ってこなかったという。

「それを待つあいだに、閣下の書斎で、あの古い解剖初見の素描を発見したのです」

 

 

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