第25話 亡夫の記憶

「その、少し疑問なのですが」

 前尖晶王家は没落皇族とはいえ、それでも、家人の身辺に仕える奉公人たちが居るはずである。

「彼ら奉公人たちには、そういう暴力行為には気づかれなかったので?」

 奉公人だの使用人だのいう人種は、ある意味で、仕える家族の監視役のような立場でもある。それこそ娘が不品行ふひんこうを行っていないか、亭主がよそに女をこさえておらぬか、その他もろもろ、外からはおいそれとうかがい知れぬことでも、側近くに仕える者なら知ることは容易たやすかろう。

 が、

「そこは、斜陽族の悲しいところよな」

 紫翠の問いに、菱陽起は頭を振って、

 ―――沈氏が前尖晶王家に嫁いだ頃にはすでに、の家には、累代るいだい別当べっとう(執事)や女中頭ぐらいしか、仕える奉公人など居なかった様子。

「それでも嫁いできた当初は、実家からついてきた彼女の乳母が側にいたそうだが」

 嫁入り後しばらくのちに、この乳母は不帰ふききゃくとなった。その後、あとがまが補充されるようなこともなく、着替えや風呂の面倒をる者なぞ、いたためしがなかったらしい。

「そういう環境だったからこそ、岐鋭錘は遠慮なく、妻の体にあとの残るような暴力を振るったのだろう、と」

 そのくせ、この前尖晶王家の第一王子、岐鋭錘という男、生前、外面そとづらはたれに対しても、大層ひと当たりの良い好人物だったのだという。

「外部の人間に対して愛想のよい者が、身内、それも自分より立場の弱いものに対しては、非常に侮蔑ぶべつてき威圧いあつてきな態度をとり、時には暴力的に支配を加える―――これも実はよくあることだ。儂などは、言ってしまえばその外面の良さにまんまと騙されていたくちな訳であるから、偉そうなことは言えぬがな」

 観長沈氏は、菱陽起に、自分がかつてどれほど亡夫に酷い目に遭わされたかを涙ながらに語ったのち、

「義弟であった弟王子、岐玉髄殿下の出奔も、理由のひとつに兄から逃げるためというのがあったのではないか、と言うておった」

 父王のごり押ししてくる入内話から逃げるため、秘密の愛人と一緒になるためというのは無論だが、それだけではなかったのではないか―――と語った、そうだ。

「それでは、岐玉髄殿下も、暴力をふるわれていたのですか」

「直接的なものがあったかどうかは、彼女にもよくわからぬらしい」

 ただ、弟王子の持ち物が無くなったり、壊されていたり、虫だの小動物の死骸だのが身辺近くに放り込まれていたりと、

「ひとつひとつは小さいが、続けばさぞかし心の傷になるであろう種類のことは、何度か現場に出くわしたことがあったようだ」

 この種の、身内に危害を加えるタイプの暴力人間は、周囲にそのことを悟らせず、物証を残さず、外部に相談されても「その程度のことか」「勘違いではないのか」と周囲が真面目に受け取らぬ種類の、しかし被害者にとっては軽微けいびなれども深刻な「攻撃」を得意とする、のだそうだ。

「現に、儂から話を又聞きしただけのそなたは、すぐには信じようとはせなんだわけだからな」

 紫翠は、一言もなかった。



 

 

「それに、どうもそのころ、岐玉髄殿下はすでに、愛人の子をみごもっていたようだ――と、これも沈どのが言うておった」

「そ、それが、当代尖晶王家当主殿下でございますか」

「そうなるな」

 まさか実家にいたままで、父王が出産をゆるすような展開があるわけはない。そのままでは玉髄殿下は腹の子を産むことは出来ぬであろうし、仮に百歩譲って、父王が折れて出産をさせるなり、愛人との仲を認めるなりしたとしても、

「実家でそのまま分娩・産褥を過ごし、さらには育児もするには危険が多すぎる。生まれたばかりの無力な赤子のそばに、隠れ外道の兄王子がおって、いつなんどき母体や赤子に魔の手が及びかねない、という環境に安住する気は起きまいよ」

「な、なるほど」

 それもあって逐電ちくでん、駆け落ちという強引な手段に出たか。

「まあ、沈どのは沈どので、義弟のことが気にならぬわけではなかったにしろ、かといってあまり他人を構う余裕はなかったわけだからな」

 なにしろ義弟の失踪の直後、こんどはなんと、隠れ外道だった夫の急病死である。

 「沈どのは、はじめのうちは夫の死をよろこぶより、呆然としてしまったそうな」

 菱陽起が訪ねていったのは、丁度そのころである。

「おまけに、ようやく亭主の葬儀を終えたと思ったら、今度はしゅうとの前尖晶王・岐黒晶殿下まで亡夫と同じ病で没してしまったゆえ、嫁であった沈どのはすぐに連続してもうひとり分の葬儀を出さねばならなくなったわけだ」

 こうなると、呆然としていられたのすら束の間、すぐに雑事に追いまくられて忙殺され、それはもう忙しいどころの騒ぎではない。葬儀をどうにか無事に終えれば、こんどは自分は出家をし、ともかくも彼女の身辺が落ち着くまで、ざっと一年ほどもかかったという。

「が、落ち着いたのは周囲の状況だけで、当の沈どの本人はといえば、それ以前と同様に絶えずびくびくと周囲をうかがって落ち着かぬ日々が、それこそ何年も続いたそうな」

 ―――あの男(岐鋭錘)は、もうこの世にはおらぬのだ。

 ということが、なかなか実感としていて来なかった、という。

「今はもう、さすがにそこまでではないようだが、それでもなにかのはずみに亡夫を思い出すようなことがあると、いまだにその瞬間に気が遠くなる、短時間なれども呼吸が止まる、その夜は悪夢にうなされる、そのほか諸々の心身に異常が現れるとやら」

「に、二十年経っていまだにそうですか」

「それも、そうめずらしいことではないものだぞ」

 体の傷とて重傷なら後遺症が残る事もあろう、心の傷とて同じことよ、と老乾道。弱い立場にあるものが、理不尽に暴力的な扱いを受ければ、場合によっては老いて死ぬまでその傷はえぬことすらあるとやら。

「まあなんだ、要するにそれが、沈どのが鍵探しをしたがらぬ理由なわけだ」

 憎き亡夫が、生前に先代観長から巻き上げた妙な鍵のことなど、たとえ観伝来の宝であろうが何だろうが、関心を持ちたくない。亡夫のことを思い出すような物事は何であれ、可能な限り身辺から遠ざけたい、というのが、彼女の本音であるようだ。

「無理もない。それゆえ儂も、強いて鍵探しをしろとは言いにくいわけだ」

「なるほど…」

 沈氏の亡夫、岐鋭錘が、いわゆる暴力亭主であったなどという事を知るものは、今のところ当人以外では菱陽起ぐらいしか居ない。

「夫の暴力が発覚して観に保護されたわけではないからな。岐鋭錘が早死にをしたのはたまたまで、沈どのは、夫に先立たれた上流階級の寡婦の常識的な身の振り方に従って、坤道になっただけのこと。亡夫の本性だの、背中の傷だのについて、世間に広くそのことを知られておるわけではなし、当然、沈どの本人も、そのようなことは可能なかぎり、人に知られとうないと言っておった」

 そして、彼女の亡夫が前尖晶王家第一王子であったなどと、いちいち憶えている者ももうほとんど居ない。いくら美貌で有名だったとはいえ、二十年も前に他界した皇族のことなど、今になって話に持ち出す者も少ない。

 「事情を知る儂も、そんなわけで沈どのの前では、鍵の話題を気安く出すわけにはいかなんだ」

 ゆえにこれまで、観長沈氏は、不意に他者からむべき記憶を呼び覚まされることはほとんどなく過ごして来れた。

「だから―――先刻火中に投じられたあの模型人形、あれを宋灰廉の臨終の枕頭ちんとうで見せられた時は、もののたとえでなく本当に卒倒しそうになった、と彼女は述懐しておった」

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