第24話 虐待

 どうも、それは無意識の動作だったらしい。

 飾り房を引きちぎったあとで、はたとおのれの手元を眺め、琅玕はすぐに馬鹿馬鹿しそうな表情になると、房の残骸ざんがいをそのへんに放り出した。

 そして椅子をひとつ、奥の方に引きずっていく。だいぶ離れた場所まで椅子を移動させると、そのままどさりと身を投げ出すように、乱暴に座面にふんぞりかえり、腕を組んで目を伏せ、それっきりうんともすんとも言わなくなった。

「…閣下」

「良いから、放っておけ」

 腹を立てるのも無理はないが、別に再起不能になるほどショックを受けたわけではない、不貞ふてくされておるだけだ、と当人の目の前で、優しいのか厳しいのかわからぬフォローを入れる菱陽起。

「その、閣下の手がけた模型作品が、なぜこの道観に…」

 琅玕がむっつりと沈黙してしまったので、疑問は菱陽起に尋ねるしかない。

「そのむかし宋灰廉が、共どのから購入した、のだそうだ」

 あっさりよどみなく答える老乾道。

「なぜこんなことを儂が知っておるのかと言うと、葎華のやつから聞いたのだ。宋灰廉は、自分の作品とともに、あの模型人形を当代観長にたくしたのだそうだ」

「な、なぜそのようなことを…」

「当代観長の沈どのが、前尖晶王家第一王子、故・岐鋭錘殿下の未亡人だからだ」





 先代観長の岐氏に後を託され、皇族ならぬ身でここ谷神観の観長職を継いだ沈氏なる女性は、しごく平凡な、北師で生まれ育った岐の中堅貴族出身の女性だという。

「で、長じてのち、没落皇族のもとへ嫁ぎ、夫の死後は坤道になったわけだ」

 聞けば最初はここではなく、さる別の観で修行をはじめたのだという。

 その観は、北師郊外にあるさつだった。得度してしばらくの間は、世間は赤熱病の猖獗しょうけつで大変な騒ぎだったが、しかし数年後、病の流行が少し落ち着いたかと思うと、今度は世は戦乱の時代に突入する。

「岐帝国に反旗を翻したる勢力の軍が、帝都は北師ちかくまで迫ったおりに、沈どのがおった観は戦火のとばっちりを喰らい、もらい火で焼け落ちてしまったのだそうだ」

 さいわい、在籍していた乾坤道たちはみな避難が間に合って、怪我人や死者は出さずにすんだと言うが、その後の再建はままならなかった模様。

「しかたがないので、所属の乾坤道たちはみな、ゆかりのあったあちらこちらの道観にばらばらに身を移して世話になることになったのだそうな」

 そうして彼女はここ玄牝観へと来た。

「ただ、そういう経緯があったものだから、先代観長の岐氏は、のちに自分が後継者に指名するほど信頼した坤道が、かつては前尖晶王家の第一王子殿下、岐鋭錘の妻であったなど、最後まで気づいていなかったらしいな。ただ単に、よその観から移籍してきた者としか認識しておらなんだようだ」

 知っていたなら、まさか黙っては居らなんだろう、と菱陽起。それはそうだろう。

 新観長の沈氏は沈氏で、自分の俗世にあったころのことはあまり語りたがらなかったようだ。先代観長のみならず他の坤道たちも、彼女の前身を知る者は昔も今も、あまりおらぬという。

「だから沈どのの方でも、自分の亡夫が先代観長からものを盗んだなどという因縁については、臨終の際に聞かされるまで、全く知らずにおったわけだ」

 まあ、なにしろ問題の鍵の存在自体、歴代観長以外は知ってはならぬとされていたわけだから、知らないのは当然のことではある。

「儂は儂で、二十年前、先代観長に頼まれて北師に岐鋭錘を追っかけて行った際、その時に一度、未亡人になったばかりの沈どのに会ってはいるはずなのだ。にもかかわらず、我ながら間の抜けたことで恥ずかしいが、そののち彼女がここ玄牝観に移籍後、先代観長に重用されはじめ、あらためて紹介されたのだが、最初は気づかんでな」

 先代観長の臨終の席のあと、当の沈氏から、お久しぶりでございますと挨拶され、それでもわからず、岐鋭錘の後家と名乗られてようやく、あのとき会った未亡人と気づいたそうな。

「そこまでは、まあいいのだが、驚いたのはそのあとよ」

 通り一遍いっぺんの挨拶の後、新観長、沈氏はなにやら、上品な顔立ちを憎々しげにゆがめ、

 ―――あの男なら、やりかねませぬ。

「と、儂に言うてきおった」

「え?」

「そのうえなにを思うたか、突然、その場で着物を脱ぎ捨てはじめての」

「はあ?」

「言うておくが、周囲にほかに人はおらなんだ状態だぞ。かと言って世辞にも色っぽい雰囲気だったわけでもない」

「ああそうですか、それで?」

「背中一面、しりのあたりまで、どす黒い古傷だらけであったわ」







「焼け火箸ひばしでも押し付けたようなみにくい傷跡が、女の柔肌やわはだ一面に広がりおる光景、あれはなかなかの凄味すごみだったぞ」

 そう言われても、紫翠には、にわかにはピンと来ずにいる。

「その、古傷とは、一体なんなのですか」

「亡夫につけられた傷なのだそうだ」

「そんな馬鹿な」

 唖然とした。

「夫が、おのれの妻を故意に傷つけたのですか?一体なんのために」

「特に理由らしい理由はなかったようだな。気まぐれに、さながら、まだ物のわからぬ子供が虫や小動物をいじめて楽しむがごとく、ただおのれの妻が苦しんでるところを見て面白がっていたのだろうと」

「…そんな、まさかそのような、仮にも皇族の一員たるお方が…」

「抵抗できぬ弱者をいたぶって喜ぶろくでなしは、必ずしも下々にばかりおると限ったものではない、王侯貴族どもの中にいておかしい道理はあるまい」

 こういう事に身分や貧富の上下は関係ないのだ、と菱陽起。

 そして、唐突になにを思ったか、

「ところでそなた、そろそろその仮面を外してはどうだ」

 薮から棒に、そんなことを言い出した。

「な、何故です」

「その傷痕を、よく見てみとうなった」

 おもわず奥にいる琅玕の方を見やると、そっぽを向いたまま、いつのまにか勝手に手酌で酒を喰らっていた。こちらの会話が聞こえていないはずはないが、あくまで無反応、口を利く気はないらしい。

 しかたがないので、菱陽起に言われた通り、仮面の紐をほどいて素顔をさらす。

「…ふむ」

 老乾道はしばしのあいだ、穴のあくほど紫翠の顔を注視した。さすがに、触ろうとまではしない。

「この傷痕は火傷ではないな、なにをしてこうなった?」

 そう聞かれ、くだんの水菓子中毒の話を語ると、菱陽起は興味深げに聞いていたが、

「親兄弟や親戚、配偶者に殴られた、火熨斗ひのし(炭火アイロン)を押しつけられた、熱湯を浴びせられてこうなった、というわけではないのだな」

 と、仰天するようなことを言い出した。

「も、勿論でございます、そんなわけがありませぬ。何故そのような」

「そなたのような育ちのよい人間には、なかなかわかりにくかろうが、不幸にも、家族から一方的にしいたげられるのが日常、という環境に生まれ育つ者というのが、世の中にはおるのだ」

 まあまあ早いうちに事が露見ろけんし、幼少の身で寺や道観で保護されたのち、いずれ世間に帰る者も無論多いが、そのまま寺に残って僧や乾坤道になる者というのも、存外たくさん居るのだそうだ。

「寺院や道観というのは、ただ信仰の場というだけではない、そういう理不尽な目に遭った者を救済する機能も持つ」

 寺や観では大概、貧乏人で子沢山な階層の暮らす陋巷ろうこう(スラム)で定期的に、ほどこしを行なう。その際、そういう目に遭わされている者がおらぬかどうか、気づかれぬよう目を光らせるのも僧や乾坤道たちの仕事であった。また下層階級だけでなく、王侯貴族や富裕層の子女の家庭教師に雇われて邸に通ったり、住み込んだりすることも多い。そういう機会を経て、菱陽起自身がみずから子供や女性を保護したことも、何度かあったと言う。

「それに、不謹慎を承知で言うが、ここの宴で坤道どもを抱いておると、沈どのだけでのうて、他にもたまに、この種の古傷持ちには出くわすものでな」

 こういう事は、前述のように幼少期に発覚する場合もあれば、観長沈氏のようにいい大人、しかも立場というものがあるゆえ発覚の遅れる者もいる。家庭という、一種の密室での中で、家族血縁者から逃れようのない暴力を受ける者は、第三者が思うよりずっと多い、のだそうな。

「ここの当代観長たる沈どのは、儂が保護したわけではなし、ことさら褥を共にしたこともないが、妙ななりゆきで事情を知ることになった。しかし、めずらしいものではないにしろ、あそこまで酷いのはさすがになかなかお目にかかれるものではないな。沈どのは、どれほど懇願こんがんされても喜捨を積まれても自身では決して客を取らぬ―――とこの宴の客どもの間では有名なのだが、あの傷では無理もあるまい」

「はあ」

 紫翠は、なにやら頭が痛くなってきた。こんな展開が待っていようなどとは想像だにしなかった。その上、この話が事件にどう関わってくるのかも全くわからない。

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