最終話 物語の中で“生きる”君へ
誰もいない図書館には、奈緒がすすり泣く声だけが響く。だが、ここに誰かがいたとしても、きっとその音色を
立ち尽くしたまま、一樹は奈緒から少しだけ、視線を反らす。
目を向けたのは、今は誰もいなくなった受付カウンターだった。
決め手は“彼女”だった。
あれから一樹は改めて、
“図書館の女の霊”――一樹はこの噂が、
だがそもそも、この噂の出所を辿っていくと、予想外の場所に話が着地してしまう。
この噂を最初に発信した人間は他でもない、図書館に勤務している司書の女性だったのである。
彼女は夜の図書館で戸締りをしている際に、その“女の霊”の姿を目撃していた。
だがその姿は黒髪、白いスカートなどという見た目ではない。
茶色の短いボブヘアに、ブラウンのパーカーを着た“若い女性”――まさに目の前で泣いている奈緒のそれと同様だった。
この図書館に“幽霊”は二人いたのだ。
噂が伝搬する過程で、それがどこかで混ざり合い、互いに干渉してしまったのだろう。
何度考えても、あまりにも奇妙な事実だ。一樹は“図書館の女の霊”を探し続けていたが、その隣には常にもう一人の“幽霊”がいたのである。
そしてさらに奇妙な“偶然”は連鎖してしまう。
一樹だけでなく、奈緒と会話をした人間は数少ない。だが思い返してみると“彼ら”には、ある共通点があった。
杉本小春の友人である盲目の女性・
彼らは一樹と同じく――“幽霊”を感じ取ることができる、人間だった。
だからこそ、奈緒がそこにいるということに、違和感を抱くことができなかったのだろう。
全てを調べ、そして受け止めた一樹は、表情を変えない。怒るでもなく、
「君はここで……死んだんだね。あの女優に突き飛ばされて……それで――」
多くは語りたくなかった。言葉を絞り出せば出すほどに、奈緒に辛い記憶を思い出させてしまう気がしたのだ。
奈緒は震えながらも、弱々しく頷く。首を傾けただけで、大粒の涙がいくつもこぼれた。
「あの人がたまたま、私の書いた“小説”を目にして……私が席を外している間に、それを盗もうとしたの。他には誰もいなくって、私、必死にそれを食い止めようとして……言い合いになってる時に、突き飛ばされて、それで――」
「ひどい話だな、本当に。あの
今回ばかりは、一樹も心からそう強く思う。
一人の大人が話題欲しさに誰かの“作品”を奪い、それを力づくでねじ伏せ、何の罪の意識も抱かないまま、堂々と我が物顔で笑っている。
そんなおぞましいことが、許されて良いわけがない。
つくづく、一樹は思うのだ。
ねじ曲がり、どす黒く染まった“人間”は――“怪物”と同じだと。
一樹が「ラブ&ゴースト」と名付けられた作品を執筆するたびに、きっと奈緒は悔しかったのだろう。それはそれは、苦しかったのだろう。
自分が愛でていたそれが、まるで違う形に捻じ曲げられ、利用され続けていることが、無念で仕方がなかったのだろう。
それがきっと、奈緒という“幽霊”がこの世に縛られ続けた、たった一つの理由だ。
「許せなかったの……憎くて、憎くて――本当に、殺してやりたいくらい、憎たらしかった。だけど……それだけはできなかった……もし殺したらきっと……私も“怪物”になっちゃうって」
彼女の独白に、一樹は無言のまま何度も頷く。そんな一樹をちらりと見た後、また奈緒は視線を落とした。
「けど……きっと私も、もう……似たようなものなんだろうね。私は“幽霊”で……一樹君って人間を操って……誰かに“復讐”しようとした存在だから……私は……私は――」
歯を食いしばり、奈緒は耐える。肉体の内側をかきむしる後悔の念に負けないよう、両拳に力を込めて。
へたり込んでしまいそうだった。このままうずくまって、ただただ大声で泣き叫びたかった。
そうして朝を待って、自然と消えてしまえたら、どんなに救われるのだろう。
だがそれでも、奈緒は震える体を押し、前を向く。
逃げちゃあだめだ――“彼”はなおも、ここに来てくれたのだ。
見ないふりをして、遠ざけることもできた。悪い夢だったと、割り切ることもできた。関係性など持たなければ、そんな人生のほうが幸せだと分かっているはずだ。
それでも彼は――一樹は来てくれたのだ。
たった一人の“幽霊”しかいない、この図書館に。
だから逃げない。だからこそ、告げなければいけない。
「私は、悪い存在……私はきっと――“悪霊”なんだよ」
やり遂げれば、消えられると思っていた。
あの日――
きっと“幽霊”は、自身を縛っていた思いから解き放たれれば、逝くことができるのだ、と。
それは叶わなかった。
罪悪感から目を反らし、一樹という人間を利用して“復讐”を果たした。女優の全てを白日の下に
そんなことをしても、何も変わらなかった。
どこまで言っても奈緒は“幽霊”――生者を操り、自身の意を通そうとした“悪霊”でしかない。
今まで目を背け続けてきた思いが、弾ける。ついにたまらず、奈緒は両手で顔を押さえながら泣き叫んだ。
「ごめんね……ごめんね、一樹君……本当に……ごめんなさい……」
何度告げても、何十回告げても、決して許されないと分かってる。
一樹の人生を利用したという過去は、どんな痛みと寂しさを前にしても、消えることはない。
それでも奈緒にできるのは、その一言を告げることだけだった。
もうこれ以上、前を向くことはできない。奈緒はただただ、怖かったのだ。
目の前の一樹の目を見ることが――彼がどんな表情をしているのかが、ただただ怖かった。
恨まれて当然なのだろう。憎まれるべきは自分なのだろう。
どれだけ自身に降りかかった現実が辛くとも、それは一樹を利用したことへの
奈緒はそれが痛いほど分かっているからこそ、ただただ泣くことしかできない自分を、恥じた。
涙を流す奈緒から、一樹は視線を窓の外――夜空に浮かぶ満月へと向ける。
そこから差し込む白い光を浴び、少しだけ目を閉じた。
大きく呼吸すると、冷たい空気が肺の中をありったけ、満たす。
覚醒した意識のまま、再び視線を戻し、告げた。
「君だけじゃあないよ――“復讐”をしたかったのは」
奈緒が言葉を止める。涙を流したままそれでも、ゆっくり、恐る恐る前を向き直した。
一樹はなおも笑っていた。どこか困ったように、なんだかやりきれないように、砕けた色のまま。
「俺だって同じだ。俺はあの日――あの女優に作品を“どうでもいい”って言われた時……心の中で決めてたんだ。絶対にあいつを見返してやる。こんな悔しい思いは、二度とごめんだ、ってね」
「でも……だって、それをやらせたのは――」
「ああ、そう。君だ。君が背中を押してくれたから俺は――それでも“生きる”ことができた」
奈緒が目を見開き「えっ」と驚く。一樹は悲し気な笑みのまま、それでも前を向く。
「あの女優の“影”として――“ゴーストライター”としてしか生きることのできなかった俺を、君が前に進ませてくれたんだ。利用したんだろうが、なんだろうが、それがあったからこそ俺は前に進めたし、ここまでやってこられた」
奈緒はなにか言いたげに迷っていた。だがどれだけ否定したくても、目の前の一樹を見ていると、言葉が出てこない。
それほどまでに一樹のその月光に照らされた笑顔は、凛としていて、眩しい。
「君がいたからなんだ。君が俺を“ゴーストライター”から“ライター”に――“幽霊”から“人間”にしてくれた」
弱々しく、温度すら失った肉体のその奥底で、それでも奈緒は自身の鼓動が強く脈打ったように感じた。一樹の言葉がすうっと染み込み、実体を持たない肉体の奥で、ぽっと火を灯してくれる。
一樹はおもむろに足元のリュックを開き、中から原稿の束を取り出す。困惑する奈緒に、彼はそれを手渡してきた。
無言のまま受け取り、涙が端に残る丸い眼で、つづられていた文章を読む。
そして数枚をめくった後、気付いた。
「これって――」
それは一樹が現在、細々と月刊誌で連載している作品だった。
奈緒だって、その存在は良く知っている。一樹と奈緒が季節を越えて駆け巡り、互いに言葉を交わし、悩み、時には後退しつつも、それでも前に進んで書き上げた一作だ。
“
一人は、かつてから主人公と共に歩み、憎まれ口をたたきながらも協力してくれた剣豪・バキン。
そしてその横に新たなキャラクターが立ち、共に戦ってくれている。
茶色のボブヘアに、ブラウンのパーカーを身に着けた女性。
まだ背景も、隠し持った能力も分からない、新たな登場人物。
奈緒は“ナオ”と名付けられたそれを見て、体が震えだすのが分かった。
たまらず視線を持ち上げる。すぐ目の前で一樹はそれでも笑い、頷く。
「君はただ――“物語”が大好きな女性だ。“物語”に真剣に向き合うからこそ、あの女優を許すことができなかった。そうだろう?」
問いかけられ、まるで答えることができない奈緒。
だが、返答などなくとも、一輝はすでに答えを知っている。
「俺は君のことを覚えてた。君と会った日のことも、君の笑顔も、怒り顔も。君のジョークも、好きなキャラクターも、歩き方も、走り方も」
「一樹……君……」
「“幽霊”かどうかなんて、分からなかった。だから、はっきりと言える。俺と一緒に歩んでくれた君は確かに――一人の立派な、“人間”だったよ」
どくん――と、存在しない心臓が、感情によって脈打つ。
奈緒は悲しみではない、全く異なる色の感情によって起こる震えを、止めることができない。
止まりかけていた涙が、また一つ、二つと
どれだけ
そこには奈緒が大好きだったキャラクターと共に、もう一人の“ナオ”がいる。
一樹は両手を伸ばし、奈緒をそっと抱きしめる。
伝わってきた感触は、錯覚なのかもしれない。一樹の能力が見せている、幻覚なのかもしれない。
それでいい――神様がなんと言おうが、悪魔がどうのたまおうが、どうでも良い。
すぐそばには、“彼女”がいる。その体温を、しっかりと感じることができる。
奈緒もやがて、原稿を握りしめたまま、それでも一樹の体を引き寄せた。
彼女は再び、泣いた。声を上げて、ただただ泣いた。
月光に照らされたまま、二人は互いの温もりをしっかりと抱きしめる。
奈緒はもう「ごめん」とは言わなかった。
その代わりに、ありったけの思いを込め、代わりの言葉を告げる。
自分を忘れないでいてくれた、彼に。
全てを知ってもなお、一緒にいようとしてくれた、彼に。
「一樹君……ありがとう……本当に――ありがとう。嬉しかった……一樹君と話せて、一緒に歩けて……一緒に……一緒にいれて――嬉しかったよ」
抱きしめる腕に力を込め、一樹はなおも笑う。奈緒に見えないように、肩越しに食いしばり、涙に耐える。
最後まで笑っていると決めた。
最後の最後まで、笑顔でいると決めたのだ。
「ありがとう、奈緒。この物語は――『
多くの言葉は、交わさなかった。
月光に照らされたまま、二人はいつまでも互いを抱きしめ続ける。
流れ落ちる涙も、漏れていく
光の粒となって散ったそれは、差し込む月光の白の中に溶け、蛍のように舞い上がった。
抱きしめていた感触が消える。支えを失った原稿が、ばさりと音を立てて床に落ちた。
正真正銘、一人きりになった図書館で、一樹は立ち尽くす。
だがその姿が消えてもなお、肉体に伝わっていた温もりを、しっかりと覚えている。
図書館という小さな世界のその中で、“
ありがとう――どんな花束よりもはかなく、どんな栄光より眩しいその言の葉が、脈打つ心臓のその内側で、確かな暖かさとなって生き続けている。
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