第23話 真実

 コーヒーショップの窓から眼下の歩道を眺めたが、人通りは少ない。天気予報では今年一番の大寒波が来るとのことで、以前のクリスマス同様――もしかしたら、それ以上の大雪になる可能性があるらしく、人々はそれを警戒して引きこもっているのだろう。

 手元のカップを口に運ぶが、残っていたチョコレートミルクはもうわずかで、すっかりとぬるくなってしまっていた。一樹はソファーに深めにもたれかかり、これまた生温いため息をついた。


 その対面に座る色黒の肌の男性――坂上さかがみが資料をまとめながら、笑う。


「いやぁしかし、まさか本当に一樹君と一緒に仕事をすることになるなんてね。なんかこう、妙な“縁”を感じちゃうな」


 嬉しそうに笑う彼は、いつも通りのぴっちり整えた黒髪に、スーツが良く似合っている。一樹はというと、今年買いなおしたダウンジャケットの中に身を縮ませ、困ったように笑って返した。


「本当ですね。でもてっきり、坂上さんは“宿木やどりぎ出版”に行くと思ってたんですよ。田中さんとは旧知の仲なんで、そっちでやっていくのかなぁって」

「いやぁ、あいつはダメダメ。悪友なだけで、そもそも一緒に仕事をするには向かないよ。そういう部分では絶対に合わない人間だって、よ~く分かってるからさ」


 意地悪な笑みで首を横に振る坂上に、一樹は「なら、しかたないか」と笑う。


 コーヒーショップの一画で行われた“打ち合わせ”は、とどこおりなく進行していた。ジャズが流れるこの店の雰囲気ももちろんだが、なにより編集者としての坂上のやりかたが、一樹の性格とも親和性が高いのだろう。

 一樹が連載で世話になっている“四葉よつば社”と、坂上の出版社との合同企画――その企画書を手繰たぐり寄せ、おもむろにめくった。


 そんな一樹の耳に、隣に座る女子高生二人の会話が飛び込んでくる。


「ねえ、今朝けさトレンドに上がったやつ、見た?」

「見た見た! あの“黒住くろずみ”って女優、またやらかしたんだって?」


 ぴくりと反応し、それでも視線を反らさず、聞き耳を立てる一樹。そうとは知らず、実に無遠慮なボリュームで二人は語り合っている。


「そーそー! 今度は高校時代の“いじめ”してた話だってね。本当、掘れば掘るだけ、いくらでも出てくるよね、あのおばさん」

「だねぇ。連載してた『ラブ&ゴースト』も、打ち切りになっちゃったけど、噂じゃあ、誰かに“代筆”させてたらしいよ」

「ええ、まじで? 本当、どうしようもないね」


 大げさなリアクションに、一樹までおかしくなってしまう。本来ならばマナーの観点でよろしくはないのだろうが、それでも二人の話が気になって仕方がない。


「怖いねぇ、大人って。あんなに笑顔でワイドショー出てた人が、過去に“いじめ”もしてて、社会に出ても色々圧かけて――その極めつけに、“殺人”までやっちゃうんだからさ」

「本当だよねぇ。でも、ニュースで裁判のこととか言ってたけど、なんか精神的にもおかしくなってるんでしょ? ずっと“なにか”に怯えて、話にならないらしいじゃん」

「へえ。やっぱり“人殺し”なんてやったら、普通じゃいられないのかな」


 随分と身勝手な推論を繰り広げ、しばらくしてから女子高生達はそそくさと店を出ていってしまった。

 タイミングよく、一樹の対面に座る坂上も“打ち合わせ”を切り上げ始める。


「まぁ、俺も今回みたいなでかい企画は初めてで、緊張してるってのが本音なんだ。だけど担当になったからは、精一杯サポートさせてもらう所存しょぞんだよ。兵藤ひょうどう君、引き続き、よろしくね」

「ええ、こちらこそ。僕にできるのは“書くこと”だけなんで、ありがたいですよ」


 手こそ伸ばしはしなかったが、二人は心の中で互いに固い“握手”を交わしていた。坂上はちらりと腕時計を見て、そのまま一樹に提案してくる。


「ところで兵藤君、この後、暇かい? この近くにうまいおでん屋があるんだけど、一杯やってかないかい」

「おでんですか、良いですねぇ。ただ、すみません。ちょっと今日は――」

「おお、そうか。なんだいなんだい、もしかして“これ”かい?」


 坂上は意地悪な笑みを浮かべ、“小指”を立てるというなかなかに古いハンドサインで問いかけてくる。その大げさな身振りがおかしくて、一樹は笑いながら首を横に振る。


「そうだったら、嬉しいんですけどね。ただ今日は“例の日”なんで」


 一樹の言葉に、坂上も「あっ」と驚き、今度は手帳で日付を確認する。


「ああ、ごめんごめん、そうだったね! 失敬、忘れちゃってたよ」

「いえ、すみません。また是非、ご一緒させてください」

「もちろんさ。だけど、兵藤君――本当、なんでまた“あんな所”へ? こんな時間から、何の用があるっていうんだい?」


 不思議がる坂上を前に、一樹は荷物をリュックにまとめ、立ち上がる。坂上が「あっ」と呼び止めようとするが、一樹はなおも困ったように笑うのみだ。


「まぁ、ちょっとした“野暮用やぼよう”です。きっとすぐ、終わりますから」


 それだけを告げ、一樹は頭を下げて別れを告げる。どこか呆然としてしまう坂上を前に、一樹は颯爽さっそうきびすを返して出ていってしまった。


 残された坂上も、荷物をまとめながら改めて時計を見る。午後9時前を差そうとしている針を眺め、やはり首をかしげてしまう。


 ――そんなに“本”が好きなのかな。


 邪推じゃすいを振り払い、彼もまた立ち上がった。だが、忘れかけていたテーブル上のコーヒーを慌てて飲み干す。

 すっかり冷え切ってしまったそれを胃の中に流し込み、坂上も仕事へと戻っていった。



 

 ***




 満月の光がガラス窓から、室内に滑り込んでくる。そこから見える並木道の木々はすっかり枯れ細ってしまい、なんともみすぼらしい。

 もう何度、こんな景色を眺めただろうか。暗闇の中、月光のみを頼りに“彼女”は窓際の席から、世界を眺める。

 司書すら帰った静かな空間。正真正銘、“彼女”だけになった仄暗ほのぐらい部屋の中で、静かに、ただ緩やかに過ぎていく時の流れを感じていた。


 そんな暗闇の中に“かちゃり”という乾いた音が響く。“彼女”が驚き振り返るのと、入り口のドアが開くのは、同時だった。


 思わず「えっ」と声を上げてしまう。驚く彼女に向かって、“彼”はまるで躊躇ちゅうちょすることなく近付き、少し離れた位置で立ち止まった。

 困惑し立ち上がる“彼女”に対し、“彼”――一樹はコートを少しはだけ、リュックを足元に下ろして、笑った。


「いや、さすがに暖房がついてないと冷えるな、ここは。今日はマジで、雪が降る気がするよ」


 いつも通りの波長だった。“彼女”がいつも触れていた、何一つ変わらない彼がそこにはいる。その声も、喋り方も、困ったような笑顔も――全てに対し、奈緒は困惑してしまった。


「一樹君……なんで……どうして?」


 信じられない、という顔で立ち尽くす奈緒を前に、一樹はポケットから“鍵”を取り出して見せた。


「坂上さんに、色々とつてをたどってもらってさ。無理を言って今晩、特別に開けてもらえたんだ。まぁ、長居はできそうにはないんだけど」

「そんな……なんでわざわざ、そんなこと」

「君に会うためさ」


 はっきりと言ってのける一樹に、奈緒は言葉を飲む。

 一樹と違い、奈緒の口元からは白い吐息は流れ出てはこない。


 しばし、奈緒は立ち尽くしていた。片側だけに月光を浴びた一樹の姿を見つめ、思いを巡らす。

 やがて彼女は全てを理解し、「そう」と呟いた後、少し視線を落として続けた。


「じゃあ、一樹君は……もう、気付いてるんだね。私が誰なのか。私の正体が――“なんなのか”を」


 あえてすぐ、一樹は答えなかった。彼もまた、月光に浮かび上がる奈緒の姿を見つめ、焼き付けている。

 恐れはない。不安も迷いも、まるでない。

 すでに一樹は今日この時まで、何度も苦悩し、何度も考えてきたのだ。


 今日、この場に来るべきかどうかを。

 そして、決めたのだ。


 やがて一樹はゆっくりと、静かに口を開く。

 落ち着いた波長のまま、彼ははっきりと、通る声で伝えた。


 全ての“真実”を――彼らの物語を“決着”させるための一言を。


「ああ、分かってるよ。奈緒、君は――“幽霊”だったんだな」


 唇をキュッと結び、目を細める奈緒。分かっていてもなお、一樹の口からその事実を告げられたことが、苦しく、辛いのだろう。

 もはや言い訳も逃げることもせず、彼女はゆっくりと一度、頷いた。


「うん、そうだよ。私は“幽霊”。私はもう――“死んでる”の」


 奈緒が視線を持ち上げると、再び二人のそれが交わる。一樹はただじっと、悲しげな奈緒の顔を見つめていた。


「驚いたよ。最初は全部、“気のせい”じゃないかって思いたかった。君と連絡が取れなくなったのも、君が姿を現さなくなったのも、そして――あの“ニュース”の内容も」


 昨年末――年の暮れに飛び込んできた衝撃的なニュースの内容を、今でも克明に覚えている。

 郊外の山林の中から見つかった、一人の女性の遺体。

 何者かによって埋められ、遺棄いきされたそれは、やがて警察の調査によりある一人の人物に特定された。


 その女性の名は“朝霧奈緒あさぎりなお”――約1年前から行方不明になっていた、女性である。


 一樹とて信じられなかったし、信じたくもなかった。だが、ネット上に公開された被害者女性の顔を見た瞬間、一樹の疑惑はあまりにも非現実的な“現実”へと変わったのである。


 目の前にいる、被害者女性と同じ顔の“彼女”――奈緒は必死に言葉を返してくる。


「ごめんね。ずっと……黙っていて」

「いいさ。こんなこと、言われたところで、信じろっていう方が無理だろ?」


 目を細め、それでも微かに笑ってくれる一樹が、奈緒にはただただ辛くて仕方がない。彼女は両手を胸の前で握りしめ、全てを打ち明けだす。

 ゆっくりと、自分のペースで。


「あの時……一樹君が、原稿を読んでる私に気付いた時、驚いたの。この人は、私のことが“視える人”なんだって。私と普通に喋れて、私のことを分かってくれる人なんだって。それがあの時はびっくりして、ただ――嬉しかったの」


 一樹も言葉を受け止めつつ、彼女と初めて出会った時のことを思い返す。

 一樹が机に残した小説の原稿を、いつの間にか席に座って奈緒が読んでいた。当時は随分と横柄おうへいなことをする女性だと、警戒もしたものである。


 だが、今思い返せば、あれはいたって自然なことだったのだ。

 ここにいる人間にとって、奈緒が座っているということは、知覚できないのだから。


「それから一樹君のことを聞いて……それで偶然、あの女――黒住くろずみと一樹君が、関係を持っているって分かった。その時、私……考えちゃったんだ。この人を――一樹君を利用すれば、あの女に“仕返し”できるって」


 微かに、奈緒の体は震えていた。痛いほどに両手を握りしめ、彼女は湧き上がってくる感情の波に耐えている。

 一樹は表情を変えない。微笑んだまま、あくまで彼女が喋ってくれることを待った。

 

 奈緒は顔を上げ、微かに涙を浮かべたまま、告げる。


「私……私は……あの女に“復讐”したかった……私は――あなたを利用してたの」


 微かな涙の粒は、月光を浴びてきらきらと輝いていた。それは床に落ちた途端、まるで幻想のようにふわりと形を失い、消えてしまう。

 世界に作用しない悲しい雫をいくつも流し、肩を震わせる奈緒。

 そんな彼女を、黙したまま見つめる一樹。


 告げてしまった――そして告げられた“真実”が、重く、鋭く、非情なまでに冷たく、心の奥底を刺激した。

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