第22話 罪と罰
薄暗いマンションの一室を、大型テレビの明かりがぼんやりと照らし出す。小さめの音量に設定したモニターでは、夜のニュース番組が淡々と進行されていた。
ニュースキャスターが雪の降る街頭に立ち、「今日はまさにホワイトクリスマスとなりました」と、どこか嬉しげにレポートを続ける。
そんな彼女の声をかき消すように、ヒステリックな甲高い声が電話に向けて突き刺さった。
「どういうことなのよ、それ! あのガキ、それでまんまと辞めちゃったって言うの!?」
バスローブだけを身に着けた彼女は、化粧を落とした顔で、怒鳴り散らしている。普段、メディアに露出しているときのそれとは大きくかけ離れた“すっぴん”に、怒りで克明な
電話の向こう側で、出版社の重役が頭を下げているのは分かっている。だがそれでも、彼女は――
「だから、どうするつもりなのよ! ストックがあるって、たかが2ヶ月分じゃあないの。誰が代わりに書くって言うのよ!」
先程からもう随分と、同じようなやり取りが繰り返されていた。
“
何から何まで、大女優にとっては“気に喰わない”事態のオンパレードだった。まるで
「許せない……いい? なにがなんでもその小僧、引き戻すのよ。どんな手を使っても良い、“圧”でもなんでもかけて、ちんけな“連載”なんて辞めさせなさい。いいわね!!」
荒々しく一方的に通話を切り、彼女はスマートフォンをソファーに叩きつけた。跳ねたそれががらがらとフローリングを転がるも、まるで意に介さず、髪をかきあげる。
一面ガラス張りの壁の向こうには、微かに雪が降りしきる大都会の夜景が広がっていた。高級タワーマンションの一室から見る絶景は、彼女が手に入れた“地位”を象徴するかのように、圧倒的なスケールで眼下に広がっている。
だが、それを眺めても、まるで怒りは収まらない。たった一人のちっぽけな“小僧”が自分の役目を放棄し、
もはやこれは、黒住という人間に対しての“宣戦布告”である――いままで抑え込んできた飼い犬が突如
テレビに流れるニュースキャスターの笑顔すら、酷く腹立たしい。見ず知らずの彼女までが、自分を
取り出したワインを荒々しくグラスに注ぎ、カッと飲み干す黒住。鋭く吊り上がった眼差しは、夜景の奥――世界のどこかにいるであろう、一樹のことをねめつけていた。
――調子に乗るんじゃあないわよ。
黒住の中にあるのは、一樹という人間に対するただただ、どす黒い“怒り”だけだった。
自分の計画を捻じ曲げた、ちゃちなガキ。黙って従っていれば良いものを、余計な感情で動きまわる、
それを絶対に許すことができないのが、黒住という女性が隠した“本性”だった。
普段はありったけの仮面を張り付けて取り
また一口、ワインを飲み干す。熱い吐息が暗闇を少しだけ歪め、かすかに落ち着いた。
酔いが回ったせいもあり、黒住は夜景に向けて
「なによ、たかが一人のちっぽけな小僧じゃあないの。そんなもの、どうにでもなるわ」
握りしめた拳をガラスに叩きつける。ごんという鈍い音と共に痛みが走るが、それすら力に変え、彼女は吠えた。
「ましてや“小説”ですって? はんっ、糞
あくまで彼女にとって「ラブ&ゴースト」は、自身が出世し、注目を浴びるための“道具”でしかない。かつて一樹の前で見せた態度や言葉が、彼女の中で変わったことは一度足りとなかった。
握りしめた拳の強さが増せば増すほどに、その顔に張り付いた笑みが邪悪に歪む。
彼女の中に渦巻く憎悪は、一樹らが持つそれとはまったく別の“活力”を生み出していた。
そんな彼女に――たった一人のはずの自室に、か細い声が響く。
「そんなこと、させないよ。あなたはここで終わり」
びくりと慌てて振り返る黒住。その見開いた目が、ちょうど部屋の反対側に立つ“彼女”の姿を捉えた。
暗闇の中にぼおっと、浮かび上がるように女性がいた。茶色のショートヘアに、同系色のパーカーを身に着けた若い女。
暗闇のなかにいながら、離れた位置の彼女の顔がはっきりと見えた。
その表情は暗い。
「な、なによあんた! 一体どうやって入ったの!?」
“彼女”は答えない。ただゆっくりと、黒住へと近付いてくる。
たまらず黒住はすぐ手元のワインボトルを握りしめ、振り上げて構えた。
「近寄らないで!! それ以上、何かしてみなさい! すぐに警備の人間を呼ぶわよ!!」
精一杯
「なにをそんなに、恐れているの? そんなに、怖いものがあるの?」
「う、うるさいわね! 近寄るなって言ってるでしょ!!」
たまらずボトルを投げつける黒住。黒く太いワインボトルが回転しながら、“彼女”の顔面に迫る。
だが、命中しない。ボトルは目の前の女性の体を“
ワインが一面を赤に染めたことよりも、その不可解な現象に呼吸を止めてしまう黒住。なおも近寄ってくる“女性”に向けて、錯乱したかのように黒住は物を投げ続ける。
ウイスキーのボトル、グラス、雑誌、灰皿――どれもこれも、まるで効果を成さない。全て女性の体を通り抜け、いたずらに部屋の中を汚すだけだった。
その怪奇現象に、ついに黒住は絶叫する。慌てて駆けだし、ソファーの上に飛び込むように倒れた。
すぐさま身をひるがえし、後ずさりしながらこちらを見る“彼女”を見つめる。
かたかたと震えながら、それでも必死に言葉で抵抗した。
「な、なんなのよ……あんた、いったい――」
「覚えてないのね」
「はぁ? なんのことよ……あんたなんて、知るわけが……」
「分かってるわ。あなたはどうせ、そういう人よ。大女優だもんね。いちいち、覚えているはずないか。ましてや――」
“彼女”の口は、微かにしか動いていない。にも関わらず、何故か鼓膜ではなく、脳裏に直接言葉が刷り込まれた。
はっきりと、透き通った波長の中に、静かな“怒り”が内包されている。
“彼女”がこちらを見つめ、微かに目を見開く。瞬間、部屋の照明が点滅し、テレビが“ざあああ”と砂嵐になった。
怯える黒住を見据え、“彼女”――奈緒は、はっきりと告げる。
「自分が“作品”を奪って、“殺した女”なんて、覚えてないわよね?」
空気の中を、冷たい何かが
ぞぞぞと湧き上がった感覚に、意識が研ぎ澄まされる。言葉の意味を考えるよりも先に、黒住の“本能”が、その答えを導き出した。
過去の記憶の中にある、あの“死に顔”と、目の前の奈緒のそれが合致する。
かすれ、止まりそうになる呼吸を振り絞り、黒住は口を開いた。
「あんた……そんな、嘘よ……だってあんたは、あの時……死――」
それ以上先を、口にすることができなかった。もしそれを告げてしまったら、黒住の中で決定的な何かが壊れる気がしたのだ。
奈緒はだらりと腕を下ろしたまま決して瞬きをせず、へたり込んだ黒住をじっと見降ろす。
「ええ、そうよ。あの時、私は“死んだ”。あの日――あなたに突き飛ばされて、頭を打ってね。あの場所――誰もいなくなった、“図書館”で」
逃げようとする黒住の心を
奈緒が横目で、テーブルの上に散らばっている雑誌を睨む。その視線の先には、表紙を飾る黒住と「ラブ&ゴースト」の文字が浮かんでいた。
「本当に、酷いタイトル……いかにも“小説”なんて興味のない、あなたがつけそうな安易でつまらない言葉の羅列。私が書きたかったものは……こんなものじゃあない!」
また一つ、電灯が明滅する。テレビから流れる砂嵐の音量が大きくなり、奈緒の抱く“憎悪”を物語っているかのようだった。
黒住は震えながらも、はっきりと思い出していた。
あの日――女優としての新境地を模索する中で、番組企画でたまたま訪れた、“図書館”。
みすぼらしく、古臭く、とても居心地の悪いその場所を、女優・黒住は取ってつけたような笑顔で、楽しんでいるように“演じた”。文学にも精通した知的な一面を見せるため、そういう“演出”をしたまでだ。
そんな中、休憩時間中にたまたま、彼女は目撃することとなる。
一人の女性が、調べ物をしながら書いていた“小説”を。偶然目にしたそれに、女優・黒住はある“策”を思いつく。
そして、その先は――黒住の記憶を見透かしたかのように、奈緒が続けた。
「あなたにとって、私が書いていた“あれ”は、ちょうどいい
「違う……違うの……あれは……あれは偶然……事故だったのよ、だって――」
「そうね。“偶然”に他人の小説を盗もうとして、“偶然”にそれを見つかって……“偶然”、もみあいになった女を、“偶然”、突き飛ばして――“偶然”……頭を打って死んだ」
奈緒はあえて、“偶然”という言葉を強調し、悲しみを噛みしめながら続けた。
その一言一言に、黒住は激しく動揺する。
「あなたにとっては、それだけのことなのよね。取るに足らない“ガキ”が、“偶然”、死んだ――それだけなのよね?」
目を見開き、静かな――それでいて燃えたぎる怒りを浮かべ、奈緒は迫る。
黒住は怯えながらも、なんとか後方に退きながら、それでも必死に抵抗した。
「やめろ……やめろやめろやめろぉ!! なによ、死んでまで、なんで出てくるのよ!! 復讐のつもり!? 死人は死人らしく――大人しくしてなさいよぉお!!」
それはあまりにも身勝手で、あまりにも
しばし、たたずむ奈緒を前に、黒住は半狂乱に暴れまわっていた。整っていたマンションの一室はみるみる無残に破壊され、散らかっていく。
時間にして数分後、ようやく照明が点滅をやめ、テレビには変わらずニュースの映像が流れだす。
明らかな変化に黒住は気付き、恐る恐る、奈緒を見上げた。
奈緒はどこか悲し気に、ボロボロになった女優に向けて告げる。
「私はずっと、あなたに“復讐”したかった。でもね、もしあなたを“殺したら”――それで終わり。今までのあなたの罪は、全部なかったことになっちゃう。そんなのは、私がやりたかったことじゃあない」
どこか寂し気に奈緒は踵を返し、歩き出す。彼女はそのまま真っすぐ、玄関のドアへと進んでいった。
去っていく奈緒のその後ろ姿に、ようやく黒住は立ち上がることができた。既にバスローブは大きくはだけ、整っていたはずの髪はぼさぼさに暴れている。
誰が見てもそれは“女優”などではなく、一匹の“
やった――黒住は呼吸を整えながら、去っていく奈緒の後姿を見て、ほくそ笑む。
彼女の登場に驚きこそしたが、結果、何もせずに消えようとしている姿に、心の中で罵声を浴びせていた。
――なんにもできないんじゃあないの。
黒住の中に、またしてもどす黒い“傲慢”な感情が渦巻きだしていた。
どれだけ恐ろしくても、“幽霊”は人を殺すことはできない。黒住という現実主義者は、力なく去っていこうとする奈緒を見てそう確信し、勝利を予感していた。
そんな黒住に、奈緒はドアの前で立ち止まり、背を向けたまま告げる。
「そのとおりだよ。私みたいなのには、なにもできない。でも忘れないで。さっき言った通り――あなたはもう、終わり」
心を見透かされたことにたじろぎはしたが、それでも奈緒の言葉を、黒住は鼻で笑おうとした。
負け惜しみを――そう不敵に返そうとした、その時であった。
テレビの音声が、何故かひとりでに大きくなる。そしてニュースから流れてきた“速報”の内容に、黒住は絶句した。
『ただいま入った情報です。都心部から離れた山中にて、女性の遺体が発見されました。その特徴から20代と思われますが、身元はまだ不明で――』
目を見開き、その中継映像を見つめる黒住。
その発見場所に、見覚えがある。
なによりその遺体の正体を――黒住だけが知っている。
事態に気付いた黒住が、再び震えだす。
そんな彼女に奈緒は少しだ振り向き、そして――おぞましいほど、はっきりとした波長で告げた。
「安心して、きっと死ぬことはないわ。もっとも、これから何一つ“幸福”なことなんてないでしょうけどね。少なくとも“その子”が憑いている間は」
その言葉を最後に、奈緒の姿がすうっと溶けて消えた。
黒住は再び玄関のドアを見つめ、ぜえぜえと呼吸を荒げる。
だが、彼女はすぐに気付いてしまう。
自分の背後から、自分が放つそれよりも遥かに大きい、“呼吸”の音が聞こえることを。
ゆっくり、恐る恐る振り返る。
いつの間にか彼女のすぐ背後に、巨大で真っ白な、人形のような存在が立っていた。
その頭部から、大きな呼吸音が“四つ”、響き渡る。
――ゼハァーー、ハァー、ハァアアー、ブハァア。
黒住を“四つ”の顔が見下ろし、笑っていた。
かつて街の心霊スポットにいた“それ”の姿を見て、黒住はついに呼吸を止める。
口を開き、
――遊ぼう。
四つの口元が裂けるように笑うのと、黒住の意識が限界を迎えるのは、同時だった。
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