第14話 邂逅

 夕焼けが大きく傾き、夜の闇がじわりと河川敷を染め上げようとしていた。暗く、重々しく動く川の流れは、どこか生物の集合体のようにも見えて不気味だ。

 橋の高架下ではホームレスが拾ってきたダンボールを組み合わせ、ビニールシート製の住居を補強していた。同様にゴミ捨て場から調達したビニール紐を、慣れた手つきで結んでいく。


 そんな男の背後から、二人の足音が近づく。彼が気付く前に、一樹は男の背中に問いかけた。


坂上麟太郎さかがみりんたろうさん――ですね?」


 唐突に声を掛けられ、男のビニール紐を手繰たぐる動きが止まる。ホームレスはゆっくりと振り返り、背後に立っていた一樹、奈緒に向き合った。

 

 一樹自身、こうして彼と対峙するのは初めてであった。この土手沿いの道で、何度も彼の姿こそ目にしていたが、ホームレスに声をかける機会など、そうそうあることでもない。


 ましてや、一樹は奇妙な“偶然”に歯噛みすらしてしまう。

 図書館までの通い慣れた道で、偶然目にしていたホームレスこそが、一樹らが追い求めていた男――坂上麟太郎という名の“キーマン”だった、など。


 ホームレスはゆっくりとダンボールを置き、真正面から二人に向き合う。改めて見ると、ボロボロの服や生え放題の髭こそみすぼらしいが、一方で一樹より頭一つ程高い体躯と浅黒い肌は、しっかりとした肉付きの良さを感じさせた。

 どこか澱んだ眼差しを向けながら、男は問いかけてくる。


「誰だ、君は。それに、その名前をどうして――」

「“宿木やどりぎ出版”の田中さんの知り合いです。彼からあなたの名前と、居場所をお聞きしました」


 担当編集者・田中が言葉を濁した理由が、一樹にはすぐ理解できた。

 田中は目の前の男・坂上とは高校来の友人だったが、それゆえに坂上の悲しい過去と、あまりにも無残な今を知っていたのである。


 かつては図書館の司書として働く、勤勉な男性だったのだろう。だが今は、家を失い、職を失い、空き缶や残飯をあさって生活する、底辺の存在にまで堕ちてしまった。

 もう随分と体も洗っていないのか、離れた位置でも彼のひどい体臭が漂ってくる。

 すぐ後ろの奈緒はどこか怯んでいるようだったが、一樹は彼女の前に立ち、男と向き合った。


 田中の名を出したことで、どこか彼も納得したようだ。坂上は「あいつが」と少し視線を落としたが、再び一樹を見る。


「一体、なんの用だ? わざわざ、田中に聞いてまで、どうして俺の居場所を?」

「あなたにお聞きしたいことがあるんです。5年前――あなたは、この近くにある“図書館”の司書をしていた。そうですね?」


 新たな単語に、明らかに坂上が動揺するのが分かった。


「司書……ああ、確かに。だけど、それがどうした? もう過去のことだ」

「その時、あなたと一緒にいた女性について、お聞きしたいんです。あなたが親しくしていた――杉本小春すぎもとこはるさんについて」


 杉本小春の名を聞いた途端、微かに坂上の眼に力が宿る。彼は汚れた拳を微かに握り、どこか真剣な眼差しで一樹を睨み返していた。


「小春のこと? なんだよ、あんたら……一体、何が言いたい?」

「杉本小春さんは、5年前、交通事故に会って亡くなられた。その事実を、あなたはご存じですか?」

「ああ、知ってるよ……よく覚えてる。けどあれは、飲酒運転をした奴が起こした、正真正銘、“事故”だ。そんなものを今更蒸し返して、なんだっつうんだよ」

「分かってます。あの事故自体は、もうとっくの昔に片が付いている。犯人は捕まっているし、刑だって執行されたって聞いています。それもご存じですね?」

「ああ、分かってるっての! なんだよ、さっきから、回りくどい。それがどうしたって言うんだ」


 言葉を交わす度、明らかに坂上の機嫌が悪くなっていく。きっとそれは、忘れようとした“過去”をほじくり返されたことに対しての、憤りなのだろう。

 そんな彼に、一樹はなおも対峙し続ける。彼自身、坂上とこうして相対することが、ひどく怖くて仕方がない。激昂した彼が何かしてくるのでは――そんな不安が、“幽霊”とはまた異なった恐怖を湧き上がらせてくる。


 だが、それでも一樹は彼に会いたかった。そして、直接話がしたかったのだ。

 あの場所で――“図書館”で手にした、真実を確かめるため。


「確かに事故は終わった。でも、まだ――小春さんにとっては、終わってない」


 奈緒が息を飲むのが分かった。一樹から「俺が喋る」と制されていたせいであえて黙っていたが、それでも一樹の放った言葉に動揺せざるをえない。

 坂上の眼の狂暴な色が増し、明らかな敵意を持って一樹を睨みつけていた。


「いい加減にしろよ。小春はもういない。彼女はあの日、死んだんだ」

「ええ、その通りです。だけどまだ、小春さんはいます。あの場所――あなたと会っていた、あの“図書館”に」


 あまりにも率直で、あまりにも混じり気のない言葉に、奈緒は一樹の横顔を見つめる。

 だが、その一言で動いたのは坂上も同じだった。

 ホームレスは瞬く間に一樹との距離を詰め、彼の胸ぐらを掴み上げた。至近距離に異臭が近付き、目の前で憤怒が爆ぜる。


「ふざけるなよ……なんだ、そりゃあ? あの子が――小春が“幽霊”にでもなって、あの場所にいるってか? ああ!?」


 叩きつけられた怒気に、びりびりと肌が揺れる。すぐ背後の奈緒が「きゃあ!」と悲鳴を上げるのが分かった。一樹もまた両拳を握りしめ、息を飲んでしまう。

 目の前にいるのは“幽霊”でも“悪霊”でもない、生身の人間だ。互いに触れることもできれば、堂々と物理的な危害を加えることもできる。

 このまま言葉を投げかければ、激昂した彼に何をされるか、分かったものではない。


 怖くてたまらない――胸ぐらを掴まれた一樹の足は、かたかたと震えはじめていた。どれだけ覚悟を決めたつもりになっていても、目の当たりにした人間の生の“怒り”を前に、情けないくらい正直に肉体が逃げようとしてしまう。


 坂上が放つ“野獣”のように鋭い怒りが、夕闇を背負ってより大きく、まがまがしく見える。そんなまるで人間とも“幽霊”とも異なる相手を前に、一樹は唇が震えてしまった。


 その恐怖と、胸ぐらを掴み上げるごつごつとした拳の感触が、記憶を呼び覚ます。それは図書館で“彼女”に腕を掴まれた、あの時のおぞましい感覚だった。


 指の細さも、温度も、何もかも違うあのか細い手の感触を、今でも覚えている。初めて触れた“幽霊”の感覚を思い出し、一樹の意識は覚醒した。

 ぎりりと歯を食いしばり、目の前の“野獣”に告げる。


「はい、その通りです。僕は――“幽霊”が視えるんです。彼女は……小春さんは今でも、あの図書館を彷徨さまよってます」

「ふざけた……ことを。お前――!!」

「彼女は今もあそこで本を――“春風の君”を読んでるんです」


 反射的に一樹を殴り飛ばそうとしたのだろう。坂上はもう一方の拳を振り上げるが、それがぴたりと止まる。

 “春風の君”――その単語で、男の顔から怒りが消え、代わりにありったけの困惑が塗りたくられる。


「なんで……その名を……」


 胸ぐらを締め上げていた拳がほどかれ、一樹は何度か咳き込む。顔を上げると、坂上は未だに拳を中途半端に持ち上げたまま、それでも瞳を震わせていた。


「あの人が――小春さんが教えてくれたんです。彼女は“廃棄寸前”の本が並ぶ棚を、じっと見つめていた。その見つめている先にあったんです。ボロボロになった“春風の君”が」


 一樹だけでなく、後ろで見守る奈緒もまた、図書館で手にしたあの一冊――“春風の君”という名の作品に思いを馳せる。

 それは随分と昔に出版された、何人もの作家の作品を集めた詩集であった。調べたところ、売れ行きこそそこまで良くはなかったが、それでも評価は高く、いわゆる“知る人ぞ知る一冊”という存在だった。


 図書館に置かれているそれはかなり傷んでおり、背表紙だけでなく、内部のページもいくつかやぶれている、酷いものだった。

 しかし、その最後のページ――図書カードの名前を見て、一樹らの中でまた一つ“点”と“点”が繋がったのである。


 その本の最後の貸出人は、杉本小春。

 そこに記されていた貸出日付は――5年前だった。


 沸き上がった怒りが散り、ただただ困惑し立ち尽くす坂上。彼の顔を見つめ、一樹ははっきりと言い放つ。


「教えてください。あなたと、小春さんのことを。5年前――なにがあったのか、を」


 夜が忍び寄る河川敷で、坂上と一樹、奈緒は静かに対峙し続ける。

 遠くからはカラスの声がいくつも響く。土手の上を走る車や自転車の音も、今の三人にはひどく遠く聞こえた。


 わなわなと震え、ようやく拳を下ろす坂上。彼の澱んだ瞳の中に、かすかな光が宿っていることを、二人はしっかりと見据えていた。

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