第15話 終わらせれないもの

 土手の斜面に腰かけて対岸を眺めると、暗くなった街にはちらほらと街灯がともりはじめていた。夕食時が近付く街の外観を見つめながら、一樹ら三人は同じ方向を向いて座っている。


 一樹の右側に座る坂上が、まずは頭を下げた。


「さっきはすまない。ついかっとなって、乱暴なことをしてしまって」

「あ……ああ、いえ。大丈夫です」


 先程までの狂暴な姿はすっかりなりを潜め、彼は丁寧な言葉遣いを取り戻していた。一樹だけでなく、その隣に座る奈緒にも続けて頭を下げる。


「そっちの子も、怯えさせてしまったね。本当にすまなかった」

「ああ、いえいえ、そんな! 私達こそ、いきなり押し掛けちゃって、すみません」

「まさか君達みたいな若い子達の口から、小春のことを――5年前のことを聞くことになるとは、思わなかったんだ。どうにも混乱してしまってね……」


 坂上の横顔を見つめていると、なんだか顔つきまで変わってしまったように錯覚した。恐らく今の姿が、彼の“本質”なのだろう。


 川の向こう側に目をやったまま、坂上は語り始めた。


「君らの言う通りだよ。俺は5年前、あの図書館で司書をしていた。そこで偶然にも、彼女――小春に出会ったんだ」

「けど、たしか小春さん、あまり読書家ってわけでもなかったんですよね。それが一体、どうして?」

「最初は些細なことがきっかけだったんだよ。彼女と俺は毎朝、同じ電車で通学、通勤してたんだ。そこで彼女が痴漢にあっていたのを、俺がたまたま助けたんだ」


 一樹が「へえ」と唸る、それよりもはるかに大きな声で、奈緒が目をキラキラさせながら声を上げる。


「すごぉい、かっこいい! そりゃあ、女の子は惚れちゃいますねぇ!」

「い、いやぁ、たまたまだよ、たまたま。俺はがたいも良かったから、睨みつけて凄んだら、向こうが退散しただけさ」


 その謙遜けんそんする姿にも、奈緒は「へええ」と胸を躍らせている。その浮足立つ姿が、どうにも一樹はばつが悪い。なんだか“男”として、どこか坂上という存在に負けた気がしてしまった。

 だが正真正銘、それは坂上麟太郎さかがみりんたろうという男のまっすぐな“本質”が成し遂げられたことなのだろう。

 一樹は男でありながら、なんとなく小春が彼を好きになった理由が、理解できた気がした。


「その後も偶然が続いてね。小春が友達と一緒に並木道を歩いている時に、俺がたまたま図書館を出て鉢合わせたんだ。それ以来、俺が図書館に務めているってことを知られたんだよ」


 恐らく、彼の言う小春の友人とは、一樹らが“取材”を行った相手――東野律子ひがしのりつこだろう。

 どんどんと“点”が繋がり、“線”はその長さを増していく。


「こんなことを言うのは、調子に乗りすぎかもしれないんだが……彼女が好意を持ってくれているのは、よく分かったんだ。彼女は読書が嫌いなのに、俺が好きな本を借りて、一生懸命読んでくれた。図書館に来るたび、前の日に読んだ“詩”の内容について、嬉しそうに語ってくれたんだよ」


 手元を見つめる坂上の目には、悲しみの色が増していく。過去が懐かしければ懐かしいほど、一樹らもその先に待つ“結末”を予感し、同様の憂いを抱いてしまう。

 二人の恋が実らないことは、知っているのだ。


 一樹は少し唇を噛みしめ、それでも前に進むために問いかけた。


「じゃあその時、彼女が借りて読んでいた本って言うのが」

「ああ、“春風の君”さ。あの本は俺が大好きな一冊でね。彼女に勧めたのは、俺なんだよ」


 また一つ、頭の中で音を立て、“点”が繋がる。

 一樹らが見た図書カードの名前――あそこに書かれた杉本小春の名前は、きっと、当時司書をしていた坂上が書いたものなのだ。


「あの事故のことを知って、俺はなんともやりきれなくなってね。もちろん、小春とは付き合っていたわけでもなければ、将来を誓い合った仲でもない。だけどそれでも……彼女がいなくなってしまった事実が、いつまでも俺の心に纏わりついて、離れないんだ」

「じゃあもしかして、あなたが“司書”を辞めたのは――」

「ああ。その出来事がトラウマみたいになって、俺は“本”に触れることが、怖くてたまらなくなったんだ。そんな俺が“司書”なんて続けることはできない。仕事を辞めて、それから無気力に毎日を過ごして――気がつきゃ、居場所さえ失って、こうしてホームレスまで落ちちまった」


 どこか自嘲気味に笑う彼の横顔は、なんとも切ない。きっと仕事を失った程度で、ここまで人が落ちぶれるなんてことは、そうそうないのだろう。

 きっと坂上は、未だに無意識下で過去の“別れ”に縛られているのだ。それが彼を暗闇の底まで引きずり込み、あの高架下から抜け出せずにいるのである。


 彼は両手で頭を押さえ、どこか苦しそうに告白する。


「時々、考えるんだよ。もしあの時、俺が“本”を貸さなければ――彼女が“春風の君”なんて読まなければ、彼女は死ななかったんじゃあないかって」

「それは……」

「分かってる。思い込みや、無駄な背負い込みだってことは。けど、それでも俺は――何度考えても“過去”に納得しきれずにいるんだ。それがたまらなく怖いし、悲しくなる」


 これはあくまで“事故”だ。緻密ちみつに練られた殺人計画でも、組織が絡んだ陰謀などでもない。

 たまたま酒を飲んだ人間が乗った車が暴走し、そこにたまたま小春達が通りかかった。

 そんなどこにでも起こりえる、なにも特別ではない“事故”でしかない。その事実を思い描くだけで、一樹と奈緒も胸を締め付けられてしまう。


 そんなものなのだ。

 人というのは、そんな簡単な理由で死んでしまう生き物なのだ。


 言葉に詰まる二人を前に、坂上はなおも独白を続ける。彼の口をついて出た言葉に、二人は目を見開いてしまった。


「君が言う通りなんだと思う。今も小春はきっと、あの場所にいるんだろう。分かってたんだ」

「え……なんですって?」

「俺も――視えることがあるんだよ。“そういうもの”が」


 ぎょっとし、顔を見合わせる一樹と奈緒。まさかの事実に、開いた口が塞がらない。

 たまらず、奈緒が問いかけてしまう。


「じゃあ、あなたも……視えてたんですか? その……“幽霊”になった、小春さんが」

「あの棚の前に、“彼女”がいるのは知ってた。だけどそれを見た時、より一層、怖くなったんだ。彼女はきっと、俺を探しに来たんじゃあないかって。俺への“恨み”を晴らすために、あの場所にいるんじゃないかって。それがたまらなく怖くて……もうそれ以来、あの場所には行っていないんだ」


 坂上麟太郎という男は、一樹らよりも前に“図書館の幽霊”に対峙していたのだ。そしてその上で、彼は“それ”に背を向けることを決めたのだろう。

 かつて失ってしまった、“亡者”となった彼女を。


 唖然としてしまう二人に、再び坂上は自嘲気味に笑いながら、言葉をつむぎ出す。


「そんな情けない男なんだよ、俺は。かつての彼女だけでなく、職も居場所も失って、ただ逃げ続けることしかできない臆病者さ。だからこんな俺に今更、できることなんてないんだよ。それこそ彼女の望み通り、死んであっちの世界で詫びるくらいしか、残されちゃあいないさ」


 視線を持ち上げ、再び河川敷から見える街の姿に視線を走らせる坂上。奈緒は何か言いたげにうつむいていたが、どうにも言葉が出てこない。

 簡単な励ましなど、今の坂上には無意味だと分かる。彼が目の当たりにした数々の現実の前では、一樹ら二人の言葉はあまりにも軽く、意味をなさない。

 

 だがそれでも、隣に座る坂上の横顔に、言葉を投げかけずにはいられなかった。

 奈緒ではない。一樹が拳を握りしめ、吼える。


「勝手なことを――言わないでください」


 坂上と奈緒が「えっ」と声を上げるのは同時だった。

 振り向くと、一樹はまっすぐ至近距離で歯を食いしばり、坂上を睨みつけている。


 彼の怒りの理由が分からないのか、坂上は呆けてしまっていた。


「勝手に、終わらせないでください。あの人の――小春さんの思いを」


 自分達が部外者であるということは、知っている。坂上と小春の間に、自分達のような若造が入り込む隙がないことも、重々理解していた。

 それでもなお、一樹は黙ってはいられなかった。それは今まで、彼なりに多くのことを考え、ここまで歩んできたが故だったのだろう。


 図書館の幽霊――あのおぞましい姿のその背後に、杉本小春という人間がいたことを知った。死してなおこの世に留まり、あの場所で何かを待っている彼女のことを、知っている。


「小春さんは……まだ、あの場所にいます。きっと毎日、誰にも見つからないまま、あそこで待っているんです。もしここで何もしなければ彼女は――これからもずっと、一人なんだ」


 思わず奈緒が「一樹君」と、呟いてしまう。坂上はもはや、言い返すことすらできない。ただ唖然とし、目の前の鬼気迫る姿を受け止めるしかない。


「恨み辛みなのかもしれないし、まったく別の感情なのかもしれない。だけど少なくとも、僕が触れた小春さんからは、なにか強い、曲がらない“思い”が伝わってきました。彼女は死んでもなお、確かに、強い思いがあってあの場所にいるんです!」


 気が付けば語気を荒げ、必死になって小春のことを伝えようとする自分がいた。友人でもなければ、ましてや血縁でもない赤の他人のことを、それでも一樹は強く思い、考え、そして言葉を絞り出す。


 諦めてほしくなかった。

 杉本小春という人間はすでに一度、望まない“終わり”を与えられた存在だ。

 そんな彼女のことを、またも“終わり”のままにしないでほしい。


 そんな子供じみた、どこかわがままにも似た思いが、今まで以上に強く、熱く、一樹という人間を走らせる。


「俺達じゃあ、無理だ。だけどあなたなら――“春風の君”を彼女に伝えた、あなただから、出来るんだと思います。お願いします。一度で良い、彼女に会ってください。あの――“図書館”で待つ、小春さんに」


 夜の冷たさを宿した風が、ざああと駆け抜け、土手に生え揃った草を一斉に撫でる。そこに座る三人の髪をかきあげ、肌の表面を滑った。

 対峙した一樹の体から滲み出た“熱”が、風に乗って坂上へと伝搬する。

 止まりかけていた彼の“心”の奥底に、ほんのわずかだが、一樹が振りかざした炎が灯り、動き出そうとしていた。

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