第13話 原動力
相変わらず担当編集者の男・田中は、「ラブ&ゴースト」の今後について、あらかじめ用意していた内容を淡々と伝えてくる。
だが一方で、一樹はそれらを聞きながらも微動だにせず、前を向いて耐えていた。
さすがにその姿が異様だったのか、田中は少しだけ会話を中断し、問いかけてくる。
「一樹君、そのぉ~……大丈夫かい?」
「なにがですか」
「ああ、いやぁ。なんか随分と、疲れてそうだなぁって」
田中が珍しくたじろいでいる姿は、どこかいい気味だったが、一樹はあくまで「そうですか」と端的に返す。
田中の動揺も無理はない。一樹の目の下には色濃い“くま”が浮かんでおり、一目で寝不足だというのが分かる。
「もしかして、なにか原稿のこととかで悩んでるのかい?」
「いえ、そういうんじゃあ、ないです」
「ああ、そう……まぁ、困ったことがあったら、早めに相談してね。ほら、大人気企画だから、少しでも穴があくと、読者の人もがっかりしちゃうだろうしさ」
気を使っているように見えて、その実、自分達の“利”のことしか考えていない田中の言葉に、一樹はつくづく嫌気がさす。
結局、打ち合わせは終始、目の下にこしらえた“くま”のお陰で、仏頂面のまま押し切ることができた。
田中が言うように、一樹はここ最近、延々と“図書館の幽霊”こと
彼女は交通事故に会う前、“図書館の司書”の男性に恋をしていた。新たな手掛かりを一樹らは探し始めたが、ここで思いの外、調査は停滞してしまう。
小春の時と異なり、“司書の男性”を知る人間はとんと現れなかったのだ。現在の司書である女性にも問い合わせて見たが、過去の職員の個人情報などはプライバシーの観点から、教えてもらっていないらしい。
順調に進みかけていた調査がどうにも煮詰まり、思うようにいかなくなり始めていた。
さすがに一樹の仏頂面が強烈だったのか、珍しく田中が一樹の機嫌を取ろうと話題を変える。
「まぁ、頑張ってくれるのは嬉しいんだけど、あまり根詰めても良いものはできないよぉ。一樹君、たしか“図書館”で調べものしてるって言ってたけど、辛い時は無理せず、ゆっくり家で作業してもいいんじゃあないかな」
――余計なお世話だ、ばかたれ。
あえてより不機嫌な面にしつつ、心の中でありったけの罵声を叩き込む。とはいえ、問題を起こすのもそれはそれで面倒なだけなので、適当にあしらった。
「そうですね。そうしてみます」
「けれど、確かにあの“図書館”は色々と幅広い資料が揃ってるからねぇ。僕はもっぱらネットで済ませちゃうけど、もう少し家から近ければ、通ってみても良いかなって思っちゃうよ」
なにを言われても「ばかたれが」と心の中で叫ぶつもりだったが、思いがけない一言にようやく仏頂面をやめ、素直な態度で問いかけてしまう。
「田中さん、あの“図書館”って――知ってるんですか」
「ああ。実は昔、知り合いがあそこで働いててね。5年前くらいに、司書をしてたやつがいたから、その縁で何度か行ったことはあるんだよぉ」
一樹の不機嫌な姿が耐えがたいのか、田中は資料をまとめ、打ち合わせを終わらせようと立ち上がった。しかし、今度は一樹がそれを呼び止める。
「あ、あの! 今、“司書”って言いました?」
「え……う、うん。そうだね」
「“図書館”の司書をやっていた男性――しかも……5年前!?」
唐突に声を張り上げた一樹の姿に、鬼気迫るものを感じたのだろう。一歩後ずさりしつつ、田中がどこか観念したように座りなおす。
「あ、ああ。まぁ、古くからの友人でね」
「あの……その人、名前とか分かりますか?」
「え……なんで、そんなこと――」
「どうなんですか!?」
凄まじい勢いで喰いついてくる一樹に、田中はのけぞり、背もたれに体を押し付けてしまう。血走った目を見つつも、弱々しく首を縦に振った。
「あ、ああ、まぁ……そりゃあ、知ってるよ」
「その――住んでる場所とか、分かったら教えてほしいんですけど」
「住所も? まさか、“あいつ”に会いに行くのかい?」
確証はない。田中が口にした知り合いが、一樹が追い求める人物と同一なのかは、まだ分からない。
だがそれでも、心のどこかに“確信”めいたものがあった。
5年前に図書館に務めていた、司書の男性――そんないくつもの符号が、そう易々と合致するなどという偶然は、ありえない。
思わぬところから探し求めていた“手掛かり”が飛び出したことに、一樹は一気に肉体が覚醒するのを感じた。しかし田中は、どうにもばつが悪そうに言い淀んでいる。
「う~ん、まぁ、会うのは好きにすればいいんだけど……できれば、会わない方が良いと思うけどなぁ」
「どういうことですか。会わない方が良いってのは?」
「なんていうか、その……あいつも色々あって、随分と変わりはてちゃったからさぁ」
その弱々しい言葉尻の意味が、一樹にはすぐに分からない。とにかく、打ち合わせで使っていたメモの端に、“男性”の情報をメモすることにした。
だが、“住所”を聞いたところで、一樹は「えっ」と驚いてしまう。半ば予想通りだったようで、田中もまた無言でうなずいた。
担当編集者のどこか知った風な苦笑は、疲れていようがいまいが、やはり一樹にとってひどく煩わしく映った。
***
夕日が差し込む図書館は濃い影が幾重にも重なり、どこか不気味な静けさに包まれていた。
すっかり人気のなくなった部屋の中で、一樹はカウンターに座る司書の女性の前を通り過ぎ、部屋の隅へと足を運ぶ。
普段、ほとんど人が立ち寄らない本棚の前――そこに、やはり変わることなく、あの“幽霊”はいた。
長い黒髪と白い服、血の気のない横顔を見つめ、一樹は息を飲む。
ざわざわと肌が粟立つのが分かった。まだ数メートルの距離があるが、対峙しただけで空気を伝い、妙な悪寒が肉体へとまとわりついてくる。
本来ならば絶対に近付かないそれに、一樹は意を決して一歩、距離を詰めた。
重く、冷たい氷水の中を進むような、仄暗い感覚が細胞をざわつかせる。たった一歩移動しただけなのに、周囲の気温が数度、確かに下がったように感じた。
一歩ずつ、慎重に進む一樹。目の前の“幽霊”はまるで動こうとせず、本棚を見つめてただ黙している。
もはやその“亡者”の横顔が、すぐ間近に迫っていた。黒に染まった眼球や、微かに開かれて震えている口元までが見える。
クーラーが当たる位置ではないのに、“彼女”の周囲に微かな大気が流動しているのが、肌で分かった。
恐ろしくて、たまらない。かつて“幽霊館”で出会った“悪霊”に比べれば、目の前にいるのは明らかに人間の女性の姿を形どった存在だ。
だがそれでも、“生者”とは明らかに違う波長が、一樹の本能を激しく震わせ、警告する。
絶対にこの存在と交わってはいけない、と。
だがそれでも、一樹は彼女に――杉本小春に近付き、そして観察してしまう。
どうしても、確かめたいことがあった。一樹は小春の黒い眼差しの先を、ゆっくりと
彼女が見ている本棚へと、視線を移す。そこには古びたボロボロの本ばかりが並んでおり、見たことも聞いたこともないタイトルばかりが鎮座していた。
あらかじめ司書の女性に確認はとっていたが、この棚はいわゆる“わけあり”の書物が並ぶゾーンらしい。なにかの理由で汚れたり傷付いた廃棄寸前の本が、ここにまとめられるということだ。
慎重に、ゆっくりと一樹は“幽霊”の視線の先にある一冊を見る。そこには少し太めの背表紙が見えたが、どうやらかなり傷んでいるようで、タイトルの一部が削れてしまっていた。
辛うじて“――の君”という部分のみが読み取れる。一樹は一度、生唾で喉の奥を潤し、ゆっくりとその一冊に手を伸ばした。
あと数センチという所で、一樹の手が止まる。いや、正確には――“幽霊”の手によって、その腕が掴み取られた。
ぞぞぞ、と全身が震えた。一樹が慌てて振り向くと、自分を睨みつける“幽霊”と目が合ってしまう。
真っ黒な、どこまでも続く暗闇が、眼の奥に広がっていた。握力ではなく、ただただおぞましいほどの冷たさが指から伝わり、肉体の感覚を麻痺させる。
呼吸を止め、失神しそうになる意識を必死に繋ぎ止める一樹に、至近距離にいる“彼女”の声が聞こえてくる。
――の寒――越え――丘――
かすれるように響いてくるその声が、恐ろしかった。どくどくと脈打つ自身の鼓動を、自身に叫ぶことで押さえ込もうとする。
落ち着け、過剰に恐れるな。
この人は――“人間”だったんだ。
今まで抱いたこともない感情を、一樹はたった一つの武器として、“幽霊”に立ち向かう。
掴まれた腕が震え、それは胴体を経由して足にまで伝播する。骨まで臆してしまわないよう、あらん限りの力で歯を食いしばった。
――共――暖――――死――
聞き覚えのある絶望的な単語に、ついに意識が限界を迎えようとしていた。か細い腕だというのに、振り払うこともできない。一樹はただ痛いほどに歯を食いしばり、至近距離の“亡者”から視線すらそらせずにいた。
一樹の腕を掴む冷たい感覚の上に、ふっと暖かさが添えられる。その変化でようやく一樹の意識が覚醒した。
“幽霊”の上に重ねられた、血色の良い手には見覚えがある。一樹が振り向くと、そこには奈緒の横顔があった。
彼女は自身の手を添えたまま、強い眼差しを“幽霊”に向けている。“幽霊”もまた、奈緒を睨みつけていた。
漆黒の眼を覗きながら、奈緒は静かに告げる。
「大丈夫。この人は、悪い人じゃあないから――信じて」
言葉の真意は分からない。だが、しばし黙した後、“幽霊”はふいに一樹の腕を放し、解放してしまう。
瞬間、失いかけていた全ての感覚が戻ってきた。思わず力の込め方が分からなくなり、尻もちをついてしまう。
なおも目の前には、本棚を見つめる“幽霊”――杉本小春がいた。その横に立つ奈緒が、どこか困ったように笑い、一樹に手を差し伸べる。
「無茶するなぁ、もう」
「あ――ご、ごめん! ありがとう」
手を貸してもらい、何とか立ち上がる一樹。膝はまだかすかに笑っているが、それでも先程より随分と力強さが戻ってきていた。
「いったい、どういうつもり? あんなに距離を置きたがってた“幽霊”に近付くなんて」
「い、いや、その人に近付きたかったんじゃないんだ。ただ――その“本”が気になったんだよ」
奈緒が「本?」と首を傾げ、本棚に視線を送る。一樹は改めて先程の一冊に、恐る恐る手を伸ばした。
ちらりと横目で“幽霊”を見るが、動く気配はない。意を決し、一冊に手をかけ、引き抜く。
手元の一冊を見ると、随分と古めの“詩集”のようだった。なんとも重厚な一冊で、背表紙同様、色々な箇所が擦り切れ、補修した跡が見える。
奈緒もそれを覗き込み、声を上げた。
「うわあ、随分痛んでるね。なんの傷だろう、これって」
「さあ、な。だけど、この中にもしかしたら――色々な“答え”がある気がするんだ」
ちらりと一樹は“幽霊”を見る。彼女の視線は本棚ではなく、一樹が持っている一冊に移っていた。
間違いない。彼女が見ていたのは本棚ではなく、この一冊の本だったのである。
恐る恐る慎重に、本を開く。そこに記されていた内容を、二人はじっくりと読み込んだ。
最後まで目を通し、一樹は閉じたそれを元あった場所に戻した。“幽霊”の視線が再び、本棚へと戻る。
しばし一樹も奈緒も、言葉を交わすことができなかった。それほどまでに、先程の一冊に記された内容は、二人にとって“核心”に近い考えを抱かせたのだ。
最初に口を開いたのは、奈緒だった。
「一樹君。これって……つまり――」
「まだ、はっきりしたことは、分からない。だけど、なんとなくでも――小春さんが、ここにいる理由が見えてきたよ」
いまだ戸惑っている奈緒に対し、一樹の眼差しは強かった。思いを巡らし、自身の中で結論を出す。
どれだけ色濃く“くま”が浮かんでいようが、その上に並ぶ眼光はただ鋭く、一切の迷いも持たずに“幽霊”の横顔を見ていた。
拳を握りしめる一樹に、奈緒は恐る恐る、問いかける。
「一樹君。これから、どうするの?」
「決まってるさ。今のままじゃあ、ただの憶測だ。もっとはっきりと――“真実”を知る人間に、会いに行く」
言うや否や、一樹は直ちに歩き出し、図書館から出ていってしまう。奈緒は呆気に取られていたが、慌てて彼に続く。
二人が去り、誰もいなくなった図書館の中には、“幽霊”のみが取り残される。
仄暗い本棚の前で、彼女はなおもたたずむ。目の前にある一冊――ぼろぼろの背表紙に向けて、微かに開いた口元から、声が漏れた。
――愛――来――
そのとぎれとぎれの旋律は、けっして空気を震わせることなく、夕日によって濃さを増す影の中に吸い込まれ、消えてしまった。
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