第10話 “復讐”という光へ
椅子に深く腰掛けたまま、一樹はちらりとスマートフォンの画面を確認した。編集者の田中が部屋を出てから、もう15分は経とうとしている。
一人きりの会議室に取り残されたまま、どうにもやることがなく、ただいたずらに椅子を回転させていた。
出版社で行う定例的な打ち合わせは、もうとっくに終わっているはずだ。だがそれでいて、先程から随分と長い間、一樹はこうして一人きりで待たされている。
――どういうつもりなのか。
出版社に辿り着いてから抱いている“違和感”に、一樹は首をひねってしまう。
いつもなら一樹が通されるのは、編集部の脇に設置された打ち合わせ用のスペースで、雑音をBGMに議論を交わすはずだった。
だが今日は違う。なぜか別階の、少し大きめの清潔感溢れる一室に通され、そこでなんとも快適な打ち合わせを進めることができた。
その待遇の変化の理由が、どうにも分からない。そしてその上で、なぜこうも待たされる必要があるのかも、理解に苦しむ。
一樹は一人きりになるのが、未だに少し苦手だった。一週間前――あの“館”であった出来事が、トラウマとなって心の奥底に張り付いている。
もしこの出版社まで、あの“悪霊”がやってきたらと思うと、生きた心地がしない。できる限り早く、もっと人が多い、陽の光の当たる場所に戻りたいものだ。
そわそわしていると、ようやくドアを開け、田中が顔を出す。彼はなぜかその場で立ち止まり、室内の一樹に笑う。
「やあやあ、ごめんね。遅くなって」
椅子に座りなおし、「いえ」と軽く会釈する一樹。田中はいつも通りの好きになれない取り繕った笑みを浮かべていた。
「悪いねえ、ちょっとばかし手続きに手間取っちゃって」
「ああ、別に……あの、それで、なにか?」
「いやぁ、ちょっと今回、一樹君に会ってもらいたい方がいるんだよね。ちょうどタイミングが合ったから、せっかくだから、って思ってさ」
それを聞いてもいまいちぴんとこず、「はあ」と返すしかない。呆けていると、田中は何やら部屋の外にいるであろう人物に向かって「どうぞ」と招き入れた。
田中がドアを支えていると、一人の女性が姿を現し、つかつかと入ってくる。背筋を伸ばし、毅然と立ち振る舞う彼女に続き、いつも以上に軽々しい笑みを浮かべた田中が告げた。
「いやぁ、本当にありがとうございます。我々としてもこういう機会を設けられたのは、運が良いと言いますか――」
妙に低姿勢な田中よりも、一樹は突如現れた女性の姿に目を奪われてしまっている。
濃い目のグリーンで統一したワンピースとパンツ、羽織ったジャケットは、まるで嫌味がない。それを着こなす彼女自身が持つ“気品”が、それらの一体感を生み出しているのだろう。
妙齢であったが、“老いている”という感覚はまるで伝わってこない。微かにウェーブのかかった黒髪は艶やかで、口元の皺すらも彼女の年齢という“積み重ね”の説得力を表しているようだ。
呆けている一樹の前で、彼女はサングラスを外す。そこまででようやく、目の前の彼女の正体を一樹は察することができた。
だからこそ、言葉が出ない。
包帯を巻いた両手が、痛みを走らせながらも自然と強張り、椅子の取っ手を握りしめてしまった。
――なぜ、この人が。
口を開けたままの一樹に彼女は――女優・
「あなたね。『ラブ&ゴースト』を書いてる――ええと、確か――」
艶やかな声だった。テレビなどで耳にするそれが、電波やモニターを経由せず、直接届けられるという妙な感覚に開いた口が塞がらない。
彼女の隣に座った田中が「
「一樹君、さすがに驚いちゃったかなぁ。いやぁ、凄い幸運だよね。黒住さんがちょうど、同じ時間帯に来られてたんだよ。ほら、一樹君!」
何一つ説明されていない一樹だったが、田中のその“圧”が指し示すところは、なんとなく理解できた。それに従うのも癪だったが、一樹は反射的に頭を下げてしまう。
それほどまでに、“大女優”が身にまとったオーラは、強く、果てしない。
「あの……兵藤一樹です。はじめまして」
「兵藤さんね。驚いたわ、随分若いのね」
まるで動じることなく、黒住は目の前の一樹を
何かが違う――テレビや雑誌で見ている黒住という女優の雰囲気とは、また別の何かを体で感じ取っていた。
まるで言葉が出てこない。あれやこれや、この女優に対して思う所はあったはずなのに、いざ目の前にするとどうにもうまく喋ることができない自分がいた。
対峙する“ゴーストライター”に向かって、黒住は軽くため息をついた後、告げる。
「いつも、あなたの書いた文章を読ませてもらってるわ。無名の作家さんってことだけど、若いのに随分と小難しい文章を書くのね」
明らかに棘のある言い方に、「えっ」と眉をひそめてしまう一樹。対して、へらへらと笑う田中が喋りはじめてしまう。
「いやぁ、ホラーを書ける作家ってのも貴重なんですよぉ。一樹君はそういう意味では、なかなか独特のセンスを持ってまして」
「ふうん、そうなの」
なんだか、先程から妙に感情の色が薄い。最初こそ大女優を目の当たりにしたことで動揺していた一樹だったが、徐々にその態度に対し、“妙だ”と思いはじめる。
こうして対峙した以上、作品の今後の打ち合わせか。はたまた、なにか要望や賞賛の言葉を告げられるのか。
様々な予想を巡らせる一樹に対し黒住はまた、ため息をついてみせた。
「まぁ、これからもよろしくね、兵藤さん。頑張って」
思わず「えっ」と呆けてしまい、言葉を失う。黒住はというと、そのまま素っ気なく立ち上がり、部屋を立ち去ろうとしてしまう。
さすがにこの態度は、田中も予想外だったのかもしれない。たまらず、彼女を呼び止めた。
「黒住さん、もう帰られるんですかぁ?」
「ええ。あいにく、この後もファッション誌の撮影と対談があるので」
サングラスをかけなおす黒住に、唖然としてしまう一樹。
もはやそれは“対談”や“打ち合わせ”ですらない。ただ黒住が、一樹という人間を“確認”しただけに他ならなかった。
何とか場を繋ごうと、田中が無理矢理、話を一樹にふってくる。
「ま、まぁまぁ、せっかくこうして“原作者”と“執筆者”がお会いしたんですし、なにか積もる話でも」
「言ったでしょ、忙しいって? 遅れたら、どうするつもりなの」
「まぁ、そうですが――ほ、ほら、一樹君。なにか、“執筆者”として、言いたいこと、あるんじゃあないの?」
バトンを渡された一樹を、黒住が睨みつける。どれだけサングラスをつけていても、その奥の眼差しの強さが、しっかりと伝わってきた。
あまりにも横柄な態度に、一樹は混乱しっぱなしである。テレビで話す姿も、雑誌で笑いかける姿も、全てこの黒住という女性が作り上げた“外向き”な虚像に他ならないのだろう。
怒りのような、悲しみのような、奇妙な感覚に突き動かされながら、一樹は拳を握りしめる。そして、その感情が、ある一つの疑問を投げかけさせた。
「あの……ええと……」
「なに?」
「その……なんで――自分で書かないんですか?」
その一言に、田中が目を丸くして息を飲んでいた。一方、黒住はまるで動じない。ただじっと、言い知れぬ“圧”を纏ったまま、こちらを見ている。
負けてはいけない――一樹は拳を強く握りしめ、前を向く。
「あれは……『ラブ&ゴースト』は、あなたの作品です。だから本当なら……あなたが書けば――」
「やることが他にあるからよ。そんな“かったるいこと”、やってられるわけないでしょう」
返ってきた一言に、一樹は言葉を失う。絶句する一樹と言い放った黒住を、薄ら寒い笑顔を浮かべたまま田中は交互に見ていた。
「こちらの出版社から、企画を持ち掛けられたから、適当な原案を出した――それだけのことよ。“小説”なんて、いちいち自分で書いてる時間なんてないし、あなただってそれでお金がもらえるんだから、なんの問題があるの?」
端的で、呆気なく、あまりにも――心のない一言だった。
一樹は椅子に座ったまま、ただ肉体に突き刺さる“刃”の痛みを、噛みしめる。
「その手、怪我してるようだけど、“小説”は書けるんでしょうね?」
「あ――は、はい……」
「そっ。ならいいわ。くれぐれも、余計なことは他言しないでね。まぁ、話したところでだろうけど、余計な波風が立つと面倒くさいからね」
そんな無情な一言を最後に、黒住はそそくさと部屋から出ていってしまった。
田中は少し一樹を見たが、すぐに彼女の機嫌を取ろうと、後を追って部屋を出ていってしまう。
再び、部屋の中に取り残される一樹。しばらくは二人が去ったドアを見つめていたが、やがてすぐ手元を見つめ、歯を食いしばってしまう。
掌の包帯に血が滲んでいた。握りしめたことで、傷が少し開いたのだろう。
だがそんな痛みなどは、どうでも良かった。その痛みを塗りつぶすほどの“痛さ”が、心の奥底を締め上げ、吐き気すら湧き上がってくる。
あまりにも短い邂逅の中に、それでもはっきりと分かったことがあった。
彼女は“なめている”のだ。
世間を
その事実が、腹立たしい。だがそれでいて、ただただ虚しさだけが沸き上がってくる
一人取り残された部屋の中に、自身の震える吐息の音だけが響き続けていた。
***
静まり返っていた図書室の中に、原稿を読み終わった奈緒のはつらつとした声が響いた。
「いやぁ、今回も良かったぁ!! 意外だったなぁ、まさか1話で退場したと思ったあいつが、また登場して味方になってくれるなんてねぇ!!」
相変わらず、一樹の自作小説を読み終え、嬉々としてその感想を語ってくれる。対し、隣に座る一樹は手元に視線を落としたまま、「そう」とだけ返した。
今日は受付に司書の女性の姿はない。正真正銘、二人きりの図書室で、遠慮することなく奈緒は語る。
「やっぱり、こっちの作品の方が断然いいよ! なんか“幽霊”の取材の内容を使うようになって、臨場感も増した気がするんだよね」
「そう、か……そりゃあ、良かった」
「うんうん。これなら間違いなく『ラブ&ゴースト』よりも、読者の心に刺さると思うよぉ」
嬉しそうに語り続ける彼女の横で、なおも一樹は視線を落としたままだ。
あれやこれやと喜んでくれる彼女の言葉が、ひどく遠く聞こえる。
「この間の取材はすごい怖かったけど、でもあれが作品に生きてくるなら、報われる――」
嬉しそうに語りながら、視線を一樹の横顔に向ける奈緒。だがそこで、彼女は気付き、言葉を飲んでしまう。
一樹の目から、一筋の雫が流れ落ちるのが見えた。じっと一点を見つめる一樹に、奈緒は問いかける。
「一樹君――どうしたの?」
無言のまま、ぽたり、ぽたりと涙を流す一樹。答えた彼の声が酷く、震えていた。
「ごめん……俺……俺――」
平静を装おうとしたのだろう。だが、どう取り繕ったところで、まるで笑うことなどできない。
歯を食いしばり、顔を歪め、一樹は泣き始めてしまう。赤く染まり震える横顔を、奈緒は混乱したまま見つめていた。
しばし図書館の中に、すすり泣く声が響いた。だが、奈緒が原稿を置き、代わりにその手を一樹の肩にそえる。
「なにが、あったの? 一樹君」
そんな暖かい声を受けてもなお、一樹は答えられなかった。体を震わし、両手を痛いほどに握りしめたまま、机に伏せて泣くしかない。
奈緒はそれ以上、焦ることはしなかった。ただ一樹の肩に触れたまま、震える彼の体から伝わる感覚に思いを馳せている。
待ってくれる彼女の手のぬくもりが、一樹にとってはただただ辛い。
笑顔で喜んでくれる彼女を、自身の情けない姿で縛っていることが、より一層、辛いのだ。
すすり泣きながら、それでも一樹は必死に、言葉を選びながら理由を伝えた。
編集部での出来事をひとしきり話し終え、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「黒住の言葉――いや……態度で分かったよ。あいつにとって“物語”は――『ラブ&ゴースト』なんてのは、どうでも良いものなんだって。ただ世間を沸かせる“材料”でしかないんだって」
自分のやってきたことを、否定されただけではない。あの瞬間、一樹は自身が愛してきた“生きがい”そのものを、コケにされたのだ。
「惨めだった――分かってたんだよ。俺がどれだけ全力を出したところで……必死に書いたところで、結局俺がやってることは、あの女優の“影”でしかないんだって。分かってる。分かってるんだ。けど――」
奥底から、思いが溢れ出す。塞き止めていたはずの感情が、文字となり、そして連なる“言葉”となって、放たれる。
その一つ一つを、奈緒はまるで逃げることなく直視し続けてくれた。
「“影”であるってことは……こんなに、辛いんだな。こんなに――痛いんだな」
ぶちまけた瞬間、現実が改めて心を締め付け、嗚咽が漏れた。ぽたぽたと机の上に落ちる雫が、ただひたすらに広がっていく。
生きる意味など、考えたこともない。なにをするのが自己の証明になるのかなど、数十年の人生ではまるで辿り着くことはできない。
だがそれでも、今の一樹は世界の中で“生きていけている”という実感が、まるで湧いてこない。
あの出版社にとって、世間にとって、そしてあの女優にとって――兵藤一樹という人間は、遥かに希薄な存在でしかないのだ。
呼吸ができて、腹が減って、怪我をして。
だがそれでも一樹は自分が亡者――“幽霊”と同じようなものでしかないと、分かってしまう。
その切なさが、虚しさが、悔しさが。とめどなく肉体の奥底から、涙を湧き上がらせる。包帯に染み込んだ雫は、傷口から溢れた血と混ざり、ぐっしょりと濡らす。
どれ程の時間、涙を流したのだろう。びしゃびしゃに汚れた一樹の両手を、不意に奈緒が掴み、引き寄せた。
突然の感覚に、ぐしゃぐしゃになったままの顔を上げる一樹。涙と鼻水にまみれた彼の顔を、手を握ったまま、それでも奈緒は真っすぐ見つめる。
笑ってなどいない。彼女はただ真っすぐ、強い眼差しを向けている。
あの時――“勝てばいい”と一樹に告げた、あの日と同じ目だ。
「一樹君が“生きている”から、痛いんだよ。体も、心も、しっかりこの世界を歩いてるから、痛いって感じられるんだよ」
語り掛ける彼女の言葉を、真正面で受け止める一樹。汚れることもいとわず、彼女はしっかりと包帯まみれの両手を支える。
「痛くて、痛くて痛くて痛くて――それで、どうするの。その痛みを受けて、なにをするの?」
厳しい眼差しだった。適当な優しい言葉も態度もない、ただ真っすぐな言葉を、あえて奈緒は叩きつける。
それがていの良い、取り繕った美辞麗句ではないからこそ、一樹は今もなお“痛み”を感じたまま、前を向く。
「泣くことじゃあないでしょ? あなたがやるべきことは、“書く”こと――やるんでしょ?」
数日前に固めた“覚悟”を、改めて問いかけてくる奈緒。一樹はその手のぬくもりを受け止めながら、惨めな表情のまま考えてしまう。
やるべきこと――誰かのために書く物語は苦痛だ。だがそれでも、一樹はそれを“捨てる”ということだけは、今日まで選ぶことができなかった。
それは、“仕事だから”だとか、“約束したから”などという、ちんけな理由からではない。
一樹にとってこれが――“書く”ということが、正真正銘、心から“好きなこと”だったからだ。
「悔しいのはね、“嫌”だからだよ。惨めなのはね、“嫌”だからなんだよ。一樹君にとってあの黒住って人は――“正しくない人”だってことだよ」
「奈緒……」
「だったらさ、“正しいと思う道”を歩いてやりなよ。そうして、証明してやればいい。一樹君の持てる、全部で――それがあの黒住って人への、一番の“仕返し”になるんだと思う」
どこか奈緒の丸く大きな目も、潤んでいるように感じた。彼女はきゅっと唇を結び、目の前の一樹に大きく、無言でうなずく。
重ねられていた手を見つめた後、一樹は静かにまぶたを閉じ、暗闇の中で考える。
スポットライトを当てられ、輝かしい舞台で活躍する大女優。
人々が彼女に注目する一方で、その脇の暗がりに座り込む“作家”に、誰も気付きはしない。
無力な存在だと、笑われるだろう。滑稽だと、嘲られるだろう。
負の感情に沈みかける一樹を、暗闇の中に伝わる両手のぬくもりと、目の前にいる彼女の“言葉”が救い上げる。
そのスポットライトは、自分のじゃあない。
振り向くと、そこには別のステージがあり、誰もいない壇上で光だけが躍っている。
大女優にはなれない。俳優にも、名優にも、なれる“器”ではない。
だがそうではない。一樹が進みたい“道”は、そこではない。
暗がりに座っていた男は、ゆっくりと立ち上がる。今だ誰にも気づかれないまま、それでも静かに、自分が望む“場所”へ向けて、一歩を踏み出した。
涙は止まっていた。呼吸が落ち着き、ようやくゆるりとまぶたを持ち上げる。
微かに潤んだ視界の中に、いまだなお真っすぐ、こちらを見つめる奈緒の姿があった。
――そうだな。そうだったよな。
彼女から告げられたあの言葉を、どこか適当に扱っていた自分を恥じ、叱咤する。
そして改めて、一樹は“決心”した。
影を抜け、光の下に立つことを。
誰にも譲らず、誰にも怖気ない、堂々とした“道”を行くことを。
これは“復讐”――“幽霊”である自分が、“人間”になるための、“復讐”の物語だ。
見開かれた眼差しが、目の前の彼女を捉える。無言のまま、互いの手を握りしめ、一樹と奈緒は思いを交差させた。
いまだ完治しない手の傷が、チクチクと痛む。肉体を騒ぎ立てるその傷の下で、ごおごおと加速する血潮が、体に熱を宿し、暴れはじめていた。
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