第9話 撒き餌

 一樹が大きく駆けだしたのと、“それ”が天井から落ちてくるのは、同時だった。

 すぐ背後で“どうっ”という轟音が響き、一樹は足がもつれて転んでしまう。スマートフォンを守ろうとしたせいで顔面を打ってしまった。


 激痛こそ感じるが、一樹はただちに振り返る。つうと鼻血が流れ落ちるも、それを拭くことすら忘れてしまう。


 “それ”は改めて対峙すると、とにかく巨大だった。身の丈、2メートルは達しようかという巨躯はとにかく全身白一色で、ぐぐぐと上体を持ち上げ、こちらを見ている。


 奇妙な肉付きだった。

 腕や足が長いのだが、それらは良く見ればまるで形が整っていない。一部の手や足が極端に大きいくせに、かと思えば一方の腕だけがやけに細かったりと、まるで適当に作られた“粘土細工”のようなアンバランスさだ。


 しかし、そんな奇形の肉体など、まるで気にならない。

 そんなことよりも、その首の上で笑う“四つ”の頭部を、一樹は注視してしまう。


 四つの顔が、笑っている。

 四つの口が歪み、四つの呼吸が重なる。


 ――ハァー、シィー、ハァー、バァー。


 “それ”が手を伸ばした瞬間、一樹の肉体が考えるのではなく、本能で駆け出した。踵を返し、直ちに部屋から飛び出す。


 ――“あれ”は、ダメだ。


 正体も何も分からずとも、はっきりと分かることがある。目の前のこの存在は、今まで見てきた“幽霊”などとは別格だ。

 一樹が今まで出会った“怪異”の中で、間違いなくダントツで危険で、やばい“なにか”なのである。


 一樹はスマートフォンをポケットに捻じ込みながら、とにかく走る。

 一瞬遅れて部屋から巨体が飛び出し、壁に“ずうん”と音を立ててぶつかった。

 

 うまく曲がれなかったそれをちらりと振り返ったが、歪んだ体に関係なく、“それ”は壁や天井を無秩序に手繰り寄せ、巨体をこちらに進めてくる。


 また一つ、一樹は絶叫していた。とにかく壊れかけの地面を蹴り、一歩を踏み出す。


 しかし運が悪いことに、脆くなった木板を踏み抜いてしまったらしい。床が抜け、そのまま一樹は下の階に落下してしまった。


「ぐ――っはッ」


 打ち付けられた体から、無理矢理、空気が押し出される。めきりと嫌な音が肉体の中心で響き、痺れて動くことができない。

 呼吸を繰り返し、なんとかすぐ隣に落ちた懐中電灯を掴む。すぐ真上から近付いてくる「フゥー」という呼吸音に、本能的に光を向けた。


 四つの“笑顔”が、落ちてくる。そのおぞましい光景に、床をひっかくように飛びのいた。

 間一髪、先程まで一樹が転がっていた地面に、白い巨体が落下する。


 一樹は自身の歯がカチカチと音を立て、震えているのが分かった。目の前にいる存在に本能が恐怖し、ただひたすらに撤退を命じている。


 おかしい――これだけおぞましく、こんなにも巨大で、あまりにも恐ろしいのに、今まで一樹が感じていたような“本能を震わす感覚”が、まるでない。

 だからこそ三階で油断しきっていたし、躊躇することなくあの部屋へ足を踏み入れてしまったのである。


 ――ふ、ふ、は、ふ、はぁぁーーーー。


 頭をカクカクと揺らしながら、こちらにぞぞぞと近付いてくる四つの“顔”。

 逃げようにも足がもつれ、うまく動かない。必死に腕で背後に進もうとするが、まるで効果は薄かった。木板を擦ったせいで手がずばずばと擦りむけるも、どれだけ掌が血だらけになったところで、視線を一切反らすことができない。


 数十センチに“顔”が迫る。

 瞬間、一樹の腕が背後へぐいと引っ張られ、その反動で立つことができた。


 情けなく「えっ」と声を上げる一樹の目の前には、歯を食いしばる奈緒がいた。

 彼女は更に腕を引き、吼える。


「こっち、走ってぇ!!」


 奈緒が一樹を引っ張るのと、“それ”が腕を伸ばすのは同時だった。振りぬかれた巨大な白い手が空を切り、一樹を掴み損ねる。

 二人はそのまま、どたどたと音を立てて背後に迫る気配を感じながらも、とにかく近くのドアを押し開け、部屋の中へと飛び込んだ。


 扉を――奈緒がいち早くドアを押えるも、その隙間から長い腕が突き刺さり、ガタガタと暴れまわった。

 その瞬間、通路から響き渡った“笑い声”に、一樹は気を失ってしまいそうになる。


 ――はははははははははははは!!


 ぶんぶんと暴れる腕と、それをドアで体ごと押える奈緒。一樹はその浮世離れした光景を、へたれ込んだまま震え、眺めることしかできない。

 奈緒の怒号にも似た声が、ようやく一樹の意識を連れ戻してくれる。


「手伝って……早く!!」


 慌てて立ち上がり、一樹もドアを押さえる。二人分の体重を受け、白い腕は何度も挟まれ、苦しそうにのたうち回った。

 ついに腕はドアの向こうへとすっと引っ込み、その一瞬の隙をついて、すぐ隣に転がっていた机をバリケードとして設置する。


 しばらくドアがばたばたと暴れていたが、やがてそれもおさまった。警戒しつつも、ようやく二人はドアから距離をとり、部屋の壁際へと退避した。


 汗が一気に溢れ出る。一樹は未だ震えのおさまらない肉体を抱きかかえるように押さえたまま、ドアを睨みつける。


「なんだよ――なんだよ、あれ……一体……」


 一方、真剣な眼差しのまま、奈緒は一樹の肩を掴んで告げる。


「一樹君、落ち着いて! 大丈夫? “あれ”に何かされたの!?」

「え……い、いや……大丈夫だ――痛ッ!」


 呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻すと、ようやく体の全身が痛み出した。特に擦りむいた掌の傷からは、おびただしい量の血が溢れ出ている。


 その傷を見て、奈緒は息を飲んでしまう。


「大変……すぐに出よう! ここは駄目。“あれ”は――本当にやばい奴だよ!」

 

 どういう意味なのか――それを問いかけるよりも前に、すぐ脇の窓ガラスが割れる、乾いた音が響いた。

 振り向き、二人は同時に息を飲む。


 館の外側から“それ”が窓を突き破り、侵入してきた。腕を押し入れ、そして顔を無理矢理捻じ込むようにして。


 再び沸き上がってくる恐怖に、身がすくんでしまう。一方、やはり素早く動いたのは、奈緒だった。


「一樹君、走って! 逃げるんだよぉ!!」


 “それ”の頭が四つ、ようやく室内に入った。片腕が地面をばんと叩くと同時に、二人は先程入ってきたドアへと駆け、バリケードを蹴り飛ばし、外に飛び出る。


 階段を転がるように降り、下を目指す。一階に到達した瞬間、背後から聞こえた“ばりり”という音に、一樹は一瞬、振り返ってしまった。


 こちらに向けて、巨体が落ちてきていた。

 “それ”は満面の笑みを四つ浮かべたまま、手を広げ、まるで一樹に向かって抱き着くように、階段から飛び降りてくる。


 加速する意識の中で、落ちてくる顔の一つ一つが、はっきりと見えた。

 見開いた八つの眼と、おぞましいほどに歪んだ口元。

 “それ”が到達する寸前に、呆けていた一樹の手を奈緒が引っ張り、離脱させる。


 ずううん、と大地が揺れた。巨体は勢い余って床板を突き破り、身動きが取れなくなってしまったらしい。

 体が動かない一樹。だが、奈緒の「こっち!!」という声に導かれるように、前へと体を押す。


 館に入ってきた穴に転がり込むように、肉体を押し込んだ。背後から聞こえる破壊音に、涙が沸き上がってくる。一樹は雑草まみれの庭に転がり出た。


 もっと、外へ――駆け出そうとした一樹の背後から伸びた腕が、ついにパーカーを掴み取り、引き寄せてしまった。


「う――わあああああああ!!」


 絶叫を上げ、引きずられる一樹。だが、穴へと引きずり込まれる寸前で、奈緒がその体を掴み、引っ張る。

 か細い彼女の力と、“それ”の巨腕では力の差は歴然だった。一樹の体は徐々に、館の中へと通じる穴へと、引き寄せられてしまう。


 情けないほどに絶叫を繰り返す一樹。背筋に密着した“それ”の大きな指から伝わる感触に、意識が飛びそうになってしまう。


 無数の“感情”が体に入り込んでくる。白い体から一樹の肌を伝い、肉と骨、感覚の奥の奥へ、言葉ではない直接的な思いが激流のようになだれ込み、浸食する。


 だからこそ、一樹には理解できる。

 もし、このまま、また館の中に入ってしまったら――自分は絶対に、助かることはない、と。


 だからこそ必死に踏ん張り、耐える。だが一樹も、それを引っ張る奈緒も限界だった。


 嫌だ――嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――噛みしめた奥歯が軋む音がどれだけ響こうとも、全身全霊を肉体に込め、抗う。


 そんな一樹の“生存本能”が、肉体を爆発的に動かす。渾身の力で、“それ”が掴み取ったパーカーを引っ張った。


 瞬間、ばりり、という音と共にパーカーが破ける。反動で一樹の体が前に転がり、雑草の中にダイブする。奈緒も「きゃあ!」と悲鳴を上げ、尻もちをついてしまった。


 布切れを掴み取った白い腕が、宙でゆらゆらと揺れていた。しかし、“それ”は手にしたものが“違う”ということに気付き、再びこちらに向かって指を開く。


 その一瞬が生死を分けた。

 二人は飛びのくように草の海の中を転がり、前へと肉体を押し込んだ。穴からせり出した“それ”の長い腕は、ぶぅんと空を切り、二人を取り逃がしてしまう。


 それから二人は、決して振り返ることはなかった。鉄柵を再び駆け上り、ようやく夕焼けに染まるアスファルトの道に、転がるように辿り着くことができた。


 とにかく館から距離をとり、道の反対側まで肉体を押しやる。通り過ぎる自転車に乗った男性が、肩で息をしながら怯える二人を見て、首をかしげていた。


 二人はしばし言葉も交わさず、ただじっと館を睨み、警戒する。“あれ”が館自体を飛び出し、襲ってくるのでは――そう思うと、まるで安心などできなかった。


 幸いにもそんな気配はなく、待てども待てども、白い巨体が姿を現すことはない。ぜえぜえと呼吸を繰り返しながら、奈緒が恐る恐る、問いかけてくる。


「あ……危なかった……一樹君、大丈夫?」

「あ、ああ……ごめん……助けて、もらっちゃって」


 一樹も視線を全くそらさないまま、地べたにへたりこみ返した。体中の痛みと熱をとにかく排出しようと、深呼吸を繰り返す。


「良かった……本当に、良かったぁ。私、もう、ダメかと思ったよぉ」


 見れば奈緒は涙を浮かべ、一樹を見ていた。なぜそこまで、自分のことを気にかけてくれるのかは分からないが、それでも彼女のその表情でようやく肉体を包む緊張が緩んだ気がする。


「あれは――なんなんだ、あの“怪物”は?」

「分かんない。だけどきっと、あれがこの館に住んでいる、“幽霊”――いや、もっと危険なものの正体だと思う」


 一樹は「なんだって」と驚き、またもや館を睨む。相変わらず、先程までの大騒動が嘘のように、廃墟は静まり返っていた。


「“幽霊”じゃあないってのか、あれが? ま、まぁ確かに……今まで見てきた奴らと、まったく違ったな……」

「うん。変だと思ったんだ。あれだけ近くにいても、いつも“幽霊”を相手にした時に感じる、独特の悪寒や不安が、まったくなかったの」


 言われて一樹も思い出す。確かに、あれだけ巨大ではっきりとした存在でありながら、間近にいてもまるで“幽霊”から伝わるような、本能に訴えかける感覚が沸き上がってこなかった。

 その意味する所が分からない一樹に、奈緒が自身の“推測”を語りだす。


「あれはきっと、“悪霊”なんだよ。この館はあいつの“巣”――あいつは、誰かがこの館に迷い込んでくれるのを、待ち構えてるんだと思う」

「“悪霊”、だって? つまり、“幽霊”よりも、その……やばい――ってことか」


 言いながら、どうにも薄っぺらい感想であることが、一樹としては恥ずかしかった。そもそも何を持って“悪い霊”とするのかが、いまいち曖昧で分からない。


「たぶん“あれ”は、純粋な“幽霊”じゃあないんだよ。いくつもの霊が集まってできた、“集合体”みたいなものなんだと思う」

「なんてこった……じゃあ、あのちぐはぐな見た目も……」

「だからもう、人間だったころの“意志”や“常識”なんて、ないんだと思う。“あれ”は、ただ迷い込んだ人間に近付いて、その人間に強烈に引き寄せられていく――ただそれだけの存在になり果てたものなんだと思う」


 そうか、だから――“幽霊”といえど、元はこの世にいた人間なのだ。だからこそ、人間である一樹らは感応することができるし、どこか通ずるものがあるのかもしれない。


 だが、“あれ”は違う。

 もはや人間ではなくなり、まったく別の存在に成り代わったものは、一樹らのような人間ですら感知すること自体が酷く難しいのだろう。


 一樹は館の窓を睨みながら、慎重に問いかけた。


「何が、目的なんだろう……もし捕まったら、その……殺されてたのかな」

「どうだろう。もしかしたら、捕まえた人間に憑りついて、もっと長い間、苦しめるのかもしれないね」

「おいおいおい、まじかよ。そんなとんでもない奴が、ここにいたってわけか……」

「“霊”なのに、物体に干渉する力まであったから、相当強い力を持ってたんだろうね。本当に、危なかった」


 なんだか妙に詳しい奈緒に、素直に感心してしまう一樹。だが次の一言で、戦慄してしまった。


「なんでこの館の噂が多いのか、分かった気がするよ。もしかしてそれ、全部あいつがここに人間をおびき寄せるための“餌”なんじゃあないかな」

「なん――だって? じゃ、じゃあ、まさかあの書き込みってのも」


 改めてスマートフォンを取り出し、見つめる奈緒。アクセスした掲示板のコメントを、真剣な眼差しで睨む。


「そう思うと、怖いね。これ……本当に“人間”が書いたものなのかどうかなんて、分かんないもんね」


 なんてことだ――一樹は体の芯が、ぶるると震えるのを確かに感じた。


 噂は言葉だ。

 言葉は伝播し、いとも簡単に広がっていく。

 子供に、大人に。男に、女に。

 誰しもが使えるからこそ、手軽に、容易く、人々の意識の中に“興味”として滑り込み、手繰り寄せる。


 これは“撒き餌”だ。

 あの“悪霊”が誰かを招き入れ、そして憑りつき、より多くの“幸せ”を吸い取るために、仕組まれたものだったのだ。


 一樹は自身の首筋に手を伸ばす。

 あの時――穴から飛び出した自身の背筋に触れた、“悪霊”の体から流れ込んできた、あの感覚。

 無数にざわめく感情の中で、一際大きかった“それ”に一樹は息を飲んだ。


 ――遊ぼう。


 歯を食いしばり、震えながらも首筋を撫でた。

 擦りむいた指先に激痛が走る。生きているという証に歯噛みしつつ、その目は、三階のあの割れた窓を見つめていた。


 夜が近付く館の窓の奥。

 そこに潜むあの“四つ”の吐息の音が、今でもはっきりと、鼓膜の奥に残っていた。

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