無人都市:観測する都市――③

 ウィルの先を、黒猫が歩む。街だか村だかの中心地を離れると、ほぼ一本道だった。人工物はすっかり周囲の木々に隠されて、森のにおいだけが漂っている。だが、どこかしらに猫の気配はあった。

 黒猫はときおり、立ち止まってウィルの足元に戻ってきた。そのたびに猫の声がどこからかすると、また黒猫はつられたように先を行く。

 黒猫ではなく、この世界の猫たちの方が案内人として向いている気がした。


 ――それにしても、量子力学研究所に猫、か。

 

 随分と面倒そうな組み合わせだ、と思っていた。

 詳しく思い出したわけではないが、確かどこかの世界に、量子力学の思考実験で猫を使うものがあったはずだ。

 シュレーディンガーの猫。

 匣の中の状態が観測できず確定しないうちは、猫は生きてもいて、死んでもいる。同時に存在している――確かそんなようなものだった、とだけ思い出す。

 少しだけ立ち止まり、眼下に広がる街を見る。


 ――あのボイスレコーダーの女……。


 いったいいつ出発したのか知らないが、場合によっては戻ってこなかったという事だろう。ウィルは眉間に皺を寄せ、目を閉じた。ゆっくりと目を開けると、金の目が先の道を睨めつけた。踵を返すように歩き出す。


「に、したってどこまで登らせるつもりなんだよ」


 思わず愚痴をついたところで、大きく視界が開けた。

 蔦に覆われた中に『バズウィード量子力学研究所』の看板が微かに見えている。張られたロープとバリケードはいかにも「立ち入り禁止」を明言しているが、ウィルは怯むことなく中に入った。


「――!」


 ドアを開けようとした途端、強烈な視線が建物の中からした。

 足元の黒猫をひっつかむと、思わず周囲を見回し、庭や二階の窓を見回す。だがそれらしい相手はいなかった。それどころか、すぐさま視線は消えた。だが間違いない。この世界に来るときに感じたあの視線だ。警戒の目を向けたが、それ以上は何もなかった。

 扉にはこじ開けられた跡があり、すぐさま建物内にも入れた。

 わかっていたことだが、人の気配は皆無だった。

 少しくすんだ灰色の壁に、あちこちに段ボールや紙が散らばっている。少し古びた案内図をもとに、暗い廊下を歩く。


 猫たちは建物内にもいるようだった。歩く先のどこかしらで、ウィルのことをちらりと見る。何かしらの猫には見られている気がした。


 ――ここまで来ると、本当に……。


 導かれているようだ。

 黒猫はさておき、この世界の猫たちは、確実にウィルを誘導している。どうやら猫たちの思惑か、策略に見事にはまり込んだらしい。


 ――……いいだろう。


 猫風情がどこまでやれるのか、やってやろうじゃないか。

 そう決め込むと、まっすぐに猫たちは反応した。確実にどこかの部屋へと呼び込んでいた。そうして二階の研究室のようなところにたどり着くと、ウイルはそっと中を覗き込んだ。

 思わずぎょっとする。

 椅子に座っていたのは、人間の死体だった。


「死体!?」


 ここに来て、はじめて人間の死体があったことに面食らう。

 干からびてはいるが、確かに死体だ。ここまで人間が消え去った世界ではじめてだ。いや、ひとつの街しか見ていないが、それにしたって唐突感がある。

 周囲を見回すと、あちこちに小さな檻がある。鍵は掛かっているが、中には何もいない。死体は白衣を着ていて、首から証明カードを下げていた。「アムロック主任博士」と書かれている。あたりは注射器があちこちに散らばっている。さすがにそんなところを黒猫に歩かせるわけにはいかず、仕方なく抱き上げる。

 目線の先に垂れ下がった手首があり、その下に拳銃が落ちていた。思わず眉間に皺を寄せる。そしてテーブルの上にはバラバラになった資料と――誰かが先に読んだ形跡があった。

 ノートを一冊、手にとる。

 パラパラとめくると、次第に筆跡が乱れた文章が現れた。


『あれは事故なんかじゃなかった。ジョーンズ・ロド博士、あいつのせいだ。あいつが自分の猫を永遠にするために……』


 怒りと焦燥にまみれた文章は読みにくいことこの上なかった。何を言いたいのかがまったくわからない文面だ。だが苦労して読み進めると、とにかくここでは量子力学の実験が行われていて――粒子レベルどころか生物レベルで実験をしていたと理解できた。

 一人の人間の脳が観測できない場所というのは、存在しえるのか。観測することによって、生物の存在どころか、世界そのものが決定付けられるかどうか。


 ――要は、自分の目で観測できない背後の世界は、本当に存在しているかどうか、か……?


 まるで後ろに幽霊がいるとか、見えない場所は暗闇だとか。子供の空想のような突飛な話に思えた。それこそ思考実験じゃないかと思ったが、ここでは現実として実験されていたのだ。

 

 ジョーンズ・ロド博士は、それを確かめる実験に自分の飼い猫を提供した。

 その飼い猫は寿命で、万が一失敗しても惜しくはないというのがジョーンズ博士の言い分だったらしい。だが――。


『あのくそったれなジョーンズ博士は装置に手を加えて細工をしたんだ。あいつは猫を永遠にするために、観測されない限り生きているか死んでいるかわからないようにした。だが――ああ、クソッ!』


 実験は、装置を弄ったジョーンズ博士の想定を超えた。

 端的に言えば、失敗したのだ。

 アムロット主任の主観と入り交じった日記から、怒号と嘆きと悪態を取り除いて、ようやく咀嚼できた結論としては。


 観測しなければ死なない猫は――逆に、人間たちを観測する側にまわったのだ。


 しかもその性質は実験室を飛び越え、あちこちの猫に飛び火しはじめた。まずは研究員たちが次々に消えはじめ、あっという間に近くの街――つまりバズウィードにも広がった。

 猫から認識されない人間たちの存在証明は揺らぎに揺らいで、消失した。猫たちの移動にあわせて、やがて国境を飛び越え、海を越え、猫たちに観測されなくなった人間から消えていった。


 観測する側であったはずの人間が、猫から観測されなければ存在できなくなってしまったというのだ。


「……」


 ウィルは今度こそ、疑問符を隠しきれない表情をした。

 理解しがたい。

 内容をかみ砕くのにも苦労した。そのほとんどはアムロック主任の感情的な言葉が大半だったからだが、信じられない。だが現実にこの世界の人間は、直前まで生活していたような形跡のままいなくなっている。


 ――これが事実なら、この世界の人間は……。


 猫なしには存在を赦されなくなった。

 状況を見るに、この事実を知った哀れな主任博士は、片っ端から猫を捕まえたらしい。あたりに散らばる注射器は猫を覚醒状態にするためのもので、自分を猫に観測させながら籠城を決め込んだのだ。だがその籠城も、どうしようもなくなっていく。この現実から逃れるための唯一の手段として、下に落ちた拳銃を使ったのだろう。その証拠に、こめかみには穴が空いていた。


「この世界の状況はわかった。しかし……」


 それなら、この猫たちはどうしてわざわざ自分をここにまで連れてきたというのか。


「なあ。どういうことだ?」


 ウィルは背後の廊下を振り返った。

 廊下から、ありとあらゆる猫の目が、ウィルを見つめていた。

 圧倒された黒猫が、耳元で小さく鳴いた。

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