無人都市:観測する都市――④

 猫たちが気まぐれのように歩いていった先に、ついていく。

 階段を登り、更に廊下を進んだ先。ウィルは足をとめた。


 廊下には、血を引きずったような跡があった。

 血は黒く変色し、とっくに乾ききっていた。だが死体らしきものはどこにもない。代わりにこれまた黒く汚れたまま散らばった資料と、くしゃくしゃになった女物のコート。そしてその上に、ボイスレコーダーだけが載っていた。

 紙切れのなかには研究員の資料もあり、真面目くさった顔のアムロック主任博士のものや、さらには『ジョーンズ・ロド博士、愛猫ヘンリーと』と書かれた写真もあった。頭の禿げた男が、青目の白い猫と一緒に映っている。

 

 ウィルはボイスレコーダーを拾い上げると、少し考えてから再生ボタンを押した。

 しばらくノイズが走ったあとに、公民館で聞いた女の声がした。


『45日目。ここに来て2日が経ったわ……』


 声は小さいが、もう泣き声ではなかった。

 2日が経っていることを考えると、本来、精神衛生上で何があったのかは推して知るところだが。そうではなかった。声は疲れ切っていて、それどころかハァハァと息切れしている。


『アムロック主任博士は……、もう、私が、死んだと思って……、また閉じこもってしまったみたい……』


 ウィルの目が微かに揺れた。

 

『その前に、この記録を……残しておくわ。やっぱり、この人間消失事件は……バズウィード量子力学研究所の実験から起きた出来事だった……。彼の話を、私なりに少しまとめておくと――』


 続いて再生された説明は、ウィルがアムロック主任博士の日記から読み取った事象をわかりやすくしたものだった。怒りが混ぜられていない分、聞き取りやすい。

 やはりここでは、世界そのものの存在証明とでもいえばいいのか――背後や死角など、被験者の脳が直接知覚できない地点の存在証明が行われていた。

 用語の違いはあるものの、大体は予想通りだった。


『この部屋には……、ジョーンズ博士の猫、ヘンリーがいる……。この事件の最初の一匹が……。ヘンリーは生きてもいて、死んでもいない状態で……ずっと閉じ込められている……開け放ってしまえば、それこそ完全に、この世界は……猫たちのものになる……』

 

 苦しげな声が混じる。


『だから、主任博士は、猫を求めていた……、憎いはずの猫を……。それまで、自分を観測してくれる猫を……。アビーを、とられてしまった……』


 声は涙声になっていた。ぐずっ、という鼻を啜る音がした。


『ごめんねアビー、あなたを……取り返せなくて……!』

 

 ウィルは途中でボイスレコーダーを切ろうとしたが、ふと指を止めた。

 いまの話が事実だとするのなら――この女はどうして消えていないんだ。

 疑問が浮かんだと同時に、ボイスレコーダーの向こうから、にゃあ、と声がした。


『アビー? どうして……!?』

『ああ、いい子ね、アビー。彼から逃げられたのね。いったいどうやって……』

『……。……あ、あ……、そうか。そうだったのね。あなたは――あなたたちは――』

『ジョーンズ博士の目論見は、ある意味で……成功していたのね』

『……アビー。これを』


 小さな金属の音がした。


『愛してるわ、アビー。ほんとに、大好き……。――どうか、自由に――』


 ボイスレコーダーはそこで終わっていた。

 目線をボイスレコーダーから目の前の扉に向ける。分厚い鉄扉のプレートには実験室Aと書かれている。試しにドアノブに触れてみたが、開かなかった。

 かちゃんと、足元で軽い金属の音がした。

 見下ろす。

 「実験室A」と書かれたキーホルダーがついていた。猫の尻尾が、視界の隅で動いた。


「……開けろってか」


 つまりこれは、このボイスレコーダーの女と、アビーという猫の復讐なのだ。アムロック主任博士から鍵を隠し、この部屋の猫に対して何もできないようにした。どれほどアムロック主任博士が解決策を見いだそうと、自分一人で助かろうと――ここには入れないように。

 だがそれはつまり、同時に――この部屋が永遠に閉ざされた事も意味したのだ。

 皮肉なものだ。ここにいるのは、最初の一匹。実験を弄ったジョーンズ博士の猫ヘンリー。生きてもいて、死んでもいない状態にされ、観測者でありながらこの部屋に繋ぎ止められた一匹。ここだけは人間の手でないと開かない唯一の聖域。

 今や、部屋の中からも外からも、猫たちの視線が突き刺さっていた。

 少なくとも一ヶ月以上。確実に45日以上は経過している中身が生きているとは到底思えない。


 ――……死んでるだろ、さすがに。


 でも、もし万が一。

 万が一、生きていたとしたら。


 ――猫どもめ。これが狙いか。


 だが、他ならぬ魔術師に頼るだけの知能はあるようだ。

 それなら、魔術師として応えぬわけにはいかない。

 鍵をさす。奥まで入り込む感覚があった。軽く左右に回すと、右側へと回って金属質な音が響き渡った。鍵を外して、ドアノブを回す。ぐっと引いてもすぐには開かなかった。さび付いてやしないかと思ったが、頑丈な鉄扉の重みのせいだと気付く。力を入れて、少しずつ。そして、意を決して、扉を開けた。

 軋んだ音を立てて、扉が開いていく。


 まだ、中を見れないうちに。

 にゃあ、と声がした。

 

 はっとしたように、ウィルは思わず部屋の中を見た。

 部屋の中身は――猫の死体さえなく、空だった。どこまでも空虚な暗闇だけが広がっていた。

 日記の最後の言葉を思い出す。


『我々はもはや観測する側ではない。あの猫たちによって観測される側なのだ。あの気まぐれな悪魔によって観測されなければ、生きることさえ許されない。そんなことが、赦されてたまるものか』


 生きているか死んでいるか解らない猫は、いまや自由になった。

 その存在そのものの解放とともに、この世界は完璧に猫たちのものになったのだろう。


「……帰るか」


 ウィルは足元の黒猫に言った。


「もう用はないだろ。それとも、お前はここに残るか?」


 みゃあん、と足元で黒猫が鳴き、黒灰色のスラックスに前足を伸ばす。爪が引っ掛かった。仕方なく、ウィルは黒猫を両手で拾い上げた。歩き出すと、歩調にあわせて他の猫たちも歩き出した。

 来た道を戻る。下り坂は来た時よりもなだらかな気がした。時間が止まったような街のあちこちに猫がいて、ウィルを見送った。この世界は、猫たちが見ていない場所はどうなっているのだろう。だがきっと、それは叶わない。こうして見送りに来ているということは、ちゃんと帰してはくれるという事なのだから。

 そうして最初の家にたどり着き、沈黙した家の中を通って、入ってきた扉の前に立った。


 視線を感じ、ウィルは後ろを向いた。

 猫たちの前で、白い猫がウィルを見つめていた。青い瞳は、じっとウィルを映している。

 写真で見たヘンリーそのものだった。

 ウィルは微かに口元で笑いかけると、扉を開けた。


「じゃあな」


 にゃあ、と返事のように鳴き声がした。


 




 

「おはよう、ウィル君。朝ご飯どうする?」

「んー……いつもので」


 朝。

 カフェ室に入ると、シラユキが既にキッチンに立っていた。

 腕にとまっていた使い魔のフクロウが飛び立ち、カウンターの止まり木にとまった。それを見送ってから、ちらりとテーブルの方を見る。朝刊らしきものが何冊か置いてあった。すべて違う新聞だ。そのうちの一つに手を伸ばし、テーブルに座る。

 シラユキが朝食を作るのを待っていると、不意に膝の上に重みが乗った。

 黒猫だった。撫でろ、というように膝の上に陣取る。ウィルが無視してテーブルに新聞を広げると、今度は新聞の上へのっそりと前足を乗せた。


「……おい。邪魔だ。どけ」


 黒猫は無視して、あさっての方向を向いていた。

 仕方なく、ウィルは立ち上がって黒猫を抱き上げた。体が伸びて、みゃあー、という抗議の声がした。


「おはよー!」


 カナリアが声をあげて、バァンと扉を開けて入ってきた。朝からうるさい。

 カナリアの赤い目が、テーブルから黒猫をどかすウィルに向けられる。


「あれ、そいつさっきまで他の猫と一緒にいなかったか?」

「は?」


 聞き返す。シラユキが振り返ってウィルを見た。

 

「あら。その子、さっきまで私の足元にいたような……、同じような子が何匹かいるのは珍しいのだわね?」

「別に同じような猫なんざそのへんにいるだろ」


 ウィルはどうでも良さそうに双子に言う。

 あくびをする黒猫を仕方なく指先でちょいちょいと弄るが、不意に予感がした。


「……」


 あの世界では、「ヘンリー」が実験の失敗で獲得した観測者という立場は、他の猫たちに伝染していった。

 それは、人間と猫で観測者と被観測者の関係がひっくり返ってしまったというものだ。

 だが、ジョーンズ博士は自分の飼い猫を永遠にしようとした――それはある意味では成功していたとも言っていた。

 最初の実験の通りなら、観測されない限り、生死がわからない。それは観測されるまで状態が確定しないということだ。

 もしもそれが中途半端な状態で成功していたというのなら。

 鍵のかかったケージを思い出す。いつの間にか抜け出し、どこにでも現れる。

 猫たちが、一番最初に、本当に伝染したものというのは――。


「そっかあ。確かに猫ってそういうもんだよな!」

「そうねえ。そういうものだわね」

「なんかそんなような言葉あったよな。なんだっけ?」

「えーと、あれじゃない?」

「猫はどこにでもいて!」

「どこにもいない!」


 声が揃い、双子の笑い声がした。

 脳天気な双子をよそに、ウィルの引きつった視線が黒猫へと下がる。

 同じように、黒猫はウィルをみあげていた。ウィルと同じ金色の瞳。その硝子細工のような瞳に、自分が映っているのが見えた。


「……お前、さては……」


 変なモンだけ拾ってきたな。

 硝子細工に映っていた自分は、苦笑するような、呆れたような、引きつった笑みだった。

 どこにでもいて、どこにもいない。

 だが、ウィルは軽く頭を掻くと、少しだけ考えてから言った。


「……まあ、猫ってな、そういうもんか……」


 猫の眉間を指先で撫でる。

 その目が気持ちよさそうに閉じられる。


「……全員に同時に餌とかねだったりするなよ。太るぞ」


 みゃあ、と小さく黒猫が鳴いた。

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最果て迷宮の冬の魔術師【短編集】 冬野ゆな @unknown_winter

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