第12話 異国情景:月光の路地迷宮
――迷った。
認めざるをえなかった。
ウィルは夕暮れ迫る路地のど真ん中で、顔を引きつらせた。
この都市に入り込んだのは、館の廊下の突き当たりに出来た扉からだった。くすんだ緑色の古い扉だった。館の扉でないことに興味を抱くと、おもむろに手を伸ばし、開けた。
扉の先は、どこかの路地の一角に通じていた。石煉瓦で作られた家々の壁は、砂漠地帯を想像させる。日差しは西の方へ傾きかけていたが、まだ明るい時間だった。もうすぐ夕暮れなのだろう。
一歩踏み出す。整備された石畳の上、靴との合間で、砂がジャリッと小さく鳴った。石畳が続く先を見ると、通りの向こうで人が横切るのが見えた。
どうやらどこかの街のようだ。そして少なくとも人間がいる。
通りに出てみると、少し広い道に出た。石煉瓦のくすんだ色の建物が並ぶ。
人通りでもあるかと思っていたが、予想に反して人は極端に少なかった。
時折通るのは、裾の長い、現地のものらしき民族衣装を着ている人間だ。だが、大荷物を背負ってサングラスをかけた女や、大きめのカバンを手にしたスーツの男も歩いていく。旅行者か旅人だろう。
夕暮れが近いとはいえまだ少し暑い。それに、少し砂で舌がざらつくような気がした。濃紺色のマントを引き上げて、口元を隠す。大荷物は無いが、宿に泊まった旅人くらいには見えるはずだ。
実際、ちらりと見られることはあっても、それ以上追求されることはなかった。
――これといった特徴は無さそうだが……。
道は狭いが、よくある砂漠の街、といった光景だ。
妙に人が少なく感じられる。まだ昼間時間のせいか。路地裏では人の往来も少ないだろうが、それにしたって限度というものがあろう。
テントが建物に設置されているところもあるが、いまはみんな折りたたまれている。格子状のシャッターもだ。ほぼすべてが降りている。
こんなに早いものか。それとも、何かの理由で閉まっているのか。
ウィルはひとまず周囲を見回した。
視界に入ったのは古びた看板。「中央広場」と、矢印が一本だけ。
――なるほど。
中央広場に行けば、何かわかるだろう。そうして、矢印の方向に向かって歩き出した。
進んだ先は左右に分かれていた。看板が無いからどっちに行っても同じだろうと、考えもせず右に向かった。迷ったら左手の法則もある。そのまま突き進み、矢印方向になるように道を曲がった。どういうわけか反対方向にしか道がない場所もあった。
短い路地を抜け、
石煉瓦の屋根をくぐり抜け、
青い扉の並ぶ建物の横を突っ切り、
二階部分の橋を渡って、
茶色い猫のいる方向へと進んで、
そして――迷った。
見事なほどに迷った。
これまでに何度曲がったのかわからない。
後ろを振り返っても、進んできた方向と景色が違っているせいで、まったくわからない。
そもそも目指していた矢印方向が正しいのかさえわからなくなってきた。そういえば途中で分かれた道を適当に曲がった気がする。太陽の方角を見ておきながら逆に曲がったことで右と左が逆転した。そういえば矢印方向がどっちだったのかすっかり失念していた。
――ま、待て、確かさっき曲がった時に、猫のいた方向に曲がったはず……!
そこまで考えて、愕然とした。
動くものを目印にするなど、方向音痴にありがちなやらかしではないか。
わかっているのに、そうしてしまった。
――い、いや、この俺が方向音痴だなどと、そんなことがあるはずが……っ!
少なくとも記憶を無くす前でも、これほど迷った経験は無いはずだ。
きっと、たぶん、おそらく。
――とはいえ、この路地……。
似たような景色に、似たような色合いの壁。
坂道があるかと思えば、建物の二階部分まで道として使われている。いくら歩こうとも同じ景色ばかりで、そのうえあちこちに伸びている。
ウィルはしばらく考え込んだあと、ゆっくりと自分の使い魔に連絡がとれるかどうかを試した。
いまごろ館で暢気にくつろいでいるであろう"伯爵"には、簡単に繋がった。ここから双子に連絡をとって、この路地から強制的に脱出できないこともない。
だが、いまここで「迷ったから扉までガイドしてくれ」なんて――。
――俺が方向音痴だと認めているようなものじゃないか!?
この期に及んで、ウィルはまだ僅かな可能性に縋り付いていた。
既に時間は夕暮れ。くすんだ色の建物がオレンジ色に染まり始めている。
迷ってさえいなければ、美しい路地の光景だっただろう。だがいまはちがう。せめて人混みか宿を見つけられなければ、このまま迷い続けても困る。
――とにかく誰か、話を聞けそうな奴……!
誰でもいい。とにかく、脱出経路を知っていそうな人間でさえあれば。
そのときだった。
不意に路地から出てきた男と、ばっちりと目があった。男はジーンズにシャツ、そして駱駝色のフードをかぶっていた。一瞬地元民かと思ったが、どうやら旅人らしかった。
にやりとしながら近づいてくる。
「あんた、旅行客だろ」
「ああ、まあ……そんなところだ」
「さしずめ、土産物や飯でも食おうと外に出てきたが、碌な店がやってない。そうしてぐるぐる歩いているうちに迷っちまった。そうだろ?」
厳密に言えば違うが、そんなようなものだ。
「まあ、そんなところだが……、ここらへんはみんな閉まるのが早いのか?」
負け惜しみのように言うと、男はにやにやしながら頷いた。
まるで、「そうだろうそうだろう、お前もそう思うだろう」と言いたげだ。
「なら運が良かったな」
「なに?」
「グルグル回って歩き疲れた甲斐があるってことだよ」
「ほら、もうすぐ夜が来る」
男は空へ目線を向けた。
夕暮れの赤い光が静まり、夜の帳が下りる。オレンジ色だった路地がすっかり深い青に包まれる。
すると、足元に淡い光が灯り始めた。
明かりのようなものはなにひとつなかったのに、あちこちの民家や路地に光が浮かび上がり、そのひとつひとつがどこかを指し示すようだった。
路地の都市全体が僅かな光を帯びていく。あちこちから人が出てきて、がやがやと賑わい始める。夜市の始まりを告げる鐘が、どこかから鳴り響いた。
「これは……」
ウィルが跪いてよく見ると、埋められた石のいくつかが光っている。
光る石を配置することで矢印を作ったり、道案内が自然と浮かび上がるようになっているらしい。
夕方に見たみすぼらしい看板よりも、作り手の気合いと精密さを感じられる。
「すごいだろう。こいつは月光石で出来てるんだ」
「月光石……」
「知らないのかよ。このあたりで採れる鉱物を石畳に使って、道案内のナビ代わりにしてるんだぜ」
ウィルは金の目を瞬かせた。
「じゃあ……つまり、この光る道を辿っていけば……」
「商店街にも中央広場にも、飯にもありつけるってわけだ! はははっ!」
笑う男をちらりと見る。優越感に満ちている。
その顔を見ながら、あるひとつの可能性が浮上する。
――さてはこいつ、同じ目に遭ったな……?
とにかくこれで、道は進みやすくなったわけだ。
じろりと見るウィルの目線に、「なにか問題でも?」と言いたげな男。
「いや……、とにかく助かった」
「おう、俺は地元民ほど業突く張りじゃないからな。夕飯を奢ってくれるくらいでいいぞ」
「マジかよテメェ」
思わず言ってしまうと、男はより笑った。
「よし、それじゃ俺のおすすめの店につれていってやろう」
「それ本当におすすめか? 行きたかった高い店とかじゃなくて?」
男はウィルの言葉を無視して、「商店街」と書かれた方向へと歩き始めた。仕方なくその後ろを歩く。商店街が近づくにつれて、賑わいが増していく。店主の呼び声が響き、屋台料理のいい匂いが漂い始める。月明かりのもとの夜市はいまからがはじまりだった。
館に帰るのが遅くなっても仕方ないだろうと自分を納得させる。土産のひとつふたつあれば、双子も満足するだろうと。
だがこの後、ウィルは気付くことになる――。
――最初の扉に戻れねぇと意味が無いだろ!
入ってきた緑の扉を探すのに、結局手間取る、ということに。
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