彼はいかにして狭間に落ち、冬の魔術師となったか(後)

 男が、ぱち、と目を覚ます。

 起き上がると、灰色の長髪はぐしゃぐしゃになっていた。一房だけ黒い色になった箇所までもが混じり合っている。寝ぼけ眼の金色が、布団を陣取っていた館の猫たちを見る。邪魔された猫たちがにゃあ、と小さく鳴いた。そのままとんっとベッドの下に次々と降りていく。

 館に住む猫たちが行ってしまうと、上のほうで縮こまっていた小型のフクロウが音もなく落ちてきた。膝の上で、小さく首を傾げながら男を見る。男はゆっくりとフクロウに手を伸ばして、その頭をくしゃくしゃと指先で撫でた。


「……お前は。……相変わらず名前がわからんなあ」


 その割にいつもひっそりとくっついてくるのが不思議だった。やはり「使い魔」としての契約がまだ有効だからなのだろうか。

 男は起き上がると、着替えを済ませてからフクロウを連れて部屋を出た。


 不思議といえば、名前よりもこの館の方が意味がわからない。

 気がついたら部屋が増えているし、歩いていた廊下が別の場所へと通じていることもある。最初のうちは面食らったが、いまではすっかり慣れてしまった。


 だが一番不思議なのは、自分自身だ。

 男はいわゆる記憶喪失というやつだった。自分の名前さえ忘れてしまった。いくらか舌触りの良い名前を試して、結局仮の名前としてウィルと名付けられた。思い出したらそれを名乗るなり、名前にくっつけるなりしたらいい、と言われ、そうすることにした。

 そもそもどこからやってきたのかもまったくわからない。気がついたら外の雪原の中で埋まりかけていたのを、このフクロウが一生懸命引きずりだそうとしていたらしい。つまり、この使い魔は命の恩人でもあるわけだ。使い魔というのも微妙によくわからないが、唯一の手がかりには違いない。

 ともかく、フクロウに引きずり出されているところを、この館に住む双子の姉妹に発見された。雪原の中は足跡すら消えてしまって、どっちの方向から来たのか、あるいは上から落ちてきたのか、突然現れたのかすらわからない。

 おまけにこの髪色だ。最初は白髪になったのかと思ったが、どうやら逆らしい。もともと灰色か銀色かの髪だったのが、どうやら別の場所から(双子は「扉をくぐった」と言った)放り投げられた事で一房だけ黒く変色してしまったらしい。ストレスのようなものらしかった。自分のことながら不思議なものだ。


 ウィルが足を向けた先では、双子の片割れの青い方が、小さなカフェを開いていた。

 果たしてこんなところに客が来るのか謎だが、まあ来るんだろう。

 扉を開くと、カウンターの向こうでウェーブがかった銀髪に一房だけ青い髪をした少女が青い目を向けた。


「おはよう、ウィル君。……なんか凄い顔してるけど、記憶は戻った?」

「……。いいや。まったく」


 カウンター席に腰掛けながら答える。

 彼女の名はシラユキ。童話のような名前の彼女は「青い方」だ。


「そう、それは残念ね。あるいはおめでとう」

「なんでおめでとうなんだ」


 目の前に出されたコーヒーは、既にミルクがたっぷり入れられている。甘い香りがした。


「過去っていうのは、忘れたくなかったものも、忘れたかったものもあるからよ。だから両方」

「そんなものかね」


 廊下がにわかに騒がしくなり、音が近づいてくる。バァンと勢いよく扉が再び開かれた。くすんだ赤色のつなぎの作業服に身を包んでいるのは、こちらはストレートの銀髪をポニーテールにした、両側の二房だけ赤い髪をした赤い目の少女だ。


「おーっす! おはようゆっきー! ウィル! なんか凄い顔してるぞ! 記憶戻ったか?」

「おんなじ事を聞くなよ!? ……戻ってない」

「そうか! おめでとう! 残念だな!」

「なんでそっちは逆なんだ」


 だが同じことを聞くのはさすが双子というところか。

 こちらはカナリア。館の修理を担当している、自称メカニックの「赤い方」だ。片割れと違ってうるさい。


「はい、きみにはこれ」


 シラユキがフクロウの前に小さく切った鶏肉のトレイを出した。


「せめてこいつの名前がわかればな」


 餌を貪り食う上から、頭の毛をわしわしと指で撫でる。


「だからオレが前から言ってるとおり、イモみてぇな色してるから、多分イモみたいな名前だろ」

「俺の使い魔を勝手にイモみたいな名前にするな!」

「でも見た目がイモだろ。『たぶんぜったいそう』みたいな顔して否定すんなよー」

「そうそう、わかるといえば、ウィル君。はいこれ」


 シラユキがカウンターの下から小さな箱のようなものを取り出す。


「これは……?」

「あなたが持ってた持ち物のひとつよ。水に浸ってたけど、タロットカードね」

「タロットカード……?」


 水に浸りきってぐしゃぐしゃになっていたが、どうやら乾かしてくれたようだ。


「そう。占いのための道具よ。貴方がここに持ち込んだ数少ない手掛かり。あなた、やっぱり魔術師や占い師だったと思うの。どう。ここにいる間、やってみたらどうかしら。たまに来るお客さんたちのためにね」

「それは……、というか、どうしてこんなことに。俺が倒れてたのは雪原の中だろう」

「じゃあ雪の中で濡れたんじゃないか?」

「この館に来るのは、たくさん方法があるから。あなたのマントも、成分を調べたら海水に浸ってたの。だから、海で遭難して……という可能性もあるわね」

「全然わからん。なんで海で遭難して雪の中にいるんだ」


 意味ありげにじっとフクロウの目が主を見た。


「ここがそういう場所だからよ。ここは最果ての迷宮。何処とも知れない場所に繋がる裂け目。何らかの理由で突然来てしまう人がいるし、『呼ばれる』人もいる。あなたもおそらく、そうやって次元の扉に巻き込まれてしまったのよ。そのうえ、あなたの場合は自分の記憶を――本来、自らの物語が紡がれるべき世界への帰り道を見失ってしまった」

「……つまり?」

「世界規模の迷子ね」


 無言の時間があった。次第にカナリアが震え始めて、爆笑した。バシバシと背中を叩く。思わずコーヒーを噴きそうになる。


「そのナリで迷子かよお前ー!!!」

「うるせーぞ黙ってろ小娘!!」


 ごほん、と、咳払いしてから続ける。


「しかし、魔術やタロットといっても……」


 なんとなく絵柄に見覚えはあるような気がするが、やはりピンとこない。それどころか、どういう意味があるのかさえ定かではない。困惑していると、シラユキは少しだけ笑った。


「また覚え直せばいいのよ」

「そうそう! いつまでもゴロゴロしてるのも体に悪いぞー! なんなら、オレと一緒に肉体労働でもするか?」

「そ、……それなら、ちょっと覚えてみるか」

「なんで目逸らした?」


 メカニックから執拗に目をそらしながら、ごほんと一度咳払いする。


「でもただ魔術師っていうのも芸が無ぇなぁ。お前、寒さに強いんだから雪とか氷とか名乗れよ」

「……ああ、なるほど……。じゃあ、そうだな。……。……冬。冬にする。単に雪だの氷だのよりは上みたいでいいからな。それに――」


 確信したように、ウィルは続けた。


「『冬の魔術師』が、一番耳障りが良い」

「なんだそりゃ」


 カナリアが笑った。

 そうして、最果ての館に冬の魔術師が住むことになった。

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