最果て迷宮の冬の魔術師【短編集】

冬野ゆな

不運な魔術師の話

彼はいかにして狭間に落ち、冬の魔術師となったか(前)

 じゃあまたな、と誰かに言って別れた気がする。

 男は魔術師で、旅の最中だった。いまは定期連絡船ネプチューン号に乗り込み、気ままに放浪している途中。それまで長く留まった国を出て、時に一人で、時に誰かと行動をともにしながら、いまは再び一人で彷徨っている最中だった。ずいぶんといろいろな所を彷徨ったので、このまま、一人気ままな旅というのも良いと思った。特に以前までいた国は長く留まっただけあってずいぶんと騒がしかった。認めたくは無いが、心の有り様も変わったかもしれない。それくらいの事はあった。出会いも別れも冒険も、とにかくそれがすべて記憶と体に刻まれるほど、長い間ひと所で過ごすくらいの、経験に溢れた、ごく普通の魔術師だったのである。

‎ ただひとつ、「不幸体質」という彼自身にはどうしようも出来ない特質を除いて。

 そういうわけで、打って変わって目的の無い旅の最中、何にも縛られる事のない道中で、せめてそれが自分から物足りぬと思うまではふらついていようと思っていた。

 そう思っていた、はずだった。


「は?」


 気付けば暗い海の中だった。それは異常な予期せぬ嵐。

 本来ならば船が出せないほどの大嵐は、どこからやってきたのかわからなかった。突然船が大きく揺れたかと思うと、男の灰色の髪が振り乱され、金色の目は床を見ていた。部屋の片隅にたたき付けられたのだ。飲んでいたコーヒーは思い切りひっくり返ったが、熱いと思う間もなく二回目はやってきた。受け身をとる暇さえなく、体勢を立て直す間もなく。三回目の衝撃で甲板に入り込んだ海水は一気に船の内部に押し寄せてきた。海の魔物でも出てきたのかと思うほどの揺れは、驚くべきことに異常な嵐によってもたらされていた。経験豊かな漁師ですら感知できなかった不可解な嵐は、見事にネプチューン号を襲ったのだ。

 手にとろうとした荷物はあっという間に波にさらわれ、入り込んできた海水に落ち、濃紺色のマントが体に巻き付いて邪魔をする。


 ――えっ、いやいやいやいや嘘だろうマジか。


 暗い夜の海。息ができなくなる前に、海水から出ようとした。だが、上も下もわからない。とはいえこれでも魔術師の端くれ。わけのわからない魔物とも対峙してきた身としては、ここで終わるわけにはいかない。なんとか腕を伸ばし、魔術を唱えようとする。しかし、どういうわけか魔力が安定しない。


「……ッ」


 なんだ。磁場か何かの関係なのか。それとも魔力を封じる何かがあるのか。

 だがそれだけではない。伸ばした手に収束しようとした魔力が、何かに邪魔されるようにはじかれた。


 ――は!?


 ならば使い魔だ。使い魔を呼べばいい。以前、契約した使い魔たち。だが、それも駄目だった。名前を呼ぼうにも、やはり何かに邪魔されるようだった。それどころか、ぶちぶちと使い魔たちとの契約が切れていくのを感じる。

 こんなことははじめてだ。

 心臓が高鳴る。

 何かが、自分から零れ落ちていくような感覚。


 ――なんだ。なんだこれは!?


 まずい。まずいまずいまずいまずい。

 過去最高にまずい。


 怯えて胸元に滑り込んでいた小型のフクロウだけは、なんとか抑えこむ。だがその隙間を縫って、あれよあれよという間に、あらゆるものが自分からこぼれ落ちていった。嵐の中に、大事なものが巻き上げられていく。それは物や魔力なんてものじゃない。困惑と恐怖とが内側からせり上がってくる。

 駄目だ、ここで。こんなところで、忘れたら。


 ――待て。待ってくれ。まだ。


 本当は話し足りない奴だっていたんだ。

 黙って出てきてしまった奴だっていたんだ。

 会っておきたい奴だっていたんだ。

 なのに、こんな最期なのか。

 それともこれは――何かの報いなのか。


 口の中に海水が入ってくる。

 伸ばした手は、渦に振り払われた。届かなかった。

 拒絶された気がした。

 体がいうことをきかず、渦の底へと引き込まれる。どぷんと、どこかを通り抜けた。急に体が自由になった。落ちていく視界のなか、いましがた通り抜けた扉のようなものが遠くなっていくのが見えた。不完全に出現したように、ノイズが走っている奇妙な扉だった。寒い。視界が白に覆われる。頭が割れるように痛い。そのくせあまりに静かで、穏やかだった。伸ばした片手の向こう側で、小さくなっていく扉が、音も無く閉じていくのが見えた。同時に、意識がふっと遠のいた。

 その身は遙か遠くへ落ちていった。


 それからしばらくして、定期連絡船ネプチューン号が予期せぬ嵐に巻き込まれて沈没したと、各国の紙面に小さく載った。よくある事だった。







 あたり一面の雪原は、夜が訪れようとしていた。そこへ二人分の足跡が、新しくつけられていく。


「あ~~~」


 防寒具に身を包んだ、二人の少女だった。


「相変わらずクソ寒ィ」

「そうね」


 さくさくと雪道に足跡を残す。


「なー、ゆっきー。ほんとにここに『扉』が開いたのか?」

「その気配はあったんだけど」

「でも、館の扉って大体館の中に開くだろ。こんなとこから入ってきた奴いたら、相当の不運な奴だぞ」

「そうねえ。気のせいだったかしら?」


 見回す視界の片隅で、何かが動いた。青い目が、そちらを向いて立ち止まる。


「どうした?」

「カナちゃん。……何か居るわ」

「えっ」


 もぞもぞと動く小さな茶色い物体の方へと視線を向ける。それは雪に埋まった濃紺色を、小さなくちばしで引っ張り出そうとしているところだった。二人は急いで近寄り、何が埋まっているのかを見つめた。凍りついた衣服の下で、いつから埋まっていたかわからない灰色の髪は、一房だけ黒く変色していた。

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