第4話 胸の石

 遠い騒ぎを背に、男が頭を垂れてきた。


「済まねぇ。おめぇさんを守り切れなかったな」


 何故その言葉が出てきたのか。既に高ぶりかけた感情は落ち着いていたが、熾火はいまだ燻っていた。理由はまるで分らない。とはいえ、男の言葉がこの熾火に向かって投げられたものだ、とはわかる。

 酒場の二階。宿として提供されている部屋、とのことだった。


「おめぇさんが追い詰められてんのは、なんとなくわかっちゃいた。ただ、それがどういう方向なのかまでは全然読み切れてなかった。なんで、ちょっと強引かとは思ったんだが」

 返す言葉もない。緊張の糸が切れ、思わずベッドにへたり込む。

「悪気はねぇんだ。ただ、手の速い奴らではある。あんなことでおめぇさんをボロ雑巾にすんのはしのびねぇ」


 ベッド脇の水差しから、コップへと水を注ぐ。二つ分。先に自分から飲み干し、次いでハーゲルにコップを差し出す。


「ちょっと、落ち着いてからゆっくり話そうか」

「済まない」


 状況の整理がつかないハーゲルを二手三手と先回りする、その外見からはおよそ想像もつかないほどの配慮に舌を巻くしかない。

 隣に男が腰掛ける。ベッドがギシ、と音を上げる。

 おぉ、祖国よの鼻歌を、男が少しだけ口ずさんだ。


「あの歌な。大好きなんだよ」


 努めて明るく話しているのがわかる。


「祖国、我ら、を称揚する曲ではある。けど、初めに来るのは血だ。つまり、俺自身だ。俺があって俺らがある。もちろん、どっちも大切なもんだとは思うんだがな」

「自分自身、か」

「あぁ。おめぇさんが一生懸命消そうとしてるやつだ」

「!」


 不意に心臓を刺された気分になった。

 顔を上げることができない。否定するには、思い当たる節が多すぎた。


 男はそこから、あえて沈黙を破ろうとはしなかった。


 プレッシャーをかけられているのとは違う。待ってくれている。

 ハーゲルは胸の内を整理しようとしては諦めかけ、しかし男の厚意にはどうしても応えたい、そのような気持から、懸命に、言葉を探した。


「尊敬している方がいる」


 ようやく、端緒に辿り着く。


「偉大な方だ。己を寵愛もしてくださっている。それに応えたい、とは本心だと思う。だが、あまりにも大きなあの方に比し、自分はあまりにもちっぽけだ。それが、あまりにも惨めでならない」

「あまりにも、か」


 ふう、と嘆息が漏れた。


「どれだけの期間、思い塞がれてた?」

「わからない。ただ、根深いことは確かだと思う」

「まっすぐなんだな」

「そうなのかな」

「案外わからんもんさ、自分のことなんて」


 口の中がカラカラになっていた。ようやく水を口に含む。


 思った以上に、言葉がスムーズに滑り出た。そして、腑に落ちてきた。そうだったのか、というのが正直な心情だ。「カリュリスに寵愛されるべき存在であること」。もちろん一面では責務である。そして、どこかで望んでいることでもあるのだろう。だが、喝破された今となっては、気付かないわけにはいかなかった。カリュリスと向かい合っている“自分自身”の存在感は、その中にあって、あまりにも、薄い。


 ――あぁ。


 潤いが全身にめぐるかのような感覚だった。

 だから、目からあふれかえった水が、漏れ出した。


「おいおい」


 男が苦笑し、肩に腕を回してきた。

 水は留めようがない。胸が締め付けられ、痙攣する。


 己は、泣いているのか。


 認めるしかない。今しがた出会ったばかりの男に、あっという間に胸の内を見透かされた。そして、こじ開けられた。あまつさえ、文字通り縋りついている有様だ。こうなってしまえば、もはや恥も外聞もない。涙はもう、流れるがままにしておく。


「吐き出せるもんは、吐き出せるうちにな」


 それ以上、男は多くを語ろうとしなかった。

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