第3話 フューレ・デアヴェルト
「かつて、袂を分かった友がいる」
いつのことだっただろう。あの大いなるカリュリスが、いや、その時も大きくはあったのだが、少しだけ小さく感ぜられたことがあった。寝台の横に、珍しく酒があった。
「私と正反対なその男とは、それ故に、なのであろうな。不思議と意気が合った。彼の者の存在は私を高めた。また恐らくは、彼の者にとっても」
余計な言葉は挟まない。眼差しでのみ相槌を打つ。ひととき視線が交わるとカリュリスの目が薄らいだが、即、彼方へと飛んでいってしまった。
「互いに譲れぬ物があれば、道を違えるのは因果なのであろうな。共に歩んだ日々は幻となり、今では干戈の向こうにしか彼の者はおらぬ」
さしものカリュリスとて神ではない。勝ちもすれば、負けもする。中でも大きな障害となっているのは反体制レジスタンス「炎の矢」との交戦だった。勝敗いずれにせよ、はかばかしい戦果が挙がることもない。その晩までは、単純に苦戦ゆえの苦悩、と思っていたのだが。
「嘗て友だった者。よもや斯様な形で、改めてその大きさを突きつけられるとはな」
懊悩に沈むカリュリスに対し、迂闊にもハーゲルは言葉を漏らしそうになった。決して言ってはならぬであろう一言は、その故に今も大きく胸中に残っている――閣下、私には楽しんでおられるようにも映りますが。
その晩以降、「炎の矢」団頭目フューレ・デアヴェルトの名が持つ意味が、ハーゲルの胸中で、大きく、歪んだ。
おお、称えよ。我らが血を。
おお、称えよ。我らが友を。
おお、称えよ。親を、郷を。
おお、称えよ。我らが祖国を。
主の恵みを満身に浴びて、
愛と正義が胸に満ちる。
輝かしき灯に、
導かれて頂へと。
意気投合、というよりは男の勢いに引き込まれた、と言うのが正しいのかもしれない。連れ込まれた酒場で何を弾かされるかと思えば、この国に住まう者であれば誰もが知る唱歌「おぉ、祖国よ」だった。前奏だけで喝采が起こる。もう、何者が歌うのかは酒場の誰もが知るところのようだった。
男の歌が始まれば、すぐにその理由は明らかとなった。
圧巻、の一言だった。
堂々たる体躯全てが拡声器となっているかのような声量。しかしそれは艶やかさを一切損ねることもない。
また、お世辞にもテンポ感に優れているわけではないハーゲルのバイオリンを導き、時には合わせ、調和させた。さも自分自身がわずか一晩で信じられないほどの上達を遂げたかのような錯覚にすら陥った。
「おぉ、祖国よ」は二連の詞を繰り返し、その中で言葉やメロディを崩すことが多い。当意即妙が要求されることも多いはずだが、不思議と男の歌とは噛み合い続けた。戯れにハーゲルが仕掛けた即興にも男は容易く合わせてくる。観衆が喝采をあげる。演奏が終われば、たちまちハーゲルは男と共に人垣のさなかの人となった。
「すげぇなアンタ! 親方をあんなに歌わせるなんてよ!」
「アンタの演奏も良かったぜ! 気持ち良かった!」
「ほんとに行きずりなのかよ! すげえ息合ってたじゃないか!」
もみくちゃにされ、賞賛の嵐を浴びる。冷静な気持ちが、所詮は男のおまけなのだろう、とも見切ってはいた。だが、惜しみない祝福を前に冷静な気持ちを留めおけるほど凍てついているわけでもない。
ただ、返す言葉は浮かばない。何よりもまず、今まで体験したことのない事態に巻き込まれているのだ。これを分析し、的確に処理するだけの能力をハーゲルは持ち合わせていなかった。
しかし、
「全く、綺麗なだけの嬢ちゃんかと思ったんだがな! やるじゃねえか」
喝采の中にふと交じった、粗野で下卑た声が矢庭に冷水を浴びせてくる。
声の主とおぼしき手がハーゲルの尻に伸びてきたのもいけない。
無法者の手をとらえ、捩じり上げようとした。
「おっなんだ、疲れたのか」
――そこからの流れは、ハーゲル自身にも咄嗟には理解しがたいものだった。
引き倒し、体重を預け、関節もろとも床に叩きつけ――ようとしたのだ。だが、すべてが叶わずに終わった。
男がハーゲルの肩を抱え込み、大袈裟なくらい心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。また、どのような魔法か、無法者をとらえた手からは力が抜けていた。後ろで無法者がたたらを踏んだ音がする。
「無理して連れてきちまったからな。おい! ちょっとこいつ休ませてくるからよ。もうちょいお前らで盛り上がっててくれ!」
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