第8話

 壁掛けのカレンダーを横目で見たのは、今日で一週間の忌引きが明けるからだった。

 

「無理はしなくていいんだぞ」

 

 通話の相手である担任教諭が心配そうに言った。

 

「お休み頂いたので、ちょっと気持ちが落ち着いてきました。少しずつですけど、頑張ってみたいと思います」

 

「なら明日は午前中までな。待ってるよ」

 

 それから軽い連絡事項を確認し電話を切る。実を言うと学校の事は湊から聞かされているので、何となく知ってはいた。そして今日もこれから彼に会いに行く。セックスで繋がっている不遜な絆に嫌悪しながらも、絵空が関係を断ち切れないでいるのは、湊に抱かれているあの時間だけ、漠然とした不安や希死念慮きしねんりょから解放されることを知ってしまったのだ。

 

「ほんと、最低なのに……」

 

 鏡の前で吐き捨てた独り言が宙に舞う。顔を洗い、財布と携帯だけをポケットに入れ、いつものように待ち合わせ場所である桜谷駅に向かった。桜の季節が過ぎ、大型連休の到来に胸を躍らせている世間と、相反する孤独の中で置き去りになっている自分が、同じように息をする違和感に絵空は力なく苦笑した。

 

「あらっ!」

 

「……えっ?」

 

 唐突に、前から歩いてきた若い男に指を刺される絵空。

 

「あーやっぱり!」

 

 その男がぐんぐんと距離を詰めてくる。

 

「わ、私?」

 

「そうそう。君、湊の彼女やろ。この前ラブホから一緒に出るとこ見たで」

 

「……っ」

 

「いやぁ、あいつも隅に置けへんな。こんな綺麗な捕まえて」

 

 と笑いながら絵空は背中をバンバンと叩かれる。経験したことのない事態に軽くパニックになりながら「ど、どなたですか」と謎の関西人に敵意を向けた。

 

「俺、福丸幸助って言うねん。湊の友達」

 

 

 

 


 黒縁メガネに髪の毛を後ろで束ねている。福丸と名乗った男は絵空の承諾も得ぬまま、最寄りの駅までと言い横並びで付いてくる。

 

「なーんや彼女ちゃうの。じゃあ何、セフレ?」

 

 恐らくそうなのだろうが、当初の目的を忘れ、快楽にどっぷり浸かっている現状の後ろめたさからか、絵空は何も答えられない。

 

「しかし、あのクソ真面目が女作るとはな。どういう風の吹き回しやら」

 

「真面目……」

 

 聞き間違いかと絵空は思った。

 

「酒もハッパ(大麻)も女もやらんで。なぁにが楽しくて生きてんねやろ思てたけど、ちょっと安心したわ。ありがとう」

 

 鼎湊の友人。となると必然的に総亜、もしくは総亜に関わる人間であると想像が付く。絵空は怪しまれない程度に歩くスピードを上げた。

 

「そんで、絵空ちゃん言うたっけ。ちょい聞いてや。俺ん家の隣りのおっさん、毎朝四時に起きてラジオ体操すんねんけど、その音で寝られへんから、いっぺんキレに行ったんよ。したら第一じゃなくて第二の方やっとってん。今日び誰も知らんし、結構激しめの動きやから、高速ではしゃぐおっさんに吹き出してもうて。この話オモロい?」

 

 まさか、エピソードトークを出会ったばかりの人間に試してくるとは思わなかった。テレビやネットで関西人はガサツだと聞いていたが本当のようだ。絵空は軽くあしらい、気が付くとかなりの早歩きになっている。

 

「なに絵空ちゃん。なんか競歩ぐらい速いねんけど。そんな急ぎなん?」

 

「まあ、そんな感じです」

 

 察しろよ、とは声に出さない。それから絶え間なく続く一方的な会話を絵空は受け流し、なんとか最寄りの駅に着く頃には、うっすらと額に汗が滲んでいた。

 

「着いてもうたな。んじゃ、さいならで」

 

 幸助は眼鏡のブリッジを左手の人差し指で触り、笑顔で手を振る。

 

「湊と仲良くやってくれよ。あいつ、あれで根は寂しがりやから」

 

 やっと帰ってくれると絵空は胸を撫で下ろしたが、最低限のマナーとして、一応頭を下げとおく。

 

「今度三人で遊ぼうや。エッチは無しでかまへんで。どうせ俺インポやし」

 

 

 謎の関西人と別れ、絵空は電車に乗り桜谷駅に降車すると改札口で湊が腕組みで待ち構えていた。

 

「よう」

 

「……ん」

 

 不思議な感覚だった。鼎湊は絵空にとって憎むべき人間には変わりない。けれど、彼の顔を見ると心が落ち着き、絡まった神経が解けていくように思う。

 

「幸助に会ったんだろ。冷やかしの電話鳴りっぱだ。余計な事言ってなかったか?」

 

「言ってた。かなり」

 

「総亜の中でも、上位のヤバい奴だからな。関わらない方がいい」

 

 そう言って、湊は小さく欠伸をした。

 

「今日はやるのパスで」

 

「え……っ」

 

「気分じゃねぇんだ。また今度な」

 

 湊は携帯を確認する。時刻は正午を過ぎたばかりだ。

 

「このまま解散ってのも味気ねぇか。暇なら映画でもと思ったんだが、お前来るか?」

 

 断ろうと思えば出来た。それでもそうしなかったのは肉体関係を約一週間続けた結果、無意識の内に絵空の中で信頼のような感情が芽生えていたからに他ならない。

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