第4話
絵空は母親を亡くした。
仕事は精神科医。絵空が物心ついた時すでにシングルマザーだったが、それでも何不自由なく暮らせたのは彼女の献身的な愛があったからだろう。一度、女一人の子育ては大変ではなかったかと絵空は尋ねた事がある。
「そりゃね。でも、今も昔も絵空には幸せにしてもらってるから。それで十分よ」
そう言って笑って、ジンの炭酸割りが入ったグラスを傾けていた母が、絵空の高校進学とほぼ同時期に病気で入院する事になった。
「小休止。ちょうど読みたい本とか観たい映画もいっぱいあるし。神様に感謝感謝」
担当の医者から、腫瘍がどうこうと話をされたが、病室で呑気に笑みを浮かべ看護師と談笑する母親の姿に、またいつもの日常に戻れると簡単に考えていた。
「君、姉ちゃんの娘だろ?」
葬儀場の廊下。喪服がはち切れそうになっている中年の男が絵空に近づいてくる。
「絵空ちゃんだっけ。覚えてるか俺の事」
「……誰、ですか」
全身から生乾きのような匂いがして、思わず彼女は顔を顰める。
「叔父さんだよ。ほら、昔会ったろ」
正直、記憶にはない。家族や親戚とは縁切り状態になっていると母から聞かされており、絵空は帰省や身内の集まりなどを経験した事さえなかったからだ。
「まあいい。ところで遺産とかは君に入るんだよな。姉ちゃん医者だったし、たんまりとあるんだろ? それ、ちょっとでいいから俺らにも分けてくれよ」
何も考えられない精神状態でも、目の前にいる男が酷く醜く映った。
「なんなら君を引き取ってもいいぞ。俺が新しい家族だ。嫁も倅達もきっと歓迎してくれる。どうだ?」
「ちょっとっ!」
颯爽と現れた女性が間に割って入る。
「不謹慎です。こんな時に」
「身内が身内と話して何が悪いんだ」
「聴こえてましたよ。お金は母親がこの娘の為に貯えていたものです。そんな事を言いに来たのなら、焼香も必要ありません。どうぞお引き取り下さい」
「君こそ無礼だろ。部外者は口を出すなっ」
「高殿商事でしたっけ。貴方の会社の事情なら多少なりとも存じ上げています。これ以上続けるのなら、こちらにも考えがありますが」
「!」
男は友里を暫く睨んでいたが、一息付くと踵を返しその場を去っていった。
「大丈夫だった?」
「……はい」
友里の問い掛けに、絵空は弱々しい声音で答えるしか出来なかった。
母の死に実感が湧かない。それは葬儀が終わっても変わらなかった。火葬場に着いても、隣りが美容専門学校だと分かって(縁起の悪い学校だなぁ)と心の中でツッコむ余裕さえ絵空にあった。
叔父と名乗った人間はもういない。それどころか、親戚は誰一人参列していなかった。それでも多くの人が母を見送る為に駆けつけてくれたのは人望の現れだろう。友人、同僚、元患者。啜り泣いたり咽び泣いたり。しかしながら、絵空の内にまだ感情らしきものが湧いて来ないでいる。
「では、最後のお別れを」
棺の側まで絵空は案内される。休日、母はよく昼寝をしていた。ベッドやソファ、テーブルに突っ伏して寝ることもあった。風邪を引くからと起こしてやると、寝起きの声でいつもお礼を言われた。
「ほら早く起きてよ。私だって色々しんどいんだから」
母を起こそうとすると、慌てて静止してきたのは横にいた火葬場の職員だった。
「あ、あの……」
「すいません。今起こしますんで」
母にもう一度触れようとした時、後ろから誰かに抱きしめられる。
「絵空……ごめんね絵空」
大粒の涙を流す友里。だが、絵空はその涙の理由を母が焼かれても、理解する事が出来ないでいた。
絵空は忌引きで一週間の休みを貰った(携帯を取りに一度学校には行った)が、もう母の見舞いも行かなくていいし、映画も興味のある作品が公開していないので特にやることがない。捻り出した結果、部屋の掃除をすることに彼女は決めた。自室から始め、キッチン、リビング、風呂、トイレ。そして最後は母の部屋。主人を失い埃を被った本棚を整理していると、本と本の間にノートが挟まっているのを見つける。
「……出産日記?」
黒のマジックペンで表面にそう書かれている。絵空は中を開いた。そこには妊娠発覚から彼女の誕生日までの出来事が結構細かく記されていた。そして、最後のページに目をやった。
・出産を終えて
まずは絵空が元気に産まれてきてくれたことが、なによりも嬉しい。安産祈願で大阪まで行った甲斐あった。遺伝性疾患の家系だから産むの凄く迷ったけど、もう一人の命が私の中で動く姿をエコーで見て、残りの人生をこの子と生きたいと思った。だから神様、もしも発病したとしても、私で最後にして欲しい。それからもう一つ、この子の生き先には素敵な出会いを用意しといて。友達とか恋人とか、学校の先生とか未来の旦那さんとか。喜びは誰かと一緒だと二倍になるし、悲しみを半分にしてくれるから。片親で新米のお母さんだけど、好きになってくれるといいな。
これから宜しくね、絵空
「……おがあざん」
溢れるあつい雫が頬を伝う。曖昧模糊だった現実が絵空に突き刺さった瞬間だった。
「どうしよう。私、一人になっちゃった」
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