第5話

 月衛が瞳を開けると、そこは、ただただ白い空間だった。一様な薄い光に包まれ、上下左右も分からない。目の前には、女が胡座をかいていた。月衛と同じように艶やかな長い黒髪を緩くまとめ、簡素な貫頭衣に五色の裳裾を身につけている。白い頬に薄い唇は、一瞬、母かと身構えたが、母の放つ空虚とは全く違う光を発していた。昏い穴の底で明滅する、燐光のような光。それに、剥き出しの左腕には、うねる蛇のごとき真っ赤な入墨。口角から頬にも入墨が伸びていた。


 「…はぁ…また男子か…」


 女が失望したように、手元の酒を注ぐ。大祭で月衛が飲んだ、菊花が浸された酒だ。


「男で悪いか!お前は誰だ!?」


 月衛がいささかムッとして叫ぶ。


「ふむ…妾のことは、ミノと呼べ。男で悪いということはないが、少々、保ちがな」


 ミノは、自分の菊酒をもう1つの杯に注いで、月衛の前に押し出した。酒の味は嫌いじゃない月衛が、両手で持ってそっと口をつける。


「幼子や、お前は“視える”ようじゃの」


「視える…“光”や“陰”や“黒いもや”のことか?」


 稚児姿の月衛が、杯からちらと目を上げた。


「そう、それだ。それらが何なのか、知っておるかェ」


 んー…と月衛が大きな瞳をくるりと動かす。


「“もや”がまとわりついてきたら、月衛は苦しくなって倒れる。光はそれを治してくれて気持ちいい。これ以上は知らない」


「…はぁ~あ…。我が一族の娘達がもっとしっかりしておれば、当主亡き後の教育もできるんじゃがの。お前は何も教わらないまま、1人で怯えてきたね」


 ミノが痛ましげに微笑んで、月衛の頭を撫でた。月衛がポカンと目を見開く。今まで“光”や“陰”や“もや”の話をしても、誰もまともに取り合ってくれなかったのだ。自分の手脚に絡まって体内を犯す“もや”をどうすることもできず、倒れては、よくわからない薬湯を飲まされるばかり。特に効いている気もしなかった。一番効いたのは、烈生が頭からぶっかけた井戸水である。


 「あれらはな、“気涸れ”だ。人の魂の振動を鈍らせる」


 「魂…振動…?」


 ぱちぱちと月衛が瞬きをする。呑むかェ、と銚子を持ち上げられたので、コクンと頷いて空いた杯を差し出した。なんだかホワホワして、身が清くなったように軽い。


 「全ての生き物は、魂を振動させている。それが、命を繋いでいく“力”の源…」


 ミノもするりと酒を啜った。


「そして、地上の生き物を振動させる大きな“力”…これは天地を巡るもの。地に流れ、木に吹き上げ、天を巡る。それを、地上の生き物が共振し、増幅させる。そうやって、上手く循環している場は栄え、良い循環の断たれた場は滅び行く」


 「おカネの話か?」


 月衛がムッと眉をひそめた。母や叔母、姉達といった女親族の業突く張りを、月衛は胸焼けするような思いで見ていたのだ。ミノが、カラカラと笑った。


 「まァ、金儲けにも応用はできるがの。要は、“力”の循環が上手くいっていると、そこに共振する人々は健康で思慮深く、愛情深くなる。そういう人柄で商売をすれば、真心が通じて客や卸との関係も上手くいく。その円満が富をもたらす。…が、幼子よ。お前の言いたいことは他にあるね?」


 「ああ。氏子から巻き上げた祈祷料や上納金で贅沢三昧、島の人達も納得いってないから“蛇憑きの家”なんて罵るんだろう…。これじゃ摩訶不思議をネタにした強盗だ」


 自分で言っていても情けなくて、つい、ぐいと菊酒を煽る。その「強盗」に飯をもらって生きているのだ、自分は。


 「ふむ。ならば、幼子や。自分が、己が命と引き換えに他人の“気涸れ”を祓い、邪な“気”を断つ力を手にしたらどうする?」


 ――あの、おぞましい“もや”を祓える…?自分が…?


 考えたこともなかった。ずっと「身体が弱い」と言い聞かされ、外にも出るな、何もするなと抑え込まれてきた。「お前は他の子と違って、何もできないのだから」と。その自分が、散々苦しめられてきた、あの“もや”から人を守れるなんて!


 「困っている人の“気涸れ”を祓いたい!邪な“気”と戦う!!」


 びっくりするほど大きな声が出た。どこかに、自分のように孤独なまま苦しんでいる人がいるのなら、駆け寄って助けてやりたい。自分が望んだように。烈生がしてくれたように。


 「自分の命と引き換えに?」


 ミノの冷徹な声が響いた。


 「女は、“気涸れ”や邪気を受けてもある程度自分で回復できるし、男とまぐわって“陽”の力を受け取ることもできる。そうやって、我が一族の巫女は生き残ってきたのじゃ。しかし、男の身体ではそれができぬ。当主に男を立てるようになってからは、誰一人長持ちせん。…それでも戦うか」


 「…もちろんだ」


 自分は、屠られるためだけに生かされる、空虚な存在だと思っていた。死期が早いことには、ある種の諦めもあったし、人の苦しみを解いて死ぬのなら本望だ。

 ミノが哀しげに微笑んで、月衛の小さな顎をつかんだ。


 「幼子や、名を何という?」


 つぅ、とミノの指先が月衛の口角から頬までをなぞった。赤い痣が走る。


「月衛」


 ミノを射貫く、鋭い眼光。


「そうか。然れば、月衛。お前の命、妾がもらい受けた!!」




 月衛がガバリと飛び起きる。十二の大祭で、宮の中に入り御神酒を飲んだ後の記憶。当時は目が覚めた後はさっぱり何も憶えていなくて、怯えるばかりだったが、その後、徐々に思い出すようになった。


「ミノ様が来た…ということは」


 ぐ…と布団の上で拳を握る。


 ――この、麻田村の事件。この世の道理だけでは済まん、ということだな…。


 下腹に力を込めて、フーッと息を吐いた。






「月衛!今日はハイキングに行かないか!?」


 井戸の前で顔を洗っている最中、突然、背中を叩かれてむせた。朝からこんなに元気な奴は1人しかいない。


「烈生…ハイキングって」


 顔を拭うと、烈生が満面の笑みを浮かべて、月衛の耳元に口を近付ける。


「村内で探れないなら、外から探ればいい…。そうだろう?」


 なるほど、実地検分しながら探すのであれば地形も掴めるし、鎮守の森を通らずにケシ畑に回り込めるかもしれない。


「しかし、怪しまれないか?」


 月衛と烈生は、すでに目をつけられている。


「うむ、名目は、巫女となって森奥に籠もる前に、お菊に楽しい想い出を作ってやりたいということでな。お目付役にシヅがついてくるが、途中から村田やお菊と“はぐれて”別行動を取る算段だ」


 村長側としては、村田がお菊を東京に掠ってしまうのではと気を揉んでいるようだ。ならば、シヅは“はぐれた”2人を追うよりも、村田とお菊に張り付くだろう。いわば囮だ。

 グッと、月衛が西洋式に親指を立てた。烈生もにんまり笑って、親指を立て、拳をぶつけた。良い考えだ。




「おべんとー…もった!すいとうー…もった!」


 お菊が、何度も自分の持ち物を確認してはニコニコと飛び跳ねる。


「よーし、それなら出発だ!」


 村田がにこやかに宣言し、お菊の手を繋いで峠への道を歩き出した。後をシヅが、最後尾から月衛と烈生がついていく。


「行き先は決まっているのか、村田」


 後ろから、烈生がのんびりと声をかける。


「そうだなぁ…お菊は、どこに行きたい?」


 お菊の顔がパッと輝いた。


「おはな!すみれとれんげで、くびかざり、つくるの!」


「スミレも蓮華草も季節的に無理じゃないか?」


 すっぱり言い切る月衛を、キシャー!!と村田が威嚇する。


「いいんだよ。スミレじゃなくても。花の咲いてるところに行ければ」


 ねー、とお菊の顔を覗き込む。兄バカも板についてきたようだ。

 瑞穂町から来る時に通った獣道を降りてゆく。来る時には気付かなかったが、獣道は途中で枝分かれしていた。村を出るのが目的ではないので、そこで曲がって山頂に向けて登っていく。月衛と烈生は、だんだんに口数を少なくしていった。黙々と歩くこと15分。す…と2人が足を止める。シヅは、気づく様子もない。女には慣れない山道でフゥフゥと、村田とお菊を追うのに夢中だ。しばらく先へ行かせてから、月衛と烈生は極力音を立てないように獣道を外れて、山中に分け入った。そのまま、元来た獣道を横目に沿うようにして戻り、峠の場所を確認する。


「ここから山腹を回り込んでいけば、鎮守の森の裏手に出られそうだな」


 月衛が地図に印をつけながら呟く。


「わかった。月衛、足元が悪いから気をつけろ」


 烈生が手を差し出す。いらん、とぶった斬るのも気が引けて、月衛は、そのしなやかな手を烈生の手に載せた。


「…君、何か俺を勘違いしてないか?」


 これでは姫である。


「む?何も間違えてはいないと思うが」


 烈生がニヤッと片目をつぶった。


「華奢で繊細、ワガママの気分屋で、手を離すとどこかへ消えてしまいそうな精霊だ」


「…そんな訳ないだろう…」


 月衛が額を抱える。こんなことを真顔で言える日本男児は、そうそういない。


 しばらく、村を横目に見るように進んで行ったのだが、あまり山の浅い所を歩くと、どうしても薪拾いや山菜採りをする村人と鉢合わせしそうになる。それを避けて奥へ奥へと入っていくうちに、ものの見事に迷子になった。


「参ったな…」


 月衛が、地図と方位磁石を覗き込む。


「山頂に近づいている…のだろうが…」


 見渡しても、延々と森が広がるばかりで、さっぱり手がかりがない。


「これ、獣道じゃないか?」


 烈生が、ふと脇を指さす。見れば、草木が踏み均されたような筋が1本。猪や鹿などが使うような大きさだ。


「…辿ってみるか」


 人里に辿り着けるとは限らないが、手がかりがないよりマシだ。最悪、水場に出られれば良い。水さえあれば1週間ぐらいは生きていけるらしいし。烈生と月衛が、下る方へ獣道を辿っていく。

 人などいないだろうと思い込んで歩いていたので、獣道でしゃがみ込んでいる人の子を見た時は心臓がまろび出るかと思った。思わず、妖怪?なんて思ってしまう。


「君!どうした?具合が悪いのか!?」


 先に解凍して動いたのは、烈生だった。子供が、涙でくしゃくしゃになった顔をあげる。


「痛い…痛い…」


 子供の指す足元を見ると、猪や鹿狩りに使う罠に足を挟まれていた。釘が打たれており、それが脹脛に何本も食い込んでいる。


「トラバサミか…酷いな」


 覗き込んだ月衛がため息をつく。


「よし、君は手前の板を引け。俺はあっち側の板を引こう」


 烈生が板に手をかけた。大の男が2人がかりでようやくトラバサミを開く。この威力では、子供の骨は複雑骨折しているかもしれない。それでも彼は歯を食いしばって挟まれた脚を引き上げ、這いずってトラバサミから離れた。


「よく頑張ったな!!強い子だ!」


 烈生が子供を支え起こし、月衛が救急箱を開ける。


「沁みるが、我慢しろ」


 オキシドールを出して、子供の脹脛に振りかける。子供は涙ぐんで耐えた。消毒した後、包帯で巻いて傷口を保護する。骨折については2人とも医者ではないのでわからないが、とても歩ける状態ではないだろう。月衛が子供を抱き上げ、烈生の背にのせた。


「少年!ご両親はどこだ!?送るぞ!」


 烈生が闊達に尋ねた。


「あ…あのね、オイラ、狐の子なの」


 コーン。


「…そんな訳ないだろう。名前は何だ」


 月衛が溜息混じりに尋ねる。


「ゴン」


 響きは狐っぽいが、どう見ても人の子だ。


「それじゃぁ、ゴン、取引だ。俺達は今、道に迷っている。君がどこにも案内してくれないと、ここに君と座り込んで野垂れ死するしかない。川でも街への出口でもいいから、君が一番生き残れそうなところに案内してほしい。俺達もついて行く」


 月衛が、じっとゴンの瞳を覗き込む。


「兄ちゃん達、迷子なの?誰か追いかけてるんじゃなくて?」


「いや、全く誰も追いかけていない。できれば山から出たいくらいだ」


 子供相手に、切実に訴える。


「じゃぁ、いいよ。オイラのセブリバに連れて行ってあげる」


 ゴンの案内で、獣道を下る。


「…ゴン、やっぱり人の子だろう?なぜ嘘なんかついたんだ」


 月衛が説教を始めた。


「だって…父ちゃんが、街の人に見つかったら、そう言えって…。ジンタを守るために1人で死ねって。ホントはセブリバも街の人に教えちゃいけないんだ」


 日本語…ではあるのだが、所々、聞き慣れない単語が混じっている。


「君、もしかして、サンカの子か?蓑や竹籠を作っている」


 月衛が問う。仲間のことは“ジンタ“、居留地は“セブリバ“。謎の多いサンカだが、いくつかの単語が民俗学の論文で報告されているのを読んだことがある。私的所有権の考え方がなく、街から他人の物を持ち帰ってしまうことがあるという。街の人々にとっては泥棒なので、それで追いかけられるのを警戒しているのだろう。


「サンカ…?知らない…。竹籠は作るけど」


 それもそうだ。“サンカ”は、街の人々がつけた呼び名である。


「そこ、その笹林の向こう」


 どうやらセブリバに着いたようだ。烈生がゴソゴソと笹をくぐった瞬間、クナイが飛んで来た。間一髪、木刀で受ける。


「俺達は敵じゃない!この村のゴン少年を送ってきた!」


「ゴン!」


 飛び出そうとした女を、鉈を持った男が後方へ突き飛ばした。


「…ゴン…!お前、街の人間を連れてきたな!?」


 油断なく鉈を構える眼光。


 ――できる…!


 烈生がゴンを下ろし、注意深く木刀を構える。


 「父ちゃん!この人達、違うんだ!オイラをトラバサミから助けてくれて、手当もしてくれた!!」


 ゴンが叫ぶ。


 「俺は神之屋、木刀のは穂村だ。お近づきの印だ。ゴンに使った薬をやろう。傷口が腫れず綺麗に治る」


 月衛が自己紹介しながら、救急箱から、オキシドールを取り出した。


 男の様子が、少し変わった。


「側に行ってもいいかな?」


 月衛が一歩踏み出す。二歩、三歩。ジリジリと距離を詰めていく。月衛が小柄な分、少し警戒感も薄らいだようだ。男の前にオキシドールを差し出すと、男は引ったくって、中を確かめた。


「ああ、ちなみにアルコールとは違うから、飲んじゃいけない。皮膚に塗るだけだ」


 月衛がネチっこく注意する。


「…なら、見逃してやる。ゴンを置いて、とっとと帰れ」


「ゴンは大事な子供だろう?礼代わりに山を案内してくれないか?ケシ畑を探している」


 月衛が艶やかな笑みを浮かべた。







「電報でーす!猿飛さーん?」


 銀螺がそろそろ寝ようかというときに、戸が叩かれた。開けてみれば郵便局の制服が立っている。


「おゥ、遅くからご苦労さん」


 ――ハタケ カクニンス カミノヤ


 開いてみれば、ごく短い文面。ふ…と銀螺の瞳が輝く。これで、準備は整った。振り仰げば、月は丸々と満ちている。


「――お前らにくっついてると、ホント面白ぇことばっかり起こるよな」


 作戦発動まで、あと一日足らず。




 麻田村では、ついに夏祭の日を迎え、村中がソワソワしている。娘達は、いつもよりさらに華やかな着物に身を包み、午後のうちに意中の男に名札をつけた金色の造花を届けに行った。村長宅では、お菊に美しい振り袖を着せ、白粉をはたき、紅を差した。


「にいに…みて」


 隣の間に座っていた村田が顔を上げる。十七の娘盛り。着飾ったお菊は楚々として愛らしく、まるで嫁ぐ日の花嫁のようだ。村田がふらふらと立ち上がる。


「お菊…」


 後は、言葉にもならなかった。ただ、ただ、涙を流すばかり。


「さぁさ、お菊は今日の主役ですからねェ。もう輿に乗らないと」


 シヅがさっさと道具を片付ける。村長に手を引かれ、しずしずと玄関へ向かうお菊の後ろ姿。


「村田…いいのか?これで」


 柱に背を預けた月衛が呟いた。いくら主役だなどと言って美しく飾っても、その実態は贄のようなものだ。お菊には、これから20年、阿片漬けにされて村の男達に犯され続ける日々が待っている。


「だってよゥ…どうすんだよ…どうしようもないだろ…」


 涙と鼻水にまみれて、村田が言葉を絞り出す。村に来て1週間。生き別れの妹と再会して、1日中付き添って、話もした。散歩もした。美しい雑誌を見せながら詩を読み聞かせた。花畑でお弁当を広げ、花冠を作った。どれも、お菊は弾けるような笑顔で楽しんでくれた。余所者の兄が、素敵な想い出を作ってやること以上の何ができるだろう。

 チッと月衛が舌打ちして、黒髪を掻き回した。この腰抜けが、と口から出さなかっただけでも、よく我慢した方だ。


「ならば、見届けよう。村田。俺達も神社へ」


 正座していた烈生が静かに促し、立ち上がった。




 篝火がいくつも焚かれた境内は昼のように明るい。華やかなお囃子、砂糖をたっぷり使った菓子や酒がふんだんに振る舞われる。村の人々は、皆、笑顔でいっぱいだ。

 真ん中に組まれた櫓の前で、村田と月衛、烈生だけが渋面で櫓を見上げている。


「新旧ゥゥ改めのォォ儀をォ始めん」


 独特の節回しで、宮の扉の前に立った村長が軍配を振る。輿に乗って引き出されてきたのは、白装束の痩せ細った女。長い髪に隠れて顔は見えないが、ほとんど意識も無いのではないか。輿の動きにつれて首がゆらゆらと揺れている。

 白装束の女は、輿から降ろされると櫓の上に立つ柱に縛りつけられた。お囃子の拍子が速くなり、銅鑼が打ち鳴らされる。村の人々は固唾を呑んで櫓を見守っている。それは、やたらに長い間だった。ついに村長が震える声を張り上げる。


「御霊ァァァ抜き」


「ギャァッ!!」


 女の腹に木杭が打ち込まれた。村人からは悲鳴やどよめきが上がる。


「な…っ…」


 あまりにも当たり前に目の前で繰り広げられた惨劇に、村田が絶句する。


「…旧“ふく姫”は贄か!!」


 月衛が、ギリ…と唇を噛んだ。なんとなく、御役放免のあとは静かに寿命を迎えるものだと思い込んでいた。否、そう思いたかった。

 月衛の視界の中で、旧“ふく姫”が血と共に“力”の渦を吐き出した。その渦は竜巻のようにうねり、巨大化していく。それにつれて、村人の発する“光”が一斉に揺らぎ、震え始めた。旧“ふく姫”の竜巻に共振し、震えはいっそう激しくなっていく。旧“ふく姫”が柱から外され、櫓の外に突き落とされると熱狂しきった声が上がった。

 代わって、輿に乗せられたお菊が引き出される。寝台に、脚を広げて縛りつけられた。


「御霊ァァァ込め」


 村長が軍配を振ると、村の男達が雄叫びを上げながら櫓に取り付き、登りだした。お互いに殴り合い、他の男を蹴落とす。異様な興奮状態に怯えたのだろう。お菊の泣き叫ぶ声が聞こえる。村人の振動は、その泣き声に呼応するように激しさを増していく。


「やめろ…やめてくれーッ!!」


 村田が、櫓に飛びついた。登りながら、手当たり次第、男達を引き剥がし、殴りつけて、蹴落としていく。櫓の上によじ登り、お菊に飛びかかろうとしていた男達を突き飛ばした。


「触るなッ!!誰もお菊に触るな!!」


 寝台の前に立ちはだかる。


「お菊は、俺が東京に連れて帰るッ!!触るなーッ!!」


 村田の涙声が響いた。熱狂していた村人達が静まりかえる。やがて、その静けさの下から、地鳴りのような声が上がってきた。


「穢された!祭を穢された!」


「邪魔するな!」


「殺せ!殺せ!」


 ワァァァと雄叫びを上げて、男達が櫓によじ登ってくる。


「村田!よくぞ言った!!」


 烈生が、木刀を携えて、木の枝から櫓の上に飛び乗った。


「助太刀するぞ!」


 櫓をよじ登り、向かってくる男達を次々に打ち据える。しかし、男達は構わず飛びかかってくる。腕や脚を折られても、手脚を引きずってむしゃぶりついてくる。打っても打ってもキリがない。


「烈生」


 月衛が、すいと烈生の側に寄る。


「村人は、旧“ふく姫”の衝撃に共振して、興奮しきっている。“力”を注ぎ込まれていて、打たれる痛みを感じていない。“力”を誘導しているのは、村長の軍配だ」


「わかった!人間は俺に任せろ!君は君の思うところへ行け!!」


 烈生が応じた。


「ん、任せた」


 月衛が、ひらりと櫓の近くの枝に飛び移る。


「1人逃げたぞ!」


「追え!追え!」


 月衛の後を追う男達の前に、烈生が立ちはだかる。


「貴様らの相手は、俺だ!!」


 烈生の木刀が唸りを上げる。遠慮なく急所を狙っていくが、男達は怯む様子もない。


 ――くっ…殺すわけにもいかん!


 木刀とて、当たり方が悪かったり、打つ回数を重ねれば殺してしまう。横目で月衛の動きを追う。充分に離れたところで、烈生は、踵を返した。


「村田!お菊に覆いかぶさって、庇え!」


 言うなり、櫓から飛び降りる。狙うは村長だ。神社の宮を目指して走る。村長は軍配を振るのに夢中で、烈生に気づく様子もない。


「村長!!」


 烈生の大音声が響き渡る。


「村娘を2人も、犠牲にせしめんとしたこと!長として、恥ずかしく思え!!」


 木刀を振りかざし、飛びかかる。村長がひらりと軍配を振った。凄まじい圧が、烈生を襲う。


 ――これが、“力”の束か!!


 烈生は視ることこそできないが、日々の鍛錬で“力”は練り上げられている。脚を踏ん張り、圧に耐える。問題は、どこまで保つかだ。




 月衛は枝を伝って、投げ捨てられた旧“ふく姫”ヘ向かう。


 ――これは酷い…もはや村人の“念”の容器に過ぎん。


 20年間、虐待と阿片投与に曝された女には20年分の村人の“念”が渦巻いている。もはや本人の人格は残っていないだろう。邪気と化した“念”を散らしてしまえば、良くて昏睡、悪ければ肉体的な死に到る。

 口から“力”の渦を吐き出し続ける旧“ふく姫”に、黒い“もや”がかかり始めた。


 ――もともと霊力のある女だ、怨霊化しかけているぞ!!妾を降ろせ!!


 月衛の耳に、ミノの声が響いた。


「応!!」


 月衛の口角から両頬へ赤痣が浮かび上がる。左腕には蛇のようにうねる赤痣が、左手は伸びる刀身と融け合うように爛れている。

 枝を飛び降り、旧“ふく姫”に飛びかかった。刀を振りかざした瞬間。


「お…し…まい?」


 女が微かに呟いた。


「ああ、皆、お終いだ。…よく頑張ったな」


 ――もう、眠れ。


 刀を振り下ろす。“力”の渦が断ち切られ、解けていく。倒れ込む女は、わずかに微笑んだように見えた。






「うん、美味い」


 月衛がするりと杯を空ける。


「だろ?今回の事件にちなんで、A県の蔵元の酒だ」


 銀螺が嬉しそうに笑う。


「お前の選ぶ酒が不味かったら、昼寝なんぞさせん。とうの昔に部室から叩き出している」


 月衛が、銚子を傾ける。


「そうかよ。お前、あの部室の何なの?」


 銀螺が、ふぐ刺しを口に放り込んだ。


 大荒れに荒れた(荒らした)麻田村の夏祭のあと、お菊を連れた3人は瑞穂町へ逃げた。その晩のうちに月衛が銀螺へ「ゼンサクセン スイコウセヨ」と電報を打ち、翌日の汽車で一晩かけて東京入りする頃には、新聞に少女Kの人権保護を訴える小松の記事が躍っていた。さらに、銀螺と小松は抜け目なく情報を振り分け、週刊誌にはより扇情的な記事を持ち込んでいた。週明けには、東京中に更なる大騒ぎがもたらされるだろう。

 警視庁では、事態を重く見て麻田村に捜査班を送り込んだ。「市民からの情報」を元に大抜擢された氷雨の陣頭指揮により、殺人および阿片の密造・輸出の証拠が次々と「発見」され、村長以下、何人もの村人が検挙されているという。


「しかし、村ごと吹っ飛ばすたァ、思い切ったな。お菊を掠って逃げるだけじゃ済まなかったのか?」


 銀螺が月衛に尋ねる。


「村田次第でな。もし、あのままヘタレの腰抜けめいたことを言うようであれば、お菊には辛いが生存のために村は残しておかねばならん。しかし、東京に連れ帰るとなれば、村田家がお菊を受け容れるような状況を作る必要があった」


 住んでいた村が壊滅し、お菊の人権保護が世論となれば、いかに村田家が頑なでも受け容れざるを得ない。さらに新聞や雑誌が注目している状況では、お菊を粗末に扱うこともできないだろう。


「それに、ここまで派手に世論を煽っておけば、万が一村田家が頑迷にお菊を拒否した場合でも、保護を申し出る慈善家が湧いてくるだろうからな」


 月衛が、ふんと口の端で笑った。現代では「著名であること」は一つの価値だ。慈善精神をアピールするのにちょうど良いとなれば、素直で愛らしいお菊は引く手あまたとなろう。


「ンで、結局、村長が黒幕だったのか?」


 銀螺が、杯を啜る。


「いや…元々は、福子―旧“ふく姫”の名だが―を庇うために、“ふく姫”に充てたのらしい」


 烈生が溜息をついた。村長は、邪気を散らされて倒れ込んだ女に取り縋り、いつまでも、その名を呼んでいた。


「…20年前、物流が陸路に切り替わって、村が廃れていった頃、村娘の福子が、村の不幸を次々に予言し始めたのだそうだ」


 もともと精神遅滞があり、疎んじられていた福子の予言に村人は恐れおののいた。


「後ろめたさもあったのだろうな…そのうち、村の不幸は福子の呪いだと囁かれ始めた」


 集団心理のままに、福子を神社の境内に引きずり出し、袋だたきにしようというとき、1人の青年が立ち上がった。彼は、福子は村を呪っているのではなく、救うために予言しているのではないかと訴え、福子こそ村の守り神である“ふく姫”様の再来だと村人を説得した。


「それまでは、“ふく姫”には人形を奉納していたらしい。ところが、福子を“ふく姫”に充てて旧来の伝統を紐解けば紐解くほど、巫女としての“ふく姫”の勤めは過酷になっていった」


 鳶色の瞳が翳る。結局、福子は祭り上げられると同時に、人間らしさを奪われたのではないか。福子の産んだ子供達も、検挙騒ぎの中で散り散りに逃げて、行方が分からないのだという。妖怪と見下そうが、生き神様として見上げようが、相手を人だとさえ思わなければ――…


 月衛は、何も言わなかった。銚子を傾け、酒が出てこなくなったのを見て、銀螺の方に向かって銚子を振る。


「~~~…俺の奢りだからって、どンだけ呑む気だよ」


 本日、ミステリー研究会は、銀螺の奢りで料亭に解決祝いに来ているのだ。この料亭も元手下の店で、銀螺が行けば、かなり安くで、もてなしてくれる。


「俺とミノ様の2人分だからな」


 しれっと月衛が、ふぐ刺しをつまんだ。


「そうだ、そのミノ様ってのは何なんだ?」


 銀螺が身を乗り出す。


「神之屋の家の、初代だ。強力な巫女で、島に仇なす大蛇を地に封じ込めて、その“力”を自在に引き出せるようにしたらしい」


「で、お前は?」


「ミノ様を降ろす依代だ。代々、神之屋家の当主はミノ様を降ろして邪を祓ってきた」


 ほう、と烈生が頷く。月衛が妖しい方面に詳しいことは知っていたが、根掘り葉掘り聞いたことはない。


「ふーん…で、お前はチョイチョイ連絡とれるわけ?」


 銀螺が、仲居に空いた銚子や皿を渡しながら尋ねた。もう一言で「美人?」と聞きそうだ。


「ん…一方的にな。好きなときに押しかけてきて、一族の歴史や、この世やあの世の仕組みを喋っていく。夢枕に立つことが多いが、ふと閃いたりすることもあるな」


 月衛が、ふーっと溜息をついた。ミノは本当に勝手気ままで、誰かさんと似てネチネチ講釈を垂れ始めたらキリがないのだ。


「なるほど、夢のお告げか!ありがたいな!!」


 烈生が、気を取り直したように笑う。


「いや…お告げとも限らん。よもやま話だったり、愚痴るだけ愚痴って帰っていくこともある」


 仲居が新しい銚子を持ってきた。月衛がいそいそと受け取り、そのまま自分の杯へ。


「…神様に愚痴なんてあるのか?」


 銀螺が、今にも笑い出しそうな顔で尋ねる。


「ミノ様は神じゃないし…。一族の女達が情けないとか、近頃は里山がどんどん切り開かれて、あれでは天地を巡る“力”の均衡がおかしくなるとか」


 結構、ネチネチと気に入らないことが多いのである。誰かさんと似て。


「君…神島で遊んだとき、当主は皆早死にすると言っていただろう?ミノ様は守ってくれないのか?」


 烈生の一番の関心事である。


「ああ…あれは、贄というより、邪を祓うことで命を削るのだそうだ。元々は女が当主について、陽の“力”の強い婿とまぐわうことで“気涸れ”を落としていたそうだが、男当主では、それができんから早死にすると」


 月衛が杯を傾ける。


「なんでェ、男だから男とまぐわえねェってこた、ねェだろ。尻からで良けりゃ、俺が注入してやろうか?」


 銀螺の眼差しがニヤニヤと月衛の肌を撫でた。


「いらん。間に合っている」


 にべもないとは、この事だ。


「…間に合ってるって、おめェ…」


 銀螺が呟くのを聞いて、一刀両断した月衛がハッと固まる。途端に銀螺が笑い転げ始めた。


「そーか、そーか、お前ら、そうなのか!烈生なら陽も陽、影のつけいる隙間もねェやな!」


 膝まで叩いて大笑いだ。


「うん?何がどうなっているんだ?」


 烈生が月衛を振り返る。何やら自分が話題に上っていることは分かるのだが。


「その…俺が君との交合で陽の“力”を受け取っていると…すまん!俺が口を滑らせた」


 月衛は、目尻どころか耳の縁まで真っ赤にしている。


「笑いすぎだ、銀螺!!」


 潤んだ瞳で睨みつけても、何の脅しにもならない。


 「よっ!ご両人!姐さん、赤飯頼む!」


 「いらん!!」


 さて、明日には取材結果をまとめて、顧問の“ホームズ”先生に報告せねばならぬのだが…。ミステリー研究会の夜は、笑い声と共に騒がしく更けていく。





 日付をまたいで帰宅した烈生と月衛は、風呂場で、さっと水を浴びて汗を流した。穂村邸はひっそり寝静まっており、料亭での馬鹿騒ぎが嘘のようだ。

 月衛が、ベッドで帳面を開いて、明日書く報告書の構想を書き込んでいると、微かに部屋のドアが軋んだ。


「烈生」


 月衛が静かに微笑みかける。


「邪魔…だったか?急ぎの報告書だろう?その上、英文で」


 烈生が入ってきてベッドの縁に腰掛ける。


「なに、遅れたからって人死にが出るわけじゃない」


 月衛が帳面を側机に載せると、烈生がもう堪らないといった風情で口づけた。浴衣の合わせから手を入れ、背中に回して搔き抱く。月衛の浴衣がしどけなく崩れ、白い肩が露わになった。


「ん…む、ふ…」


 お互いの唇を貪り合い、舌を絡める。月衛が、喉を鳴らしながら烈生の舌にしゃぶりついた。烈生が口づけながら、月衛の身体をベッドに押し倒す。


「ん…っあ…」


 慎ましく秘めやかな喘ぎは、烈生の脳髄を耳から冒してゆく。


「――すまない」


 月衛の胸に舌を這わせたまま、キョトンと烈生が目を上げる。


「その、君を利用していたわけじゃないんだ…」


 藍色の瞳が困ったように、鳶色の瞳を探った。


「勝手に…陽の“力”をもらって生き長らえようなどとは」


「なんだ、そんなことか!」


 烈生が屈託なく笑った。月衛の額に優しく口づける。


「…俺は嬉しかったんだ。料亭でこの話を聞いたとき」


 今度は、月衛の瞳がキョトンと瞬いた。


「…君が、俺の事情を慮って抱かれてくれていることは、わかっている」


 逆光のせいだろうか、鳶色の瞳が翳りを湛える。


「だから、一方的に施されているんじゃなくて、俺からも君に分け与えているものがあるということ…とても嬉しかった」


「施すなんて、そんな…!!」


 月衛がガバリと飛び起きた。君には禁じておいて、俺はこっそり愛の恍惚に打ち震えているというのに!

 烈生の逞しい腕が、月衛をシーツの上に引き戻し、抱きすくめる。


「君が俺の将来を大切に思ってくれるのは嬉しい。が、今、ここでだけでも目の前の俺を見てくれないか」


 鳶色の瞳が藍をのぞき込んだ。あまりに真っ直ぐな、強い瞳。耐えられなくて、そっと黒い睫毛が下ろされた。

 烈生が唇を合わせる。熱い舌が薄く可憐な唇を味わい、月衛の口内をねぶる。愛おしい、舌。頬。口蓋。喉奥まで。喰らいつくさんばかりの熱に包み込まれて、月衛はただ、貪り合う悦びに震える。烈生が月衛の首筋を舐め、柔く歯を立てた。


「あ、あ!烈生!」


 切なく甘い呼び掛けは、烈生の情熱を煽る。


「月衛!俺は――…!」


 禁じられた一言を呑み込んで、白い肌に荒々しく口づけの雨を降らせる。誰にも渡さない。印をつけるように熱く、烈しく。


「は、あ、あああ…」


 すんなりとした背がしなり、細い腰が揺らぐ。


「れつお…っ…ああ…」


 この情熱に身を任せてしまいたい。思いっきり、好きだと、愛していると叫べたならどれほど良いだろう。烈生の唇が下腹に到ると、月衛の身体の芯が震えた。


「ああ…烈生…幸せだ。とても」


 弾む息の下から月衛が囁く。烈生が月衛の手を取り、そっとその甲に口づけた。


「その…まだ、言わせてはもらえんのだろうか」


“愛している”。たった6文字の言葉。

 お互いがお互いを欲していると知った、今ならば――。


「…烈生、時期の問題じゃないんだ」


 白い頬が優しく微笑む。烈生の逞しい背中を、白い手が愛おしげに撫でた。


 嗚呼、言葉なぞなくとも、2つの魂は明らかに震えあい、響き合う。蒼い月影が、ふと笑って五色の裳裾を翻した。



 了

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宵どれ月衛の事件帖:ふくごの郷 Jem @Jem-k-s

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