第4話
今日も酷い暑気だ。じりじりと照りつける陽射しに、蝉が暑苦しく騒ぎ立てる。瑞穂町の駅前の宿屋では、女将がフンフンと鼻歌を歌いながら打ち水を撒いている。
「失礼、女将…」
さーて、この次の作業の段取りは、なんて考えてるうちに、柄杓の水が、近づいてきた青年のズボンをばっしゃり濡らした。
「あんれまァ!ごめんなさいねェ!!」
「かまわん、暑さに参っていたところだ」
色白で小柄な学生服が応じる。
「何か、俺宛の郵便は届いているか?」
麻田村に滞在してから数日。月衛宛ての郵便を、留め置いてくれるよう、郵便を運ぶ宿屋に頼んであったのだ。
「ええ、ええ。今朝届いたばっかりですよゥ」
女将が、月衛と烈生を促して中に入った。冷えた麦茶を出してもらって、ホッと一息。さらに、月衛には氷嚢も出してくれた。麓の町では、機械製氷された氷が買えるのらしい。
「何だ?銀螺から?」
烈生が、封筒を開ける月衛の手元を覗き込む。
「ああ、大陸北部の阿片流通について情報を集めてもらった」
月衛が、気怠げに氷嚢に頬ずりしながら、手紙に目を通す。
「ああ…やはりな。大陸北部で、ここ3年くらいの間に日本製の阿片が出回っている。安価な溶剤による全草抽出じゃない、古くからの伝統製法で精製された高級品、だそうだ」
「では、麻田村が水路で出荷しているのは…!!」
烈生が目を見開く。
「おそらく、阿片だ。今、大陸北部は内戦続きで、阿片を取り締まれる者は誰もいない。さらに、社会が混乱して需要も増しているだろう」
藍色の瞳が光る。
「しかし、なぜ麻田村が…地の利だけでは説明できまい」
烈生が腕を組んだ。
「麻田村が崇める“ふく姫”は、花を神格化した神だ。さらに薬をもたらす逸話も付いている」
月衛が帳面を開く。
「巫女の“ふく姫”は、『煙を吐いて怖い』『ずっと煙草を吸っている』…ただの煙草じゃない、『マラも縮む』ほど尋常ならざる状態になるような煙だということさ」
月衛が帳面をめくって書き付ける。
「ケシの花から採れる阿片は、古来からその薬効が知られて、珍重されていた。麻田村ではもともと、儀礼用に少量を生産していたんじゃないだろうか?“ふく姫”に日常的に阿片を投与して、変性意識状態を作ってきたんじゃないかと思う。過酷なお勤めからの逃走や抵抗を防止することもできるしな」
烈生が瞳を瞬いて、麦茶を啜った。
「阿片なら、単価が高いから大仰な工場を建てて大量生産する必要もない。伝統製法なら、農家の台所で作れる」
月衛が帳面にぐるりと○を囲む。
「後は、物証か。伝統製法なら工場は要らないが、その代わり大量の原料が必要だ。どこかに、だだっ広いケシ畑があるはずなんだが」
地図を開いてみる。月衛がつけた印以外は、何もない。
「…まぁ、村も記載されていなかったくらいだからな…地形なぞわからんか」
ふぅ、と溜息をついて、月衛が地図を閉じる。
「…烈生、今晩も“肝試し”に出かけてみようか」
藍色の瞳が、悪戯っぽく光った。
夏の夕暮れは長い。橙色を増した陽射しの中、荷馬車がゴトゴトと山道を行く。
「学生さん方、よく町へ降りてくるねェ。こないだもいきなり夜中に、郵便を頼む、なんてさァ」
宿屋の亭主が話しかけてくる。宿屋は、客の番をするために、必ず1人は店の者が起きている。こっそり夜中に村を出て、銀螺への情報収集を頼む手紙を預けておいたのだ。
「やっぱりねェ、山の中じゃァ退屈でしょう。本屋もないし、茶店もないし」
「そうでもないよ。大変興味深いことばかりだ」
月衛が、ふと笑みを浮かべる。
「ご主人!この山の中に、畑に適するような平地はないだろうか?とても広い…」
烈生が尋ねた。
「さぁ…サンカの連中なら山をよく知ってるだろうが…。儂は、この山道しかわからんねェ」
「ほぅ、この山にはサンカもいるのかね」
月衛が相槌を打つ。狩猟を生業として山を放浪する民だ。
「ええ、時々、町に来てねェ。蓑や竹籠なんか売ってますよォ」
荷馬車が、道祖神の前で停まる。駄賃を渡して荷馬車を降り、獣道をかき分けて、1時間の山歩きに入った。
「確かに、不便だな…」
月衛が息をつきながら呟く。かつては水路を前にして物流の拠点として栄えたであろう、麻田村。鉄道敷設によって物流を陸路に奪われ、衰退していく悔しさは、切迫感は、いかばかりであったろうか。そんな時に、障害を持ち、十分に働けない娘を生き神様に仕立て上げた心情は…
「月衛、きつそうだな」
烈生が心配げに声をかける。
「やはり、麻田村の邪気の影響か?」
町では、暑さに参ってはいたが、ここまで苦しげではなかった。
「邪気というか、なんというか。“活気”とでも言おうかね…。祝祭があると、一人一人の発する“力“も大きくなるし、それらが一つの方向性を持って束ねられるんだ」
白い首筋を汗が伝う。呼吸を荒げる小さな口元。
「それはどこでも変わらない。田舎にいても、都会にいても。むしろ、東京では百貨店やら映画館やら遊園地やら、人を活気付かせる仕掛けが年がら年中開いている。そういったところには集まった“力”が渦を作る」
端麗な眉をひそめる様は、烈生に、あらぬ想いを掻き立てる。
「麻田村の“力”も、祭に向けて強大になっているが、束になった“力”を導く者がいない。その危なっかしさだな、俺の体力を削っているのは」
烈生が、月衛の細い身体を抱き寄せる。
「烈生…?」
月衛の顎を掬い、唇を重ねる。温い舌を使って、丹念に月衛の口中を愛撫した。月衛も烈生の舌に己の舌を絡め、チュッチュと吸い付く。
「んっ…は…ぁ…」
唇を離すと、月衛が、とろりと煮溶けた瞳を上げた。
「…どうした、烈生。山道で盛ったか?」
ほっそりとした腕が烈生の首に回る。
「…君に、少しでも俺の“力”が伝われば良いと思ってな」
面映くて、鳶色の瞳を逸らした。性交が心を共振させるのに一番いいというのなら、もしや接吻でも…と思ったのだ。そう、思っただけ。別に、弱り喘ぐ月衛の姿に盛ったわけでは…。
ふ、と藍色の瞳が微笑んだ。
「発声一つでも、眼差しだけでも、俺は君の“力“を受け取っているよ」
有り余り、溢れる生命力。裏表なく理想を求める純粋な意志。烈生のそれは、強烈な輝きを以って人を照らす。
「でも、俺を気遣ってくれるその想いは、格別だ。ありがとう」
礼儀正しく、礼など言われて。頑なに、その想いを愛だと受け取ってくれないのが、いっそ恨めしい。しょんもりと烈生が濃い眉を下げる。精悍な風貌に似合わない表情が愛らしくて、月衛が笑みを零した。
「…せっかくだから、負ぶってくれないか」
うむ、任せろ!と張り切る烈生の背に乗った。大きくて広い背中。温かな鼓動が広がってゆく。
嗚呼、この鼓動に、温かな腕に包まれていたい。いずれ、どこかの令嬢を娶って一線を引く日が来るだろうが、どうか今だけは。そっと月衛が烈生の紅毛に鼻を埋めた。
「村田!少女雑誌だ。竹久夢二の特集が載っている」
村長宅に帰り着いた烈生が、村田に、町の本屋で買った雑誌を渡した。鮮やかな装丁に、ロマンチックな装画。女学生達のお気に入り画家、竹久夢二の絵もふんだんに載っている。村田にそういう趣味があるわけではなく、お菊へのお土産だ。
「ありがとう…丁度いいよ。お菊は字が読めないから…」
村田が泣き腫らした顔で受け取った。
「…また、お菊の部屋で泣いていたのか」
「悪いか!?民俗学だか歴史学だか知らないが、お前には一事例にすぎないよな!!しかし、俺には、たった1人の妹だ!!酷な将来を知って、平静でいられるわけがないだろう!!」
月衛の冷徹な声に、村田が爆発する。
「引き取る覚悟もないくせに、無駄な水分を放出していると言っているんだ。お菊の将来が酷だというなら、貴様の意気地なしも、お菊を突き落とす手の一つにすぎん」
わなわなと震える村田に、月衛がさっさと背を向ける。不幸に酔ってグズグズする奴は嫌いだ。
「月衛!」
烈生がかけた声に、月衛が、ひらりと手を振った。
「一日、汗をかいて不快だ。風呂に入る」
それも不機嫌の理由か。烈生が、村田の耳元に口を寄せる。
「お菊に雑誌を買っていこうと言い出したのは、月衛だ。ああ見えて、少女小説や装画家にも詳しくてな、あれは。お菊は字が読めないだろうから、綺麗な絵の沢山載っているものにしようと言って、本屋で小一時間、吟味したんだ」
ぎょっと、村田が月衛の背中を二度見する。粘着質の神経質で嫌味っぽい冷笑家が、どんな顔をして少女雑誌売り場に小一時間も居座っていたというのか。
「烈生!余計なことは言わんでいい!」
吼える目尻がうっすら赤らんでいる。あれ、こうして見ると、たおやかな色気があるように見える。夢二の絵に出てきそうな、儚げで翳りのある感じ。
「ははは!潤滑油だ!俺も一緒に浴びよう」
烈生が朗らかに笑って、月衛の背を追う。
「なんでだ。君のような、図体の大きい奴が一緒では狭苦しくて仕方がない」
「そう、へそを曲げるな!背中を流してやるから」
ほっそりとした月衛の肩を抱く、精悍な腕。妙にしっとりと、似合いの風情を漂わせる後ろ姿を村田が呆然と見送る。
「え…ちょっと仲良すぎ…え…?」
月衛の意外な一面を知って、頭が混乱しているようだ。村田が頭を振って、埒もない考えを追い払う。さっそく、お菊に雑誌を見せてやろう。詩を読んでやるのも良い。過酷な日々の合間に、どうか美しいものを見て、夢のような韻律と、兄の愛情深い声を思い起こせるように。
月が天頂を過ぎる夜更け。2つの影が、村長宅の勝手口からひっそりと滑り出る。
「君が目をつけているのはどこだ」
烈生が極力声を潜めて問う。
「“ふく姫”がケシの花の神だとするなら、ケシ畑は御神体のようなものだ。おそらく、神社や鎮守の森の奥だろう」
携帯電灯の電池を確かめて、月衛が応える。米国製の最新式だ。前回の“肝試し”で可燃物だらけの山中をカンテラ持って歩き回るのは機動性に欠けると悟ったので、宿屋に取り寄せを頼んでおいたのだ。田舎町ではとんでもない高級品だが、穂村家は腐っても華族、財力にモノを言わせて買い込んだ。
神社の鳥居が見えてきた。ざわざわと鳴り騒ぐ木立を前に、フーッと月衛が息を吐く。
「…夜の神社は悪い物が多くてな」
手脚に絡みついてくるような雑多な瘴気。村人のちょっとした悪意や反目を、神社の置かれた空間が吸収しているのだ。つい、と烈生の浴衣の袖を引くと、烈生が月衛を抱いて接吻した。生命力の塊のようなこの男には、翳りは付いてこない。存在自体が護符のような男である。
「少しはマシになっただろうか」
そっと唇を離して、烈生が囁いた。
「ん…大丈夫だ」
浴衣の打ち合わせから覗く、白い首筋が暗がりに浮かび上がるようだ。万が一、村人に見つかったら散策だと強弁できるように、ということで機動性を多少犠牲にして、浴衣のままで出ることにしたのである。烈生が月衛の腰を抱いて鳥居をくぐった。しっかり抱きしめていないと、月衛が神社の夜闇に引きずり込まれそうな気がした。
「…君は、心配性が過ぎる」
くすりと月衛が微笑う。
「神島で昏い冥界の話を聞かされたトラウマだ」
唐突に、烈生がオーストリアの精神分析家ジークムント・フロイトの説をぶつけてくる。高等学校のドイツ語教師が変わり種で、文学の代わりに「実用的な」医学論文を読まされているのだ。
「ジークムント・フロイトかね。少々、男根にこだわりすぎる気もするが」
月衛が烈生の逞しい腰に手を回す。情熱家の烈生と違って、普段の月衛は慎重なのだが、神社の暗闇に紛れて大胆になっているようだ。烈生の肩に頭を預ける仕草が妙に愛らしい。
――嗚呼!君の男根を今すぐ食べてしまいたいッ!
むらむらと烈生に健康な欲が湧き上がる。いや、欧米の精神分析家に言わせれば、男相手に劣情を募らせるなど不健全だと叱られるかもしれないが、そんなもので自分の想いを疑う烈生ではない。
烈生の想いを知ってか知らずか、荒ぶる呼吸のままに月衛に口づけようとした顔を、しなやかな手がむぎゅ、と押しとどめた。
「花がある」
宮の裏手から見透かす鎮守の森の奥に、1m程の高さの白い花。木立の影の中で、鬼火のように浮き上がり、揺れている。月衛が、がさがさと草木を踏み分けて森へ入っていく。花の前に到り、葉を1枚取って揉んだ。おもむろに烈生の鼻先に、それを突き出す。
「ぶえ…っ」
酷い臭いがした。
「薬用のケシだな。園芸品種にはない、臭いが特徴だ」
月衛は、咳き込む烈生に悪戯っぽく笑いかけて、周囲の草に電灯を当てて確かめ始めた。
「ふ…ん…。不自然だな」
「え…何が」
ようやく悪臭から立ち直った烈生が問い返す。月衛は、1本1本吟味していた灯りをぐるりと周囲に投げかけた。
「生え方だよ。薬用のケシは原種に近いからね。繁殖力旺盛で、放っておけば種を周囲に撒き散らして群生する。しかし、このケシは1本きりだ」
「つまり、人が管理していると…?」
「ああ。人があえて1本だけ残して摘み取っている…」
目をこらすと、さらに森の奥に白い花が揺れていた。好奇心のままに駆け寄る月衛を、烈生が慌てて追う。
「ここも、1本きりだ」
さらに奥に目をこらすと、ようやく見える場所に1輪の白。
「ふふ…。烈生、天然の灯籠のようだよ。真の参道へ導く、道標だ」
ややもすれば気怠げな雰囲気を宿す瞳に、生気に満ちた光が入る。月衛は、ぞくぞくと身を震わせる思いで、白い花を辿った。
何本辿っただろうか。すっかり森の奥へ来て、烈生が振り返ってみても、神社の宮はとっくの昔に見えなくなっている。
「まったく…君ときたら、慎重なのか大胆なのか分からんな」
いつもは突っ走って叱られるのは烈生の方なのだが、不思議な事柄に出くわすと月衛は俄然、夢中になるのだ。
月衛が立ち止まる。木の根元に、簡素な香炉が置かれている。周囲の木には荒縄が張り巡らされ、紙垂がぶら下がっていた。その縄を月衛がくぐる。
「君、これ、禁域なんじゃ」
紙垂は聖性の印だ。とはいえ、ずんずんと歩を進める月衛を放っておくわけにもいかず、烈生も縄をくぐる。
「ああ、そうだな。隠しものに最適だ」
曲がりなりにも神社の息子が、そんな罰当たりで良いのか、と口に出しかけて、烈生は諦めた。月衛にかかっては、寝台の下に隠す艶本と大して変わらないようだ。
ふと、月衛が携帯電灯を消した。
「篝火がある」
遠くにチラチラと揺れる、赤い炎。烈生がごくりと唾を呑む。忘れもしない、神島のあの夜が蘇る。
「月衛!」
思わず、月衛の細い身体を抱きしめる。あの、大祭の夜のように、幽玄な精霊となって昏い宮に吸い込まれていきそうな気がした。
「烈生…」
月衛が困ったように、烈生の頬を撫でた。抱きしめる烈生の手を取って、浴衣の襟の中に導く。
「ほら…生きているだろう。俺はこの世にいる。どこにも行かない」
とくん、とくんと心拍を感じた。
「ああ…」
月衛の胸に触れた手を、そのまま背中に回して搔き抱く。月衛の肩から、広げられた襟が滑り落ちた。
「あ…っ…烈生…」
烈生は、月衛の体温を確かめるように、森の闇に浮かぶ白い首筋に口づけた。もう、どこにもやりたくない。愛おしい身体を抱きすくめて、何度も何度も口づける。
「…んっ…烈生、今は…」
ケシ畑を探しているんだろう、と月衛が言いかけたとき。
「オイ…何してんだァ、学生さんよォ」
低く唸る声がかかる。いつの間にか、村の男達に取り囲まれていた。
烈生と月衛が、森から引きずり出され、ごく簡素な掘っ立て小屋の中に突き飛ばされる。
「こないだから、何、嗅ぎ廻ってんだァ!?」
男が薪で殴りかかる。烈生が月衛を庇うように腕で弾き返した。ぼくり、と鈍い音が響く。
「…俺達は寝辛くて散策していただけだが。“嗅ぎ廻っている”とは何だね?穏やかじゃないな」
月衛が口の端に笑みを浮かべた。
「禁域にまで踏み込んで、散歩だァ!?何、言ってやがる!」
うん、すごく無理がある。
「禁域?何のことだ?」
月衛が瞳を瞬いた。
「紙垂があったろうがよォ!!」
「ああ…もしかして、稲妻のような紙か?東京にはなくてな。素敵な意匠の飾りだと思った」
そんな訳がない。
「このっ…しらばっくれやがって!つい先日は川も嗅ぎ廻っていたよなぁ!?」
――見られていたか。
チッと月衛が口の中で舌打ちする。
「見られていたとあっては致し方ない!ここは正直に言おう!!」
烈生の大音声が響いた。バサバサと森の木立から鳥が飛び立つ。
「烈生!」
月衛が慌てて烈生の顔を振り仰ぐが、烈生は、村の男達をはっしと見据えた。
「俺達が川に行ったのは!」
村の男達が、ぐっと薪を握りしめた。
「愛を交わすためだ!!!」
どーーーーん。
ドヤ顔の烈生に、一瞬、呆然とした男達の眦が吊り上がる。
「いい加減なこと言ってんじゃねぇぞ!ゴルァ!!」
「いい加減な気持ちではない!俺は月衛を愛している!!出会った日から今日まで、月衛だけを見つめてきた!!」
カァ…と月衛の目尻が染まり、瞳をそっと伏せる。
「毎晩、このたおやかな身体を抱きしめて!口づけて!その先は言えないが!!」
烈生が月衛の肩を抱き寄せた。
「君達に伝わるだろうか?この真実が…」
胸の前に拳を当て、ほぅと熱いため息を漏らす。もう、こうなれば、毒を喰らわば皿まで、だ。月衛がじわりと潤んだ瞳を上げた。目尻と唇に、天然の紅が差す。
「烈生…その…こういったことは、伏せるものではないだろうか…」
完全に何かの底が抜けた。烈生が感極まったように月衛を抱きしめ、唇を合わせる。
むちゅううううううううううう。
村の男達の目前で、精悍な腕がほっそりとした身体を抱きしめ、すっかり着崩れて肩まで露わになった白い腕が、逞しい首筋に回される。鳶色の瞳が蕩け、藍色の瞳は漆黒の睫毛に隠された。お互いの唇を熱く求めあって、ひとしきり。ようやく離された唇から、銀色の糸が引く。
「と、いうわけだ。君達が野良仕事なぞをしている横でこんな事をされても、暑苦しくて迷惑だろう。気を遣って人気のない場所を求めたまでだ」
月衛が、村の男達に人差し指を突きつける。
「チッ…。とにかく、村の事に首突っ込むんじゃねェ!いつでも誰か見ているからな!!分かったら、村長の家に戻れ!!」
まぁ、村社会とはそんなものだ。おそらく午前の内には、東京から来たワケのわからん男色家の情報が行き渡っていることだろう。村の男達が毒気を抜かれたように小屋を出る。解放された烈生と月衛が小屋を出ると、夜空の縁が薄紅色に染まり始めていた。
「うむ、理解を得られたようだな!」
曙の光に、清々しく烈生が微笑む。
「呆れかえったんだと思うがな。しかし――…」
月衛が唇を噛む。動きを気取られたとあっては、今後、村内で密偵するわけにはいかなくなるだろう。いささか大胆に動きすぎたか。
朝陽は、どれほど禍々しい場所にも、掃き清めるように射し込んでいく。月衛が、森に戻る前に、ちらと篝火の方に目をやった。檻のような格子の張られた岩屋。その奥に蠢く影が見えた。
田舎の家は早朝から動き出す。2人が戻った村長宅でも、夜明けと共に女中達が立ち働く気配が感じられた。
「とんだ“肝試し”だったな。少し朝寝させてもらおうか」
客の特権で、それくらいは…と、月衛が烈生を振り返る。途端に、熱い腕に抱きすくめられた。荒い吐息が月衛の首筋をくすぐる。
「烈生!?」
せっかく直した襟の中に、急くように手が入る。小さな尖りを摘ままれ、弾かれて、思いの外、甘い声が飛び出した。
「烈生…あっ…人目が」
もう、朝だというのに。人の気配が、月衛の羞恥心を撫で上げる。
「君は…あんな顔を見せられて、俺が平気でいられるとでも思っているのか?」
耳朶を甘噛みされて、月衛がもがく。どの顔のことだか全く月衛は自覚していないが、その羞じらう様は天下一品の阿片だ。
「ああ、月衛…」
野獣に首筋を噛まれて、月衛が小さな悲鳴を上げた。
「烈生…ここでは駄目だ。お願いだから」
もっと人目につかないところで、と可憐な唇が哀願する。烈生がぐるりと庭を見回し、月衛の手首をむんずと掴んだ。もう片手で慌てて襟を直す月衛を引っ張って、軒に立てかけられた朝顔の棚陰に連れ込む。月衛の両手首を壁に押し付け、鎖骨に舌を這わせた。
「あっ…あ…」
切なく忍び泣くような喘ぎが、烈生を昂ぶらせる。昨晩で何度、身を滾らせたことだろう。人の気も知らないで、花など追って。
「う…ぁっ…烈生!」
月衛の涙声に、ハッとした。
「手首が、痛い」
気がつけば、細い手首は烈生が握りしめた形に赤らんでいた。
「すまない…」
手首を解放し、今度は優しく抱きしめて口づける。
「今日は、いつにも増して激しいな…」
月衛の手が烈生の裾を割り、膨らんだ太腿の筋肉を撫でた。
「君が悪い。一晩中、俺を誘惑して」
烈生が、荒い吐息の隙間から囁いた。
「心外だな…俺はミステリー研究会の取材に行ったんだが」
澄ました声とは裏腹に、藍色の宝玉は愛欲に濡れていた。
「ああ…月衛…」
毎晩のように身体を求められて3年。月衛の手はすっかり烈生の好みを覚え込んでいる。ぬちぬちと淫らな水音を立てて、烈生と己を愛撫しながら、唇を合わせた。身体の奥が熱を持ってうねり始める。
――ほしい。ほしい。
俺は違う、と頭を振る。烈生から求められれば身体を開くが、将来のある彼を自分が欲するなんて。そんな淫らな、弁えもない欲望など認めたくはなかった。
「月衛」
紅毛が、首筋をくすぐる。おもむろに片脚を持ち上げられ、月衛は壁に背を預けた。
「今日も、君の中に…いいか?」
嗚呼!彼は夜毎に、そう確認するのだ。月衛のふしだらな望みを浮き彫りにするように。
「…君なら、いつでも構わない」
羞恥に震える声が、微かに応えた。
「よく言う…場所を選んだ、その舌で」
くっと喉奥で笑う声が聞こえた。はしたなく脚を広げたまま、月衛は瞳を逸らした。
3年抱かれて、毎晩のように乱れ咲き、なお清かなのは月衛の性分なのだろう。
――ああ…っ、あっ…
烈生の愛撫で、脳髄が恍惚に溶け崩れていく。あられもない声を立てそうになって、きゅ…と己の指をくわえた。
「ふ…う…っ」
身体が、待ち望んだ男にしゃぶりつく感触。もう蠕動するのを止められない。
「月衛…月衛!」
――ああ!烈生!
紅潮した目尻から涙が零れた。潤む視界の中に、涼やかな朝顔の花が揺れている。
「ぅ…く…っ!月衛!」
抱きしめられると同時に、鮮烈な光が月衛の脊髄を迸る。
――ああ…
震えて達する身体から、烈生がズルリと指を引き抜いた。
――愛している…烈生…。
烈生には禁じておいて何を言うかと、僅かに残った理性がせせら笑った。
東京は銀座のカフェー。入店してきた美丈夫が、瞳を巡らせて店内を探す。やがて、目的の人物を見つけると大股で近づいた。
「よゥ、小松。商売は順調か?」
テーブルに原稿用紙を散らして、タコのようにすぼめた上唇に鉛筆を挟み熟考中、といった風情の青年が顔を上げる。
「あ!頭領…じゃなくて、銀螺さん!」
「おゥ!」
嬉しそうな笑顔を浮かべて、銀螺が返事した。銀螺と大して歳も違わない小松は、分家ながら銀螺と共に厳しい忍修行を乗り越えてきた、竹馬の友である。
十七の歳に父親が亡くなって頭領を受け継いだ銀螺は、さっさと解散を宣言した。ほとんど父親の意地のようなもので忍として育てられはしたが、もはや現代の世に忍の出る幕なぞなかった。各藩の諸侯がしのぎを削って情報戦を繰り広げていたのも徳川の世まで。文明開化以降は、一国の主達はその統治権を奪われて華族に叙せられ、帝政の下、仲良くお茶を飲んでいる。いざこざがあっても、動くのは全国に配置された警察の仕事だ。忍など、その殺人術を生かして裏社会の住人となるか、その教養を生かして寺子屋のような私塾でも開くか、といったところ。現代にはもっと正々堂々とお天道様の下を歩ける商売がいくらでもある。
銀螺は学校に行きたい者は学費に、商売を始めたい者は準備金にと言い置いて、手下の者達に家産を分け与えた。自分は、忍として養われた勘と情報分析力を生かして株式を幾分か買い込み、後は、若い自分が使い道を誤ることもあるかもしれないから、と長年、先代の側近を務めてきた左近に預けてある。左近は、律儀に毎月、銀行の利息や運用について報告してくるが、銀螺としては、左近の方針であれば銀行に眠らせておくも良し、運用しても良し。けして、為にならないことはしないと、信を置いている。
「こないだの念力泥棒の記事、最高だったぜ。随分、笑かしてもらった」
小松は、中学を出た後、忍の情報収集技術を生かして、記事を書いては新聞社に売り込むのを生業としている。といっても、銀螺が幼い頃から、ちょくちょくホラを吹いてからかってきた男である。売り込むネタも、役人の汚職をすっぱ抜くお堅いものから怪しげな超能力や怪奇事件まで、実に幅広い。幅広すぎて、どこまでが真実でどこからがホラなのか分からない。本人も、世の事件なぞ解釈次第だ、俺は最高に面白い解釈を売ってやると澄ましかえっている。
「あはは、あれねェ。ネタを見込んで取材を始めたはいいが、なかなか良い写真が撮れなくてね。腹下してるって逃げ回って、最後はもう、編集社の便所に閉じ込められて書き上げたんですよ」
…つまり、後半は小松の創作である。
「ンでな、お前さん、以前、旧慣墨守の阿蒙村、なんて記事書いてたよな」
銀螺が、遠慮なく小松の向かいに座った。
「ああ…調べてみたら、ただの貧困集落でしたけどね」
小松が冷め切った珈琲を啜る。
「今度は、ホンモノの阿蒙村の記事書いてみねェか?進歩が無いあまりに、この現代で村娘を生き神様に仕立て上げて、その実態や阿片漬け…怪しげな海外取引にまで手を出している」
小松がニヤッと笑った。
「旧慣墨守もそこまで極めりゃぁ、一周回って劇的ですね。どこに売り込みたいですか?お堅い新聞社から派手な週刊誌まで…お望み通りに仕上げますよ」
「おめぇに真実ってモンはないのかね…。まぁ、いいや。世間がヒステリー起こすぐらい劇的に、しかしお堅い御仁にも聞き流されないような筋立てで」
銀螺が、回ってきた女給に珈琲を頼む。
「“或る女の哀しき一生”!“人権はどこへ―無知蒙昧という名の怪物”!」
小松がノリノリで帳面に書き込んでいく。
「お堅い記事で衝撃的に仕立てるなら、このあたりかねェ。手堅い新聞社に持ち込むなら、それなりに情報量が要りますよ。悲劇の女主人公!若くて美人なら、尚良し。写真、ありますか?」
月衛の分厚い手紙を小松に渡して、うーん…と銀螺が考え込む。
「すでに阿片漬けになった女は綺麗なワケねェだろ。麻薬は生気を奪うからな。ボロボロに老け込んでいると思うぜ。今から犠牲にされんとしている娘は十七だというが…村田の妹だからなぁ…」
良くも悪くも並の器量ではないだろうか。
「まァ、アレだ。“番茶も出花”ってやつで。光加減や角度によっては可愛らしいかもな」
至極冷徹に評する。村田が聞いたら怒りのあまり爆発するかもしれないが、竹馬の友に嘘は吐きたくない。小松の方はさんざっぱら銀螺をからかってきたのだが、銀螺の方は自分の信念というやつである。
「ふむ…。まぁ、十七ならお年頃、俺の腕にかかってるって訳ですね」
ほぼ密談成立だ。
「そんでな、情報収集と推理力には折り紙付のツテなんだがよ。ちっと、記事を流す時期を選ぶんだ。俺が合図するまで、腹の内に留めといてくれねェか。それと、どのくらい情報を使えるかも時期までは決まらねェ」
「…随分、待ちますか?」
小松が、手紙を読む目をちらと上げた。
「いやァ、次の満月までだ。村の夏祭が関ヶ原さ」
小松に珈琲を譲り、銀螺が次に訪れたのは警視庁。受付嬢に呼び出しを頼むと、銀螺を長椅子に座らせて、てくてくと階段室に消えた。しばらくして、髪をきっちりポマードで固めた男を伴って降りてきた。
「よっ、氷雨。予定通りに出世してっか?」
野心の強い男で、家の序列に縛られた忍稼業を殊更に嫌っていた。銀螺が使い道のある奴には家産を分け与えると宣言したときも、いの一番に名乗り出たものである。
「いやァ…帝大卒の坊ちゃん方ばかりが取り立てられてね…。現場の捜査官から這い上がろうなんて奴は、ウッカリすると汚れ仕事ばかり押し付けられる」
銀螺の向かいの長椅子に腰掛け、眉間に皺を寄せて愚痴った。
「まァ、官庁ってなァ、そーゆートコだよな」
出世すれば官憲として強大な力を振るえるが、それには一にも二にも学歴がモノを言う。かといって、壮年にさしかかる氷雨には、のんびり大学まで進学しているヒマなどない。時間は誰にでも有限だ。刻一刻と若さを失い、それと引き換えにそれぞれの駒を進めてゆく。それを思えば、忍の世界の外だって、そうそう平等にはできていないようだ、と高等学校高等科に6年も居座って学んだ銀螺が相槌を打つ。
「そんなお前さんに、今日は良いネタ持ってきたぜ。上手く使やァ大手柄だ」
銀螺はニマッと笑って、月衛の手紙の写しを振って見せた。
―つづく―
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