第3話
蝋燭の炎が揺れる。岩屋の壁に映る影は、激しくまぐわう姿。
「見えるか!?言え!!何が見える!?」
男が必死の形相で女の胸ぐらを掴む。布人形のように揺らされるままの女の口から涎が溢れた。
「うぅ…ひかる…ぐるぐる」
女が呻く。
「みぃ~んな、おしまい」
ニタリと笑った女の顔を、男が拳で殴りつけた。女は意識を失ったようだ。紙のように白い頬。痩せ衰えた胸が弱々しく息をつく。
「コレは、ダメだな。もう」
岩屋の入口に座った男が吐き捨てる。
「待ってくれ、違う!今日は具合が悪くて…」
女を殴った男が取り縋るも、多勢に無勢。
「ここんとこ、ますますワケがわからなくなっているじゃねぇか。弱って、子も産めねぇしよ」
「取っ替えるしかねェな」
「おぅ、代替わりじゃ、代替わり」
ざわざわと男達が立ち上がった。
――なんで…なんで、こんなことに。
取り残された男が、身を縮めてしゃくり上げる姿を、岩屋の奥に置かれた日本人形がじっと見ていた。
「むかァし、昔…」
老爺の言葉に、膝に乗った幼女と、帳面を広げた月衛が瞳を輝かせて聞き入る。
「この村は、今よりずっと栄えていたそうな。特に長の家は見事なもので、瑠璃の瓦で葺いた屋根に、金銀漆の柱を立てて」
老婆が出してくれた煎餅を烈生がボリボリと戴いた。
「おまけに、長の娘の“おふく”は、大層美しい娘での。おふくが歩けば花が開き、ニッコリ笑えば春風が吹く。その評判は都にも届き、お侍様やお公家様、はては帝までが金銀財宝を携えて、ぜひ、お后にとやってきた」
帳面を鉛筆が走る。
「ところが、おふくは、だァれが来ても“うん”と言わん。それもそのはず、おふくは、村はずれに住む、心優しい炭焼きの男と愛し合っていたんじゃなァ」
優しい男が一番じゃ、と幼女が稚い口ぶりでませたことを言う。
「長は、それを知って大層怒っての。ついには帝に頼んで百人もの兵を出し、おふくを都へやることにした。おふくは別れを悲しんで、引き立てられていく時に、炭焼きの男に小さな袋を渡したそうじゃ」
老爺が一口、茶を啜る。
「中には金色に輝く丸薬が入っておっての。これを一晩に一粒飲めと。そうしたら、夢の中で会えるからと。おふくは、そう言い残して都へ旅立った」
ふむ、と月衛が相槌を打って鉛筆を走らせる。
「男は寝る前に一粒、金丹を飲んだ。夢の中で、おふくが裏山の竹を刈れという。男が翌朝、竹を刈ると金銀財宝が溢れだした。次の夜には、井戸を掘れという。男が井戸を掘ると、素晴らしい香りの美酒が湧き出した。男はすっかり左団扇さ。炭焼きも忘れ、毎晩、おふくとの逢瀬を繰り返し、ついには天に昇って、おふくと添い遂げたそうな。めでたし、めでたし」
「いや、ご老人!それは、めでたいのかどうか!?」
烈生の闊達な声が響く。本日のミステリー研究会の活動は、村の古老に“ふくご”と“ふく姫“の話を聞いて回ること。村田は、すっかりふさぎ込んでしまったお菊を介抱すると村長宅に残った。
「すると、“ふく姫”様とは、天に昇ったおふくのことか?」
月衛が確認する。
「そう。以来、“ふく姫”様は、この村に福を産んでくれる神様になったというわけじゃ」
ニコニコと笑顔を浮かべる老爺に礼を言って、民家を後にする。そろそろ昼時だ。2人は、神社の宮の軒を借りて弁当を広げることにした。裏に回ると鎮守の森から、涼やかな風が吹いてくる。
「しかし、“ふく姫”伝説は聞けば聞くほど、かぐや姫のお話に似ているな!」
烈生が、竹の皮の包みを開く。午前中で回った古老達の話は、細部に違いはあっても、ほとんど「竹取物語」のような粗筋だった。
「…ああ。金銀財宝にもなびかない美しい娘が、世話になった村人に富をもたらし、薬を残して遠くへ旅立つ…。竹取物語によく似た類話は、日本中のあちこちにあるんだ」
月衛が帳面とにらめっこしながら応えた。
「その中で、“ふく姫”伝説の特徴は、貰った薬を服用する後日譚が付いているところか。竹取物語では貰った薬を燃やしてしまうのだが、ふむ…。幸福な夢を見ながら天に昇る…死に到る、か」
「それだ。果たして、めでたいのかどうか?」
烈生が大口を開けて、おむすびを頬張る。
「理性が覚醒している方がよい、生きている方がよい、というのは現代人の考え方でね」
月衛が、ふんと口の端で笑う。
「昔の人々が同じように考えていたかは分からない。むしろ、浄土思想の影響を受けていれば、本当にあの終わり方で良かったのかも…うぷ!?」
烈生の無骨な指が、月衛の唇に漬け物を押し込む。
「君も、生きることを軽視しすぎだ。食べないと保たんぞ!」
烈生が、悪戯っぽく笑っている。藍色の瞳が悪戯っぽく笑い返して、烈生の指をねぶった。可憐な口の中に含み込んで、舌で包むように舐めあげる。ちゅぽ、と唾液にまみれた烈生の指が出ていき、銀色の糸を引いた。
「俺は、これで充分だ」
烈生の瞳の中で、月衛がボリボリと漬け物を噛んで飲み下した。
午後になると、この村の娘達は家の縁側に出て、お茶を飲む。ここ数日の話題は、もっぱら、村に突然やってきた東京の学生さん達のことだ。噂をすれば、ホラ!こっちに来ちゃうがね!?
「やぁ!今日もいい天気だな!」
紅毛に鳶色の瞳の美丈夫が、笑顔で話しかけてきた。品のある物腰に、生気に満ちた、くっきりとした顔立ち。きゃぁと娘達が笑み崩れる。
「少し…いいかね?話を聞きたい」
暗闇に溶けるような黒髪、白い肌。するりと音も立てずに動く青年も美しい。ちょっと凝った娘なんぞは、こっちが好いとか騒いでいる。
「えっ、ええ!ええ!どうぞ!!」
娘達が、紅茶とクッキーを出してきた。
「ハイカラだな。東京から取り寄せるのか?」
烈生が覗き込む。
「ええ。村長さんから瑞穂町のオヤジさんに頼んで」
そうだ、瑞穂町の宿屋の亭主も、「贅沢品を頼まれる」と言っていた。娘達の着物も、東京の中流家庭のお嬢さんみたいだ。鮮やかな染めは、最新の化学染料でしか出せない。
「着物も最新流行の品だな。袖は家事や農作業などする時に邪魔にならないかね?」
月衛が尋ねる。普段着のはずなのに、作業着の感じは全くない。
「やんだァ。炊事洗濯や畑仕事は“ふくご”にさせるんですよゥ。あたし達は、おっ母さんが監督するのを手伝うだけ」
なるほど、それなら東京の女学生のような服装も納得がいく。午後からゆっくりと紅茶を楽しむ余裕もあるわけだ。
「あ、のゥ、学生さん達は、夏祭まで村におるとですか?」
華やかに前髪をカールさせた娘が、もじもじと尋ねる。
「ああ!村田がお菊との別れを惜しんでいるからな!夏祭まで見届ける予定だ」
烈生が応える。昨晩、村田はお菊が“ふく姫”様になるまで側にいて見届けると言っていたのだ。キャーッと娘達が歓声を上げた。
「あの!そしたら、“花守”様も!?」
「“花守”様?」
頬を染めて身を乗り出した娘に、月衛が問い返す。
「へェ。“ふく姫”様は、お花の神様だから。“花守”様が付くんだァね」
審神者のことだろうか。月衛が帳面を広げる。
「夏祭の満月までに十七になった娘は、みィんな、村の男達の中から一人、“花守”様に選んで、“金の花”を贈るだで」
「そしたら、その晩に“お通じ”が」
キャァッと娘達が、真っ赤な頬っぺたを押さえた。
「だから、その、あたしの“金の花”を学生さんに…」
烈生と月衛が顔を見合わせる。村の娘は皆、便秘なんだろうか?
「“金の花”で便秘が治るだァ!?!」
村の青年達が笑い転げる。夕方は寄合があると聞いて、烈生と月衛も混ぜてもらったのだ。寄合の後は、ごく自然に酒盛りに流れた。
「いやいや、妬けるねェ。学生さん達」
「“金の花”は、アレだァな。未通娘のアレ」
青年達がニヤニヤと酒を注ぐ。
「アレ…とは、その、生娘の初交のことか!?」
烈生が大声で確認する。ゲラゲラと大笑いが起こった。
「そうさね。なァに、由来のない話じゃない。“ふく姫”様は、炭焼きとの逢瀬で、ありがたァいお告げを下されたじゃろ。村の娘を“ふく姫”様に見立てて、まぐわって神意を通じるんでさァ。だから、“お通じ”」
「しっかし、まァ…学生さんみたいな別嬪がいるなら、いいけどよォ」
月衛の肌に、青年達の視線が絡みつく。艶やかな黒髪に映える白い肌は、蝋燭の明かりに浮かび上がるようだ。細く、しなやかな体つきはシャツの上からでもわかる。月衛が溜息をついて、ドンと酒瓶を床に鳴らした。
「その“ふく姫”様について、聞きたい。“花守”様とは何か?普段、鎮守の森の奥で暮らしている“ふく姫”様のお世話でもするのか?」
月衛は美しいだけに、眦を決して睨み付ける瞳の鋭さは人を射貫き、威圧する。
「そ…そうさね…。一応、村長が“花守”様なんだけども。村の男は、誰でも必要があれば、“花守”として“ふく姫”様とまぐわって、お告げを受け取れるんだァね…」
烈生の眉がこわばった。
「いやァ、俺は“ふく姫”様に掛かったこと、あるけどよゥ。痩せ細ったババァが、なんだかずっと煙草を吸ってて、ワケわかんないことブツブツ言っててよゥ…。マラも縮んだわいなァ」
「そんなら、今年からはお菊に代わるけェ。若いうちは楽しめるんじゃねェか…」
ゲラゲラと笑いの渦が巻き起こる。膝の上で拳を震わせる烈生を、月衛の手がそっと押しとどめた。
「なんだって…」
村田が愕然と呟いた。寄合の後、客間に戻った月衛と烈生から話を聞いたのだ。
「お菊が怯えるのも当然だ!これでは村中の慰み者ではないか!!」
烈生が拳を握りしめて怒る。
「おそらく…聖娼の類いだろう」
月衛が帳面をめくった。
「セイショウ…?」
「ああ。小アジアから東地中海沿岸一帯の古代社会に分布していた慣行だ。大地母神を祭る神殿に女が参籠し、男に身を任せて大地母神の恵みを与える。古代日本にもその形跡があるそうだ」
「しかし…!!」
「烈生」
猛る烈生を、藍色がちろりと見た。
「性交を一段貶めて捉えるのは、現代人の考え方だ。麻田村の慣習も古代の姿を残しているだけだ。外の人間が善し悪しをどうこう言うのは、僭越というものじゃないのかね」
ぐ…と烈生が黙る。握った拳に青筋が浮かび上がった。
「まぐわって、お告げを受け取ると言っていたな。性交は“ふく姫”を変性意識状態にさせる意味合いもあるんだろう」
村田の頭に、月衛の冷徹な声が響く。
「変性意識って…、え…?」
衝撃のあまり、話が頭に入ってこない。脳味噌から月衛の声が零れていく。
「トランス状態…極度の興奮で表層的意識が消失して、脱魂や憑依と呼ばれるような精神状態に入るのさ。“ふく姫”に神を降ろすとはそういうことだ」
帳面に書きつける鉛筆の音が、やたらに耳につく。
「そうであれば、“ふくご”の謎も解けるな。あれらは人の子だ。種は、お告げを受け取るためにまぐわった男達だろう」
「馬鹿な!!たしかに二本脚で歩き、言葉も解しているようだったが…体格も反応も人間とは」
まくし立てる烈生の唇に、白い人差し指が当てられる。
「…異なる?人間は人間に生まれつくんじゃない。そのように育てられて人間に“なる”んだ」
藍の瞳が底光りする。
「…昨今、イギリスの新聞で注目を浴びている事例があってね。インドで、狼に育てられた姉妹が見つかったというのさ。彼女らは立ち上がったり歩いたりすることはできず、四つ足で移動する。食事は生肉と牛乳を好み、食べるときは手を使わず地面に置かれた皿に顔を近づけてなめるようにして口に入れるそうだよ」
「そんな…」
村田が呆然と呟く。
「まぁ…半ば見世物のような話だがね。ともかく、文明から切り離して育てられれば人の子も畜生のようになるという事例さ。去勢、調教、栄養管理…“ふくご”達も、おそらく“ふく姫”の精神遅滞を受け継いだ子供を畜生のように育てて、使役しているんだろう」
「なんたる非道!!なんと非人間的な…!!」
烈生が歯を食い絞める。
「“非”人間的…?」
ふんと月衛が嗤った。
「神でも妖怪でも、相手を人だとさえ思わなければ、どんなに残虐なこともできる。そっちの方が人間の本質かもしれないよ…」
「そんな…お菊が哀れだ!!お菊だって、村の娘と同じ人間なのに!!なんとか…お菊だけでも…!祭を妨害するとかさァ!!知恵を貸してくれよ!!ミステリ研!!」
村の娘は好いた男と結ばれ、お菊は…お菊の子は…。村田が月衛に取り縋る。
「村田。お菊を東京に連れ帰れるなら、掠ってでも助ければ良い。しかし、村に残すなら、世話の必要なお菊が生き延びる道は、伝統に従って“ふく姫”様になることだけだ」
月衛が冷たく帳面を閉じた。
虫の鳴く夜に、遠吠えが響く。
「あれは…?」
便所に立った烈生が、側を通ったシヅに尋ねる。
「“ふくご”でございますよゥ。力仕事用のは、ああやって遠吠えしますのさ」
――本当に、俺達には何もできないのか…?
遠吠えさえ、事情を知った今では哀しげに聞こえる。烈生が、ぐっと拳を握った。
「月衛!氷だ。口に含め」
ぴとっと唇に当てられる、冷たい感触。
「…こんな時期に…氷?」
月衛が気怠げに瞼を開く。それほど暑くないはずの麻田村だが、今朝からは酷く気温が上がっている。谷間の村には特に熱が溜まるようだ。
「ああ。氷室があると聞いてな!分けてもらった」
月衛が、この暑さで倒れてしまったのだ。
「久しぶりだな。君が倒れるなど」
烈生が手際良く手拭いを絞って、月衛の額に乗せた。神島を出てからはかなり丈夫になっていたのだが。
「…雲行きがよくなくてな」
ふぅ、と月衛が息をつく。烈生が庭に目をやった。日照りと言ってもよいほどの夏日が差している。
「妖しい“雲行き”の方か!やはり、この村には悪鬼が巣喰っているのか!?」
烈生が身を乗り出す。いっそう強く輝く、金色。
「“悪鬼”…というか、それ自体に意志や人格があるわけじゃない。ただの“力”だ」
「“力”…?」
烈生が瞳を瞬かせる。
「“気”でも“波動”でも “エネルギー”でも、呼び方は何でもいい。地に流れ、木に吹き上げ、天を巡る。それを、地上の生き物が共振し、増幅させる。善いも悪いもない」
月衛が布団から起き上がって、帳面を広げる。ぐらついたところを烈生が支えた。月衛の背中に回って座り、背もたれ代わりになって抱きかかえる。
「その“力”の方向性を定め、性質を与えるのは人の“念”…想いだ。使い方、とでも言おうかね…」
「つまり…」
烈生の手が、拳をグッと握る。
「“力”を悪用する悪い奴が、この村にいるということだな!?」
「…まぁ、君がそう纏めるなら、それでいい」
ゴチャゴチャ言わず、物事を直截に捉えるのも一つの才であろう。
「ここの神社の祭神は、
「ほう…」
烈生が、相槌を打つ。
「ただし、
月衛が村長宅の古文書から要点を抜き書きした帳面をめくる。
「それで、古代の形を残していると…?」
烈生が帳面を覗き込む。
「…そこが、どうも合点がいかないんだ」
月衛が苦しげに息をついた。烈生の手が、労るように月衛の胸をさする。
「この手の過酷な風習は、時代を経るにつれて象徴化されて、穏健になっていくものなんだが。生贄の代わりに人形を奉納する、とか、それこそ、村の娘を女神に見立てて、好いた男と一夜の契りを交わすだけの形に変わる、とか。聖娼の慣習だって、大抵は2世紀頃までの話さ。それがなぜ、この村では残っているのか?」
「穏健化しなかった理由が何かしらある、ということか?」
烈生の生気に溢れた声が、月衛の耳に流れ込む。
「ん…あるいは…穏健化していたものが再度、原形に回帰した…か」
月衛の手が帳面をめくる。
「これらは、代々の村長――“花守”の記録だ。これによると、人間の娘を“ふく姫”に充てる代わりに人形を奉納していた時期もあるんだ。たとえば、この年には“適格者ナク”と記載されている」
「じゃあ、お菊は…!村長に人形で済ませられないか交渉して…」
烈生が勢い込んで乗り出す。
「いや、事はそう簡単には済まない」
月衛が、鉛筆で帳面を叩いた。
「社会が原理主義に回帰するときには理由があってね。外力に曝されて危機に陥る時に回帰しやすいんだ。こういった過酷な風習も、社会に衝撃を与えて、外力に対抗する“力”を引き出そうとするものさ。
例えば、のんびり歩いているところに突然暴漢が襲ってきたら…逃げるにしても闘うにしても、一気に身を守るための“力”が湧き出るだろう。それと同じだ」
月衛が、帳面に何やら人の図を描いた。
「人形を奉納して済ませるのは、のんびり歩いている状態だ。儀式によってちょっとは“気”が改まるが、すぐに普段の生活に戻る。ところが、生贄が実際に命を奪われるのを見たり、人間を犯したりすれば…、贄の衝撃が周りにも共振して伝わる。その衝撃で“力”を引き出す」
矢印を描き足す。
「これを欲する限り、今、人形で代替したとしても、お菊を村に残せば、いずれ何らかの形で犠牲になる」
「じゃぁ…どうすれば…俺たちには何もできないのか!?」
「村ごと吹き飛ばす策なら、ないわけじゃない。のんびり、ぶっ倒れているわけにはいかないんだ。…烈生。頼まれてくれ」
「こっちだ!」
烈生は月衛を抱きかかえて、麻田村に降りてきた峠から真反対の村はずれに向かっていく。しばらくいくと、ちょっとした雑木林の中に石段が現れた。烈生が早朝の走り込みで見つけたのだ。
「…かなり、しっかりした造りだな」
石段を降りると、石畳の道に出た。緩やかな坂を下ること10分。木々の間を抜けると、そこには川が広がっていた。
「まさか、村の奥に川があるとはな!驚いたろう!?」
烈生が闊達に笑う。木陰を選んで、そっと月衛を降ろした。
「この辺りでいいか?」
「ん…ありがとう」
さらさらと川の流れる音。川面は強い陽を反射して燦めいている。水の流れに沿うように、そよ風が吹く。葉擦れの音。土と緑の匂い。
――“流れ”がいい。
月衛が呼吸を深くする。吸っては吐く、白い横顔。ふと視線を感じて目を上げると、烈生が、なんとも言えない顔つきで見ていた。ふ、と薄い唇が微笑む。
「おいで、烈生…。一緒に休憩しよう」
ゆらりと伸ばされた白い手に誘われるまま、烈生が月衛の隣に寝転んだ。月衛が烈生の背中に手を回し、身体を沿わせる。
「その、いいのか?君が弱っているのに」
「ん…。君の放つ光は、すごく良い。金色に輝いている」
けして萎れず弛まず、燃え盛るような心が放つ、光。
「抱いてくれ…。心を共振させるのに、一番いいんだ」
発声一つでも、目線一つでも、人はお互いに“力”を伝え、共振し合う。性交など、その最たるものだ。強烈に昂ぶった心が生々しくぶつかり合うのだから。
「月衛!」
烈生が月衛の華奢な身体を掻き抱き、唇を奪った。ここ数日は、村田を気にして充分に月衛を抱けていない。いきおい、烈生の唇にも熱がこもる。
「ん…、あっ…烈生…」
白い首筋に吸い付き、舐める。切なく、甘く呼び掛ける声が、さらに心の火を煽り、熱を掻き立てる。
「君は…狡い」
烈生が呟いた。
「こうやって、俺を煽っておいて、心の最奥には入るなと言う」
愛している――月衛に禁じられた言葉を、殊更に口に乗せて囁く。
「だめ…。あ…っ」
烈生の掌が、浴衣の裾を開いて月衛の肌をまさぐった。
「君が何度止めても、俺の気持ちは変わらない」
指が、好いところを探すように動き回る。月衛は細い腰をくねらせ、啼き喘ぐ。
「君が百回止めるなら、俺は百一回、愛していると言う」
月衛の脚を持ち上げ、内腿の柔肌に口付けた。白い膝が痙攣し、可憐な唇が空気を求める。
「百二回止めるなら、百三回言おう」
月衛の肌を、言葉を刻みつけるように甘噛みする。
「百四回、百五回…君に伝わるまで」
烈生は、月衛を宥めるように舐め、吸い付いた。
「愛している…月衛」
「は…っ…あ…っ…」
水紋が広がるように、月衛の身体に金色の熱が広がっていく。
「…めげないな、君も」
月衛が、烈生の頭を抱き寄せた。
「それが俺だからな!心の火は誰にも消せん」
烈生が闊達に笑う。その頬を白い手が包み、口づけた。
「この季節には、少々熱すぎるな。冷ましてこよう」
月衛が口の端にいつもの笑みを浮かべ、するりと烈生の腕を抜けて立ち上がる。
「君…っ」
すんなりとした白い裸体が川へ向かった。
「中を見てみる」
一言言い置いてザブザブと入っていく。膝くらいの浅瀬からしばらく行くと、ぐっと水深が深くなっていた。
――充分だな。
ふと横を見ると、川面からの光にさえ燦めく金色の髪。烈生が追ってきていた。緋色の瞳に、金と碧がくすりと笑いかける。捕まえようとした腕をすり抜けるように白い裸体がひらめいた。烈生だって、水泳は苦手な方じゃない。精悍なふくらはぎが水を蹴り、しなやかな身体を追う。川面から射し込む陽が青緑の水中に幾筋もの柱を立てている。月衛がちょいと息継ぎして川底へ向かう。烈生も息継ぎをして追いかけた。
川底を撫でたり、また少し先へ行って。何やら観察している風の月衛の身体を、逞しい腕が抱きすくめた。振り返る月衛と唇を合わせる。こぽりと泡が漏れ、川面へ上がっていった。白い身体を、もう離さないとばかりにしっかりと捕まえて、烈生が上へ向かう。
「君!危ないだろう!」
河原に上がると、開口一番、烈生が叱った。
「自然での水泳は、二人組が基本だ!」
「ああ…。君なら追ってくると思って」
くすりと笑って、月衛が腰掛けた。河原の石は程よく陽が当たり、水泳後の身体を温めてくれる。
「何を見に行ったんだ?」
烈生も、隣に腰掛ける。
「水深と、川底の造り。あの水深なら充分だ。ちょっとしたモーターボートも着けられる」
月衛が、きゅ、と髪を絞った。白いうなじが濡れて艶めいている。
「川底も、石を嵌めて整備した跡があったよ。少なくとも、かつては交通手段として使われていたはずだ。その気になれば、現在でも使えるだろうな」
「つまり…君の気にしていた、物流が!?」
咄嗟に、月衛の唇が烈生の口を塞ぐ。白い腕が烈生の首に回って、月衛が正対して烈生の懐に入り込んだ。
「…こうやって話そう。君は、声が大きすぎる」
ちゅ、ちゅ、としばらく口づけを交わす。
「瑞穂町のオヤジさんは、麻田村を、もともと寒村だったと言っていたが…」
月衛が烈生の耳元で囁く。
「おそらく、それは、交通が陸路に切り替わってからの話だ」
文明開化以降、急速に東京府を中心とした鉄道網が敷かれたが、それ以前は川や海といった水運が物流の中心だった。麻田村も、川から入るなら、石で整備された道を15分程度歩けば着く。むしろ、かつては瑞穂町ヘ到る山道の方が裏手だったのかもしれない。
「この辺りの鉄道が開通したのが、だいたい20年前…。それが麻田村を困窮させる“外力”となった可能性が強い」
熱い唇が月衛の鎖骨を這う。甘く湿った吐息が漏れた。
「そこで、“ふく姫”に人間を充てるように回帰した…現“ふく姫”だな。そして、ここ3年ほどの麻田村の繁栄は、水路を再活用し始めたからか」
烈生が、月衛の身体を抱き寄せ、極力声を潜めて囁く。
「そう。水路の繋がる先は日本海」
月衛が、烈生の耳朶を舌でなぞった。次いで、耳朶を口に含み、優しく吸う。
「残る謎は、何を出荷して金に換えているのか…」
烈生が、月衛の頬に口づけた。
「神格化された“金の花”、“金丹”、死に到るほど幸福な夢…俺の予想が正しければ、現代のこの村は、とんでもない爆弾を抱えているよ」
金と碧の瞳が、剣呑な笑みを浮かべた。
「きゃぁ〜!銀螺様!!」
「お会いしとうございました!」
キャバレー「赤風車」のホールにて。流行最先端の膝丈ドレスを着たモダン・ガール達が駆け寄ってくる。
「よゥ、宮に紫、蔓!元気にやってるか?」
銀螺がホールに面したボックス席の長椅子で腕を広げた。
「はい!おかげさまで!」
宮と蔓が、広げた腕の中に飛び込む。紫が微笑んで、長椅子に腰掛けた。
「ときに、付きまとってたってェ男はどうした?もう大丈夫か?」
銀螺が、愛おしげに宮の額に口付けた。
「はいっ!銀螺様の教えてくださったように、布団に引きずり込んでから3人で押さえてアレを潰してやりました!!」
「泣き喚いて飛び出して、以来、顔も見せないよね」
「せいせいしたわねェ」
女給を務める宮に、しつこく絡んでくる男がいたのだ。
「フハッ!だろ?女だと思ってナメてかかる奴には、当の女からこっぴどい目に遭わされるのが一番効くんだよ」
銀螺が悪戯っぽく笑った。
「銀螺様」
ギャルソンが丁寧に一礼する。
「お部屋の用意が調いましてございます」
「おぅ。3人とも今回は獅子奮迅の働きだったってな。来いよ。ごホービやるぜ」
宮・蔓・紫を促して、ギャルソンの案内についていく。
ホールの喧噪も遠ざかる落ち着いた一室に、天蓋の付いたベッドが設えられている。彫刻のように筋肉質な銀螺の身体に寄り添う3人の女体。
「――ご存じの通り、ロシヤ革命以降、大陸北部は各地で内戦が勃発し、群雄割拠の状態です」
ベッド脇の椅子に腰掛けた左近が、涼しい顔で報告を続ける。
「だァれも管理できる者はいない…おかしなものを流通させるにゃあ最適な状態だな」
銀螺が頷く。
「そうです。さらに、戦乱となれば、医療用から拷問用、兵士の手慰み…阿片市場も拡大します。その中で、日本産の良質な阿片が広がっているとのこと」
「東京から見りゃ、行政も流通も届かないようなド田舎…ところが、日本海に目を転じりゃぁ、すぐ側に莫大な市場があるってワケか。誰だか知らんが、いい目利きしてやがる」
にんまりと、銀螺が笑った。
「左近、この情報、いくらで売れると思う?」
「作戦を仕掛けるときに、欲をかくものではありませんよ。ご自分が手綱を取れるようにしておいでなさい」
左近が柔らかくたしなめる。
「ふ…ん、そしたら小松ンとこが最適かねェ…」
パサッと側机に報告書を載せた。舌を出してねだってくる宮にちょいと口づける。
「使い道はお任せしますよ。私は、これで失礼いたします。何をしてお戯れなのかは問いませんが、次の定期試験に響かせませぬよう」
左近が深く一礼して、口うるさいことを言う。
「へーへー。おんなじ講義4回も聞いてりゃ、余裕だっつーの」
銀螺がチョロリと舌を出す。重厚なドアが静かに閉められた。
―つづく―
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