第2話

 「うまい!」


 夜行列車の車両中に、烈生の闊達な声が響き渡る。


 「うまい!うまいッ!!」


 駅弁の美味さに、感動が止まらないのだ。


 「あ…あの、穂村。ちょっと、周りにご迷惑…」


 「うまいッッ!!」


 あまりの大声に、向かいの席で駅弁を広げる村田が、おろおろと注意するのだが、とても耳に入る様子はない。


 「…放っておけ。胸に仕舞うことなど、できん奴だ」


 烈生の隣で、月衛が文庫本で口元を覆って、小さく欠伸する。


 「いや、そうは言っても…。お前もよくこんなのの側で、うたた寝できるな…」


 村田の生き別れの妹から届いた短い電報。助けて、との訴えに、ミステリー研究会の総力をあげて取り組むべく、A県に向かう道中である。烈生は、“寝候”の銀螺も一緒に、と張り切っていたが、「やだね。俺ァ、シティー・ボーイなの」と言い置いて逃げてしまった。

 東京府からA県へは、汽車で丸一晩かかる。汽車の旅ともなれば、お楽しみは各地の特色溢れる駅弁だ。車窓の外に売りに来る弁当屋から、いそいそと何種類も買い求める烈生の横で、月衛は関心もなさそうに文庫本に読みふけっていた。そして、烈生の横から漬け物を少し戴いた後は、窓に寄りかかってトロトロとうたた寝し始めてしまったのである。


 「これの叫びは、俺の養分でな」


 呆れかえったような村田に、薄い唇の端で笑って、月衛はまた瞳を閉じた。




 朝靄たなびく駅で降りれば、そこは瑞穂町。小さな田舎町だが、一応、目抜き通りがあって、宿屋や町役場、郵便局などが並んでいる。麻田村は、この麓の町から山に入った奥にあるという。


 「腹が減ったな!朝飯を出すところはないのか!?」


 静かな町並みに烈生の声が響いた。通りの家の犬が吠え、雄鳥が対抗するかのように声を張り上げる。


 「うーん…俺も、実際に来るのは初めてで」


 村田が、きょろきょろと通りを見回した。


 「駅前の宿屋が、湯気を立てていた。頼めば、賄いでも食わして貰えるんじゃないか?」


 月衛の発案で、駅まで引き返す。宿屋を覗けば、ちょうど飯屋も兼ねているという。愛想のよい女将が、学生さんなら半額でよいと、飯をてんこ盛りにしてくれた。


 「ときに、女将!俺達は麻田村を目指しているのだが、ここからどう行けばよいのだろうか!?」


 烈生が、おかわりの飯椀を突き出す。


 「麻田村、ねェ…。随分と奥に行きなさるね。ウチの亭主が荷馬車を出しているから、それに乗っかって行くといいよ」


 女将が不思議そうな顔で、飯をよそう。


 「お菊という、十七になる娘がいるはずだが」


 月衛が茶を啜って問いかけた。


 「へェ、お菊、お菊ねェ…。あたしは麻田村へは行ったことないから、わからないけど」


 「あの!フキという女の娘で!俺、兄です。母…フキのことは何か、わかりますか?」


 村田が食い下がった。8歳で生き別れになった母は、もう顔もよく憶えていないが、ふとしたときに、歌ってくれた歌や抱き上げられた感触などを思い出すのだ。ちょうど、年の頃で言えば、この女将と同じくらいではないだろうか。


 「いいえェ…。麻田村の人達は、あまり麓には降りてこんのよ。村長さんなんかは時々いらっしゃるけど。女はねェ…山道も危ないし、村から出さんようにしているんじゃないのかね」


 3人が顔を見合わせる。随分と謎めいた村のようだ。


 少し陽が高くなる頃、宿屋の亭主が荷馬車を出してくれた。山道に入れば、うるさいほどの蝉の声が降ってくる。


 「ご主人は、麻田村へはよく行くんですか?」


 村田が、馬の手綱を取る亭主に話しかける。


 「そうさね…郵便を預かったり、ちょっとした買い物なんか代わってやったりね」


 「じゃ、じゃぁ…あの、お菊という娘のことは?」


 「さぁてね。カカアにも聞かれたが…。儂も、麻田村へは入口までしか行ったことないから」


 村田が、しょんぼりと肩を落とした。


 「…ご主人。麻田村からは、電報など打てるのか?」


 ふと気付いたように、月衛が問う。郵便を瑞穂町から運ぶということは、電報も町まで降りないと打てないのではないか。


 「いやいや、町に降りないと。村長さんからウチで預かることもあるがね」


 ふむ、と藍色の瞳が考え込む。すると、お菊は村長に頼んで電報を打ってもらったのだろうか?


 「お客さん方、学生さんだってねェ。麻田村へは、何か、学校の調べ物ですかィ?」


 今度は亭主が話しかけてきた。


 「いや、ここにいる村田の妹から、助けを求める電報が来たのでな!馳せ参じた次第だ!!」


 烈生が胸を張る。


 「へェ、助けを…。何だろうねェ、金でも足りなくなったか」


 「カネ?」


 村田が聞き返す。まさか、金の無心だとは思わなかったが。


 「ええ、ええ。麻田村は、もともと小さい寒村だったんですがねェ。ここ3年くらいで急に贅沢な物を頼まれることが多くなって。年頃の娘が好みそうな反物や小間物なんかもねェ」


 亭主は、面白くなさげに、馬に鞭を当てた。


 


 古ぼけた道祖神の前で、荷馬車は停まった。


 「この道をずーっと上がって行くんでさァ。いつもは、麻田村のモンがここまで出てくるんだが」


 亭主は、木立の間に伸びる細い獣道を指差した。礼を言い、駄賃を渡して、3人して獣道を見上げる。


「いよいよ、秘村といった風情になってきたな!」


 すっかり探検気分の烈生が、鳶色の瞳を輝かせて獣道に分け入る。村田も、さすがにここまでとは思わなかったようだ。ごめん、とかなんとかゴニョゴニョ言いながら斜面に踏み出した。


「…暗くなる前に着ければいいんだがな」


 月衛が溜息をついた。


 獣道を追って、斜面を上がること1時間。唐突に目の前が開ける。峠の眼下には畑や瓦葺きの民家が並んでいた。


「ここが…麻田村…」


 ここに、母と妹がいるのか。村田は逸る気持ちを抑えられない足取りで、峠を駆け下りる。


「あの、すみません!麻田村の人ですか!?」


 ちょうど、畑道具を担いだ大柄な男達が先を歩いていたので、最後尾の男に声を掛けた。男は振り向きもしない。追いついた烈生と月衛が、並んで歩き出した途端。


「オ…アアアアアア!!」


 男が雄叫びを上げ、月衛に飛びかかった。細い身体を地べたに押し倒して、馬乗りになる。


「およしっ!ロク!!こっちに来な!!」


 風を切る音と共に、男の背に鞭が鳴る。男が悲鳴を上げて、月衛を解放する。駆け戻った先には、長鞭を携えた女がいた。


「あんりゃァ…。女子と間違えたんね。すみませんねェ」


 村田がホッと息をつく。どうやら、話が通じるようだ。




「へェ、お菊の兄さん」


 村長の片江兵衛門が、ゆったりとキセルを吸う。長鞭の女が案内してくれた村長宅では、突然の来訪者に驚きながらも、座敷に上げて茶や饅頭を振る舞ってくれた。


「はい、東京から出戻ったフキの息子です。母は、妹は元気に暮らしているでしょうか」


 村田が、身を乗り出さんばかりに尋ねる。


「へェへェ、出戻り女のフキ。フキは、もう三月ほど前に亡くなりましてね」


 村長が、灰吹きをポンと打つ。


「お菊は、1人じゃ暮らせんから。ウチで預かっとります」


 月衛が、ちらと庭に目をやる。もうだいぶ陽は傾いてきている。薄暗がりの夕闇の中、大仰な山水の岩陰にヒョコッと何かが隠れた。


「お客さん、客間が用意できましたよゥ」


 長鞭の女が廊下から声を掛ける。どうやら、村長宅の女中のようだ。3人が荷物を持って、女の案内についていく。女はシヅと名乗った。


「さっきは、すみませんねェ。びっくりなさったでしょう」


 月衛を労るようにシヅが声を掛ける。


「あれは…村の男か?尋常な様子ではなかったが」


 あのような巨体で暴れられてはかなわない。


「いいえェ、あれは人じゃありません。“ふくご”ですよ」


 シヅがホッホッと笑った。


「…“ふくご”?」


 月衛が瞳を瞬く。


「ええ、妖怪です。普通は、雄は生まれてすぐにタマを抜いてしまうんだけども、あれは力仕事用でタマを抜いとらんものだから、気性が荒くて」


 村田と烈生も、目をぱちくりさせる。


「でも、悪さできんように、サオは切ってありますからねェ。大丈夫ですよ」


 3人を客間に案内したシヅは、そう言い置いて襖を閉じてしまった。




「不思議な…。妖怪を使って力仕事とは!?」


 烈生が、鞄から浴衣を取り出す。麻田村には宿屋はないそうで、村長宅に泊めてもらえることになったのだ。


「まぁ…妖怪や狐狸の類いが、人に実りをもたらす伝承はよくあるが」


 月衛が応じる。だが、あくまで伝承であって、今現在進行中の話など聞いたこともない。


「でも、妖怪って…、並みの人間に見えるモンなのか?なんか、こう、霊能者とかじゃないと」


 村田が首を捻る。


「さてな。少なくとも、伝承では妖怪に出くわすのは“並みの人間”が多いが」


 月衛が、しらっとした顔で混ぜっ返した。のっぺらぼうに会って、ひっくり返ったり。一つ目小僧に仰天したり。河童と相撲を取ったり。鶴の精と結婚したり。妖怪は、常に人の世のすぐそばにいる。


「…サオとタマ…って、やっぱり」


 村田が、ブルッと身を震わせた。男としては身に迫る話だ。


「まるで家畜の話をしているようだったな」


 牛馬なら、去勢すれば大人しく、扱いやすくなるし、肉も柔らかくなる。繁殖に使うのでもなければ、生まれてすぐ去勢するのも不思議はない、が…。

 藍の瞳がじっと考え込んだ。


 


 虫の声が微かに聞こえる。お菊はもう休んでいるとのことだったので、村田との面会は翌日になった。母・フキの墓参りもしなくてはならない。忙しくなることを見込んで、夕食と風呂をもらった後、3人は早々に布団にもぐった。


「…月衛」


 電灯も何もない、鼻を摘ままれても分からぬような暗闇の中、烈生が囁くように呼び掛ける。


「あれは…何だ?妖怪など、実在するのか?」


 まるで牛馬のような扱いだが、二本脚で歩き、シヅの言葉も解しているようだった。


「…わからん。妖怪にしても未知の生物にしても、人の見聞きできるものなど、森羅万象のごく一部だ」


 月衛が呟く。博覧強記の月衛にしても、“ふくご”など初耳だ。

 烈生の手が、月衛の布団にもぐり込んで、細い手を握る。こんな摩訶不思議な話を聞かされると、神島で聞いた話を思い出す。月衛が今にも黄泉国に引きずられていくような気がした。


「烈生、村田が」


「わかっている…」


 ひんやりとした手の甲に、熱い唇を這わせる。


「接吻だけだ」


 まるで生者の印をつけるように、月衛の手から手首、腕へと唇で辿っていく。にじり寄ってくる、烈生の気配。手探りで月衛の肩を辿り、襟を見つけると、合わせから浴衣の中に侵入した。月衛の肌をまさぐる掌の温み。弾力のある唇が、首筋を這う。


「…ッ…」


 思わず零れそうになった喘ぎを、浴衣の袖で押さえた。烈生の溶け込んだ暗闇は、月衛の全身を包み、肌を貪る。


 ――よくよく、接吻の好きな奴だ。


 あの夜を思い出す。甘い闇に陶然と溶け堕ちながら、月衛が微笑んだ。




 机上の灯りが揺れる。穂村邸の書斎では、弱冠17歳の当主代理と書生が揃って夜なべしていた。酒浸りでアテにならない父に代わって、穂村家の資産状況を確認しているのだ。


「月衛!こっちの株式の損益計算を…」


 烈生が振り向くと、月衛は椅子に沈み込み、うたた寝していた。そういえば、さっき、後ろで「少し休む」と言っていたのだ。作業に夢中になって、生返事を返したまま忘れていた。


 ――すまないな。君にまで、こんな苦労を。


 十二で穂村家の書生となった親友。1年遅らせて烈生と同じ中学に入学して以来、片時も離れたことはない。中学を卒業する頃、烈生の母が他界した。傷心から立ち直れない父に代わって、葬儀を取り仕切り様々な手続きをこなしたときも、月衛は快く手伝ってくれた。今では、家の整理に専念するため、高等学校への進学を遅らせた烈生に付き合って一緒に進学を遅らせ、膨大な事務作業を夜なべしてまで手伝ってくれている。

 烈生が、立ち上がって月衛の側に寄る。白い頬にかかる、艶やかな黒髪。白皙の顔立ちに長い睫毛が影を落としている。薄く、可憐な唇。

 震える指が月衛の唇に触れた。


 ――少しだけ。一度だけなら。


 親友の、白いうなじや細い腰に目を奪われるようになったのは、いつ頃だっただろうか。月衛はもともと食が細くて小柄な少年だったが、東京に出てきた後もそれほど身体は大きくならず、ほっそりと優婉な青年に育っていた。父に似た烈生が、精悍に育ち上がったこともあって、今や、月衛の身体は烈生の腕の中にすっぽり収まるようになった。じゃれあって抱きかかえると、その華奢さにクラリとする。一緒に風呂に入れば、滑らかな肌に釘付けになる。

 月衛が目を覚ます様子もないので、もう一度、唇に触れた。微かな吐息が漏れるのを指先に感じて、ぞくりと烈生の胸が震える。


「月衛…」


 思わず名を呼んだ声は、熱っぽく掠れていた。親友は、こんな悪戯を多目に見てくれるだろうか。艶めく唇に、そっと己の唇を重ねる。

 もう、一度では済まなかった。月衛の唇を味わい尽くすように、角度を変え、何度も唇を押し付けた。


 ――月衛…嗚呼!


 こんなこと。気位の高い月衛は、きっと怒るだろう。潔癖な君は、俺を軽蔑するに違いない。しかし、出口を見つけた情熱は、止まることなく迸る。


 初めは、何をしているのだろうと思っていた。夢うつつの中で、烈生の指の温もりを感じた。指はすぐに唇に変わった。何度も熱い唇が押し付けられる。烈生の食らいつくような吐息を感じて、身体の芯が甘く震えた。躊躇いがちな手が月衛の襟を広げ、首筋に吸い付いた。裾を割り、肌をまさぐられて、ようやく烈生がしようとしていることが飲み込めた。


 するりと、白い腕が烈生の首に巻きつく。


「もう…焦らすのは大概にしてくれ、烈生」


「君…起きて…!?」


 顔面蒼白になって顔を上げた烈生の視界の中で、藍色の瞳が微笑んでいた。愕然と開いた半開きの唇に、月衛の唇が重なる。薄い舌が、烈生の舌を誘い出すようにつつく。ハッとした烈生が、情熱のままに月衛の身体を掻き抱いた。


「好きだ、月衛!君のことが…好きだ!」


 むしゃぶりつくように、月衛の唇を割り舌を侵入させる。なすがままに受け容れる舌を、口蓋を愛撫し、涎を吸った。首筋に唇を這わせると、月衛が甘い声で喉を鳴らす。薄紅色に上気した肌が、大きく上下して喘ぐ胸が、烈生を狂わせた。身体に溜まっていく熱が、出口を求めている。はち切れんばかりに膨らんだそこに、月衛がしなやかな手を這わせた。


「辛いだろう…」


 手は、しばらく躊躇うように烈生を撫でていた。月衛は、烈生の情欲に以前から気付いていた。鳶色の強い眼差しは、質量さえ伴うかのように月衛の肌を焦らす。いつしか、烈生から求められたら応じようと心を決めていた。

 月衛の手が乱れた着物を脱ぎ、褌を解いた。烈生を促して椅子から立ち上がる。白く滑らかな肌が電灯の灯りに揺れる。


「君が良ければ、俺の身体を使ってくれ」


 椅子の背に掴まって、白い尻が差し出された。


「いや…しかし…」


 戸惑う烈生に、振り返った薄い唇が微笑んだ。


「大丈夫だ。まだ誰にも触れさせていない」


 藍の瞳が、羞じらうように伏せられる。


「君だけのものだ…烈生」




 あの夜、破瓜の歓びに身体を震わせ、何度も大事な男の名を呼んだ。やがて、金色の波に洗われるような陶酔がやってくる。滲む赤い標に慌てふためく烈生が、愛おしくて堪らなかった。


「君!怪我を…すまない!!」


 ハンカチーフを!と思ったが、しまった、机の上である。


「気にするな。葡萄酒の封を切ったようなものだ。清潔にして膏薬でも塗っていれば治る」


 月衛が懐紙を出して、軽く拭った。まだおろおろと落ち着かない様子の烈生を、たおやかな腕がふわりと抱きしめる。


「君の手によって封切りされたこと…とても嬉しく思う」


 はにかむような微笑みに、感極まった烈生が何度も口づける。想いが通じた、と思った。




「…なんか寝覚が悪い」


 村田がゲンナリと布団を畳む。麻田村にようやく到達した昨晩は早寝して、しっかり休んだはずなのに。


「運動不足じゃないか?烈生が表で素振りするとか張り切ってたから、一緒に薪でも振ったらどうだ」


 月衛がシラッと進言する。


「いや、どんだけ朝起き鳥だよ…」


 朝型の烈生は、夜明けとともに元気に村を走り込み、村長宅の庭で木刀を振っている。毎朝の日課だ。


「おはよう!村田!!どうした!?元気がないぞ!!」


 逞しい上半身を手拭いで拭きながら烈生が客間に戻ってきた。


「なんか、よく眠れなくて」


「運動不足じゃないか!?そんな顔色では、妹御に心配をかけてしまうぞ!!」


 そう、今日は、妹・お菊に会うことになっているのだ。電報の真意も確かめなくてはならない。村田はパシパシと自分の顔を叩いて気合を入れた。




 村長が案内したのは、納屋のような一室だった。閂が掛かっている。


「お会いして、びっくりなさるかもしれんが」


 一言言って、閂を外す。戸を開けると、部屋の隅にうずくまっていた娘が、とろりと顔を上げた。


「はァ、なんというか…いつまァでも幼い娘で。1人で外には出せんのですよ」


 村田の顔を見ると、娘の夢うつつのような瞳に光が入った。


「にいに!」


 ぱあっと笑って、飛び出してくる。人目も憚らず、村田に抱きついた。


「お菊!お菊か!にいにだぞ。お前の兄ちゃんだ!」


 村田も涙を流して、お菊を抱きしめる。


「なんとまァ…人見知りのお菊が…。これが切っても切れぬ血の繋がりなんでしょうかねェ」


 村長は、あっけに取られている。


 ――しかし、これは…


 月衛と烈生が顔を見合わせた。




「うん、少し精神遅滞があるんだ」


 月衛の問いに、村の小道を歩きながら、村田が苦笑いする。目を離さないからと村長を説き伏せて、お菊を散歩に連れ出したのだ。お菊は嬉しそうに花を摘んだり、虫を追ったりしている。


「お菊は言葉が出るのが遅くて。精神遅滞だって診断を受けたもんだから、そんな子供は家の血筋には要らないって祖父母が逆上してさ。母も、それで離縁させられたんだ」


 祖父母と父は、跡継ぎの村田だけを手元に残し、お菊とフキを追い出した。


「でも、ま…面倒はちゃんと見てもらえてるみたいだし、良かったよ」


 ちゃんと清潔な着物を着て、飢えている様子もない。納屋に閉じ込められていることは気になるが、監護のためとあっては仕方がないかもしれない。


 トンテン、カンテンと釘を打つ音が聞こえてきた。目をやれば、鳥居が見える。覗いてみると、壮年の男が何やら指示しながら、金太郎のような前掛け一枚の者達に材木を運ばせたり、組み上げたりしていた。どうやら、夏祭の支度をしているようだ。


「ほう!祭があるのか」


 烈生が顔を輝かせた。


「あれも、“ふくご”かね?」


 前掛けの者達を指して、月衛がお菊を振り返る。


 お菊が、村田の後ろにモジモジと隠れながら、頷いた。


「…まえかけは、“ふくご”なの」


「そうか、合点がいったよ。ありがとう」


 月衛が柔らかく微笑みかける。お菊も、はにかみながら微笑み返した。どうやら嫌われてはいないようだ。

 村内を散歩していると、実にいろいろなところで“ふくご”を見かけた。畑仕事や荷運びなどをさせられているモノは、大柄で雄。だが、庭掃除を手伝ったり、台所を手伝ったりしているモノは大抵、小柄で、身長は1m前後といったところ。絶えず頭を振っていたり、ゆらゆらと左右に揺れながら歩くなど、それぞれに癖があるようだ。監督する村人の方は、腰から鞭を提げていて、ぼんやりしたり、作業を放り出して虫を追ったりする“ふくご”がいると、鞭を鳴らして聞かせたり、叩いたりする。その代わり、うまく作業ができれば、角砂糖の欠片をやるのだ。


「ふむ…妖怪を使役する村…か」


 月衛が興味深げに呟いて、帳面に観察記録を書きつけた。


「喉が渇いたな!水でも貰おう」


 烈生の発案で近くの民家に入った。縁側から声を掛けると、老婆がニコニコと快諾し、ラムネを出してくれた。月衛、烈生、村田、お菊の一同が、縁側に座って、ほうと一息つく。

 よく晴れた日で、蝉の声がシャンシャンと降ってくる。白い夏日の中を、蜻蛉が、つい、と通り過ぎた。


「…こういうところで、ゆったり暮らすのがお菊には合ってるかもなァ」


 村田が呟いた。来てみるまでは心配でたまらなかったが、実際に見てみれば、村は豊かで人々は親切だ。


「お客さん方、東京の学生さんだってねェ。お祭のこと、調べに来たのかェ」


 老婆が興味深げに話しかけてくる。


「そうだな…。“ふくご”について、いくつか聞きたい」


 月衛が帳面を開いた。ミステリー研究会の名目は「遠征取材」である。後で報告書を提出しなくてはならない。


「へェへェ、よろしいですよ」


 老婆が身を乗り出す。


「まず、“ふくご”はどうやって連れてくるのか?山で捕まえたり?」


 ホッホッと老婆が笑う。


「“ふくご”はねェ、“ふく姫”様がお産みになるのさ」


「“ふく姫”…とは?」


「鎮守の森の、ずっと奥にいらっしゃってねェ、村に福をお産みくださるんだよ」


「夏祭は、その“ふく姫”様の祭か!?」


 烈生が尋ねる。


「そうそう。今年は、“ふく姫”様の代替わりの年でねェ。特に大きい祭だよォ」


 老婆がニコニコと付け加えた。


「代替わり…ということは、“ふく姫”様は想像上の女神じゃないんだな?巫女のようなものか?」


 月衛が確認する。


「ええ、ええ。20年に1ぺんくらいかねェ。代替わりなさるのさ。そら、新しい“ふく姫”様は、お菊なんだよ」


「え…」


 3人の視線がお菊の顔に集まった。お菊は、ぎこちなく微笑んだ。




 遅い午後の陽が赤みを増してきた。畑を引き揚げる村の人々とも、何人かすれ違った。そろそろ村長宅に戻った方がいいだろう。


「お菊が巫女かぁ…」


 村田が放心したように呟く。


「しかし…。お菊に精神遅滞があることは村人も分かっているだろうに。20年も森の奥で神事を司るなんて、できるんだろうか?」


 烈生が、月衛に問いかける。


「“さにわ”が付くんじゃないのかね」


 月衛が小石を蹴飛ばしながら応えた。


「“さにわ”?」


 村田が聞き返す。


「ああ。“審神者”…依代に神を降ろして神託を受ける。その神託を解釈する係の者さ。“ふく姫”様はおそらく、依代なんだろう。何か障害がある者を“神の領域に近い”と解釈して依代にする事例はよくあることだよ」


「そっか…。まぁ、でも重要な役目だろ?よかったな、お菊。がんばるんだぞ」


 村田がポンポンとお菊の肩を叩く。巫女ともなれば、気軽に会うことはできなくなるかもしれないが、村人に敬われて、お世話もしてもらえるなら幸運なことだ。


「…いや…なの」


 お菊がぽつりと呟いた。


「ふくひめさま、いやなの。けむりをはいて、こわいの。にいにといっしょに、かえりたい!たすけて!にいに!!」


 ぎゅう、と村田の手を握る。


「お菊…」


 村田が困ったように、お菊の頭を撫でた。東京に連れ帰って何ができるだろう。村田が職について自立しているならともかく、今は学生の身だ。一緒に暮らす祖父母も父も継母も、お菊を受け容れるとは思えない。何も言えなくなった村田を見つめていたお菊の瞳から、涙が零れ落ちた。村田には、わんわんと泣きじゃくり始めたお菊を抱きかかえて、背中をさすってやることしかできなかった。




 村長宅に戻ると、風呂の用意の真っ最中だった。水汲みや薪割り、火の加減まで。“ふくご”はくるくるとよく働く。シヅから角砂糖を貰うと、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


「やぁ!働き者だな、君達は!」


 烈生が“ふくご”に声を掛けると、”ふくご“は、さっとシヅの後ろに隠れてしまった。


「あんらァ、すみませんねェ。仕事中は余計なことしないよう、躾られてるもんですから」


 シヅが苦笑する。


「随分と難しい作業までこなすんだな。躾には時間がかかるのか?」


 月衛が帳面を広げる。


「ええ、まァ。コレはもう、十六歳になります。生まれてから便所の躾なんかして、簡単な作業から始めて。憶えにくいのも憶えやすいのもいますけど」


 どうやら、使いながら仕込んでいくようだ。


「“ふく姫”様から生まれる、と聞いたんだが」


「ええ、ええ。“ふく姫”様は、この村に福を産むんですよ。立派な家も、美味い飯も、綺麗なべべもねェ。“ふく姫”様のおかげで」


「ふ…ん、なるほどね」


 月衛が相槌を打って、帳面に書きつけた。




「しかし、ますます不思議だな!人間の巫女が、妖怪やら家やら飯やら着物やら産むとは!」


 風呂や夕食を終え、客間に戻った3人が文机を囲む。烈生が口火を切った。


「象徴的な意味だろう。ただ、不思議と言えば、この村そのものが不思議だ」


 月衛が、くるりと鉛筆を回した。


「村中歩き回ったが、基幹産業がよくわからない」


「産業って…農業じゃないのか?A県は米所だし、村内には畑や田んぼもあったし」


 村田が戸惑いがちに応える。


「いや、家の軒数を見る限り、あの規模じゃ自給自足できる程度だ。余所に売りに出せる収穫があるとは思えない」


「外との流通はないんじゃないか?町にも滅多に降りてこないという話だったし」


 烈生が腕を組む。


「それじゃぁ、立派な造りの家々も、洒落た着物も説明がつかない。どうにかして金を稼いで、建材を運んで、大工を呼んで…物流がないと説明がつかないんだ」


 月衛が鞄から地図を出して広げる。


「地図なんて持ってきてたのか?ここが瑞穂町で…うわ、麻田村、地図にも載ってないんだな」


 村田が覗き込んだ。山の麓の瑞穂町までは地図に載っているが、その後ろの山間部分をいくら見ても、麻田村の記載はない。


「…そう。地図にも載っていない、駐在もいない、郵便のような行政も入っていない…」


 月衛が、帳面の隅で何やら計算を始めた。地図に定規を当て、補助線を引いていく。


「日の角度から見れば、この辺りか…」


 地図上に×印をつける。ここが、麻田村だ。月衛が、今度は帳面をめくって新しい頁を出す。


「村内の地図を作ろう。俺達が歩き回った範囲と…。烈生、君が朝、走り込んで見たものを教えてくれ」


 だいたいの方角を決め、道や目印を描き込んでいく。


「…なるほどな」


 出来上がった地図を突き合わせて、月衛が独り言ちた。


「村田!ミステリ研は今晩、肝試しに行くが」


 月衛の瞳が悪戯っぽく光る。


「え…っ。俺はいいよ。小学校の合宿じゃあるまいし」


 村田が迷惑げに頭を振る。


「ああ、助かるよ。布団の下に適当な物を詰めておくから、家の者が来たら誤魔化しといてくれ」


 ますます、小学校の合宿じみてきた。


 


 電飾が明々と輝く看板の下を、思い思いに装った人々がそぞろ歩く。闊歩するモダン・ガール、モダン・ボーイの中で、深いワイン・レッドのシャツで決めた銀螺は一際、目立っていた。白皙の美貌に一筋の銀髪をさらりと揺らして、キャバレーのドアをくぐる。フランス・スタイルのショウを披露するナイトクラブだ。受付で二言、三言伝えると、ギャルソンが丁重に桟敷席に案内した。

 ダンス・ショウを徒然と眺めながら待つこと15分。銀螺の隣に、ひげを蓄えた老紳士が腰掛けた。


「よゥ、左近。繁盛しているようだな」


 銀螺がニマッと笑って、葉巻を吹かした。


「頭領のおかげさまで」


 老紳士は慇懃に応える。


「よせやィ、忍稼業は親父の代でお終いだっつったろ。俺は頭領でも何でもねぇ、一学生さんよ」


「学生が、こんな盛り場で遊び回って、6年も高等学校に居座るのはどうかと思いますがね」


 左近がひげの下で微かに笑う。


「てやんでェ、俺はセーシュン取り戻しに学校行ってんの。でも、そうさなァ…彼奴らと一緒なら、進学しても面白ェかもな…」


 ふと、微笑って、灰皿に葉巻を置いた。


「お友達ができたのなら、結構なことでございます。して、一学生さんの御用の向きは」


 左近が、おしめの頃から見守ってきた若だ。元気にやっている様子が可愛くて仕方がない。


「おぅ、そのお友達から、ちぃっと面倒なコト頼まれてな」


 ポッケから出した封筒を、ひらひらと左近に振ってみせる。左近が眼鏡をかけて手紙を取り出した。


「大陸北部の阿片流通について」


 左近の目から笑みが消え、銀螺の瞳に光が差した。




 ―つづく―

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