宵どれ月衛の事件帖:ふくごの郷

Jem

第1話 

 「神之屋かみのや月衛つきえ?ああ、憶えているよゥ。島の神社の息子でね。…神社、あの、崖のとこの。今ホテルの。あれ、全部、神社の屋敷だったのよゥ。…だだっ広いにゃァだだっ広いが、蛇憑きの家じゃ言うて。女しか生まれないの。女ばっかり…そんなとこに生まれた長男だったからさァ。身体が弱いゆうて、もう、外にも出さん。薄暗ァい屋敷の中にね。毎日薬湯飲ませて、精が付くゆうたら何でも食べさせてねェ。毎日。…どうなったかねェ。あの子、どうなったか。島の誰も知らないよォ。…戦争の時分には、もう島にいなかったが。帰ってきたゆう話も聞かなかったしねェ」(1968年8月3日、古老・中野ヨシ語る、神島調査)




 どこまでも続く畳を憶えている。家の中は、いつも薄暗く、ひんやりとしていた。おおよそ、子どもを楽しませるものなんてなかったんじゃないだろうか。玩具も友達もなく、月衛は、日がな一日、家の書庫で古文書に読みふけって育った。

 十二の歳に、大祭があった。跡継ぎである月衛を神にお披露目するだとかで、一族の女達は何日も前から張り切って支度していたものだ。


 「――月衛。また、ここにいたのですか」


 白い肌が暗がりに浮かび上がるような女だ。艶やかな黒髪を夜会巻きに結い上げ、細かな螺鈿細工の入った鼈甲の櫛を挿していた。贅をこらした煌びやかな着物は、わざわざ京都の老舗から取り寄せた逸品である。


 「母様」


 土蔵の窓辺で文書を読んでいた少年が、鬱陶しげに横髪を耳に掛ける。母親とそっくりの艶やかな黒髪、白い頬。冷ややかな眼差しまでよく似ている。


 「今日は、大祭にお招きしたお客様がいらっしゃると言ったでしょう。応接間に来て、ご挨拶なさい」


 月衛が従うことを疑いもしない様子で、母親は踵を返して書庫を出た。実際、食は細いが、毎日飲まされる苦い薬湯も素直に飲み、外へ出たいと駄々をこねることもない。物わかりのいい少年であった。


 「…派手な櫛」


 母親の後ろ姿に聞かせるように、月衛が呟く。そして、フーッとこれ見よがしに溜息をついて、文書を閉じた。

 

 応接間は、畳間に絨毯を敷いて洋風にしつらえられている。背広姿の男が紅茶を啜る。獅子のような、暗赤色の髪。強く射貫くような眼差し。背広の上からでも分かる、精悍な体つき。月衛を従えた母親が襖を引くと、長椅子から立ち上がって一礼した。


 「ヌエ殿。この度は、大祭にお招きいただき、光栄でございます。本来ならば、本家の恋河内が伺うところでございますが、都合が付かず、分家の私が名代として参りました」


 ――華族様だとか言ってたか。


 月衛の深い藍色を帯びた瞳が、無遠慮に男を観察する。


 「いいえ!穂村様においでいただけて、ほんに嬉しゅうございますわ。12年に一度の大祭でございますの」


 ――母様好みな男。


 なるほど、着物も櫛も派手なわけだ。一際、高い声を出してはしゃぐ母親を、隣の椅子に腰掛けた月衛が冷たく見遣った。

 月衛は父の顔を知らぬ。神之屋の家は女所帯で、代々、長女が婿を取って当主に充てていた。婿はたいてい短命で、月衛の父も早くに亡くなっている。女ばかりの家で贅沢奔放に育ったヌエは、不貞な本性を隠しもせず、息子の眼前で男を家に引き込むことも、しばしばあった。


 「明日の大祭まで、お世話になります。こちらは、長男の烈生」


 男とそっくりの髪色をした少年が、父の隣でピッと背筋を伸ばす。


 「穂村ほむら烈生れつおです!お世話になります!」


 お辞儀と共に、闊達な声が響く。


 「ほほ…元気な坊ちゃんだこと…。羨ましゅうございますわ。うちのは身体が弱くて」


 陽射しのようだ、と月衛は思った。明るく、強く人を照らす。


 「こちらが、うちの長男で。月衛と申しますの」

 

 「…神之屋月衛です。よろしくお願いします」


 最小限の挨拶をして頭を下げる。緩くまとめた長い黒髪が、はらりと肩を包んだ。烈生の利発な眼差しが、真っ直ぐに月衛を捉える。顔を上げた月衛と目が合うと、パッと笑った。


 「父上!月衛君と遊んできてもいいですか!?」


 歳の近い子供がいるとなると、もうウズウズして仕方がない。誠之輔は、きらきらと瞳を輝かせる息子を愛おしそうに眺めた。


 「ああ。夕飯の頃までに戻っておいで。月衛君は身体が弱いそうだから、無理をさせないように」


 構いませんか、と精悍な笑顔を向けられたヌエは、一も二もなく頷いた。好い男を前にして、子供がいては邪魔くさい。


 「行こう!月衛君!」


 烈生に手を引かれ、わけもわからないまま月衛も立ち上がった。

 来る時に見た見事な池。鯉や鮒でもいるのではないか。大きな松の木も見えた。あの木に登って、遠くを見たい。月衛は相撲をとれるだろうか?烈生は、ワクワクと玄関へ向かう。


 「あの、烈生君」


 月衛の細い声に、烈生が振り向く。


 「月衛は外に出ないように言われていて」


 烈生が大きな鳶色の瞳を瞬かせた。


 「じゃあ、家の中で遊ぼう!君、メンコはできるか!?」


 小学校で流行っているのだ。


 「めんこ…?」


 「面白いぞ!…持ってないのか?」


 ならば。


 「剣玉はどうだ。勝負しよう!」


 「けんだま…?」


 ビー玉も双六もベー独楽もないと言う。要領を得ない月衛の様子に、烈生は困り果てた。


 「君、普段は何して遊んでるんだ?」


 問われた月衛が、軽く首を傾げた。


 「文書を読んでいる…ずっと」


 …もの凄く、つまらなそうだ。腕組みして天井を仰いだ烈生が、にぱっと笑って声を潜めた。


 「こっそり、庭を探検しよう。子守のねえやに見つからないように」


 忍者ごっこだ。少年雑誌で読む冒険小説みたいでワクワクする。その笑顔をしばらく眺めて、月衛がコクリと頷いた。庭なら屋敷の中だし、言い訳も利くのではないかと思ったのだ。何より、今まで感じたこともないほど胸が高鳴っていた。

 



 外の陽射しに、月衛が目をすがめる。まだ残暑の残る時期で、温暖な島の地面を灼きつけるような太陽が照らしている。


 「月衛君!池まで競走だ!」


 烈生が弾けるように走り出す。


 「え?ま…待って…」


 つられるように、月衛も走り出した。白く灼ける光の中で、紅い髪が揺れている。子供らしい、活発な笑い声。半袖のシャツからのぞく腕も、半ズボンから伸びる脚も、健康そのものだ。


 「烈生君…」


 夢中で追いかける月衛が、白い手を伸ばす。息が上がる。ぐわんぐわんと、銅鑼を鳴らすような頭痛。脚がもつれる。ついに、ガクリとその場にへたり込んだ。


 「月衛君!!」


 倒れ込む音で気付いた烈生が駆け戻ってくる。


 ――父上に、無理をさせるなと言われたのに!


 子供ながらに、自分の迂闊さを悔やんだ。


 「月衛君――…」


 おろおろと月衛の背中をさする。いったい、どうすればよいのか。腹が痛いわけでもなさそうだ。月衛の青ざめた顔を見ているうちに、虚弱な質の母親が、疲れすぎると熱を出すことを思い出した。ばあやのおフジは、そんな時にどうしていたか。


 「月衛君、こっちへ!」


 月衛を助け起こし、木陰へ連れていった。月衛が、息も絶え絶えに木の根元に寄りかかる。


 「待っててくれ!今、水を汲んでくるから」


 走る途中で見かけた井戸の方へ駆けていく。硬いポンプを、力を込めて押し、桶いっぱいに水を汲んだ。おフジは、手拭いを水に浸して母のおでこに乗せていた。手拭いはないが、ちょうどポッケにはハンカチーフが入っている。


 「月衛君!」


 ぜいぜいと荒い息の下から、呼ばれた方に目を向けた。烈生が桶を提げて走ってくる。陽射しの中で金色に輝いて――…月衛の目の前で石に蹴つまずいて、すっ転んだ。桶ごと。


 「うわあぁぁぁ!ごめん!!月衛君!」


 慌てて起き上がると、頭から井戸水をぶっかけられた月衛が、ずぶ濡れで目を丸くしている。


 「ごめん!ハンカチーフを…」


 ポッケから小さなハンカチーフを取り出して、黒髪を拭う。びしゃびしゃになったら絞って、また拭って。とても間に合いそうにない。

 ふ…と月衛が笑い出した。


 「いいよ。もう大丈夫だ。“落ちた”から」


 「“落ちた”って?何が…」


 怪訝そうな烈生の目の前で、藍色が微笑んでいる。月衛が猫のように伸びをした。本当に、具合が良くなったようだ。


 「…なんでもない。元気になったって事だよ」


 それでも。こんなにずぶ濡れでは、ねえやに叱られるのではないか。烈生は、申し訳なくて、どうしようかと考えを巡らせた。


 「そうだ!月衛君、木に登ろう!」


 パッと鳶色の瞳が輝く。


 「は?え…?」


 なぜ木に登るのか。登ってどうするのか。


 「木の上だと風がよく当たるんだ。着物を乾かそう!」


 言うなり、烈生は松の木に飛びついた。するすると幹を登り、目の高さほどの枝の上から手を伸ばす。


 「月衛!」


 木漏れ日の中で、眩しい金色が輝いている。白い手が、血色の良い手を握る。幹のこぶに足をかけて、ぐ…と力を込めてみた。一歩、また一歩。烈生に手を引かれて辿り着いた天辺の枝には、たしかに涼やかな風が吹き抜けていた。


 「思った通りだ!海がよく見えるな!!」


 烈生が、はるか水平線を見晴るかす。マドロス船の船長になった気分だ。


 「海…」


 月衛が呆然と呟く。塀の向こうなど見たこともなかった。“海”だって書物の中でしか知らない。まさか、自分の住む屋敷のすぐ側に、こんなに雄大にうねる“海”があるなんて。初めて見る本物の海は、晩夏の陽を受けてキラキラと輝いていた。


 「烈生は、海の向こうから来たのか?」


 月衛が、潮風に乱れる髪を押さえながら尋ねた。


 「ああ!この島には、父上と船に乗ってきた!海の向こうの、本土から」


 毎日、遙か遠い外国から船がやってくる港。数え切れない人々が往き来する駅。父と啜った蕎麦。沢山の子供が集まる学校。級友との体育の時間の楽しさ。友達と珍しい柄のビー玉を交換したこと。メンコに夢中になるうちに遅くなって、探しに来たおフジにこっぴどく叱られたこと。でもおフジの作る弁当は凄く美味しくて…。烈生が話す本土の話は、月衛には夢のような話ばかりだった。


 「いいな…。月衛も、本土に行きたい」


 烈生が鳶色の瞳をぱちくりさせる。


 「次は、君の島の話を聞かせてくれ!学校は?どんな友達がいるんだ?」


 無邪気に輝く瞳の中で、月衛が寂しげに頭を振った。


 「知らないんだ。何も。家の外には出たことがない」


 困った。玩具もない、学校もない、友達もいない暮らしなんて、烈生には想像もできない。


 「じゃぁ、明日の大祭の話を聞かせてくれ。父上から君が主役と聞いた。楽しみだな!」


 神社で祭。小さい頃に祝ってもらった七五三を思い出しながら問うた。


 「そう良くもないよ。黄泉国への一里塚だ」


 「よみのくに…?」


 今度は、烈生が問い返す。お話に出てくる、死者の国。


 「でも…君は大人になったら、この神社の神主になるんだろう?明日はそのお披露目だって」


 真新しい着物を着て、赤飯を炊いて、御神酒を飲んで。烈生の七五三は、父も母も使用人達も嬉しそうに祝ってくれた。


 「…君、“一年神主”って知ってるか?」


 藍色が、ちろりと、烈生の健やかな頬を見遣る。


 「うん、神様のお世話をする当番の氏子だろう?お供えをしたり、神社の掃除をしたり」


 「現代はね。でも元々は、一年、身を清めてお世話した後、翌年の祭で神に捧げられる。生贄のことだよ。月衛もそうだ。この家の当主は、皆、短命でね」


 月衛が、ふんと鼻で嗤った。この家の薄暗い廊下は、長く長く、黄泉国に繋がっている。


 「まさか…この現代に…?」


 烈生が呆然と呟いた。


 「十二の大祭でお披露目。二十四の大祭で当主になる。そして、子を為したら三十に満たず、あの世行き」


 まるで歌でも歌うように、月衛が数え上げた。書庫には代々の当主が記した記録が収められている。祭の司り方、その年の事件、日頃気付いたことなど。日記のようなものなのだが、その記録は、皆、二十代で途切れている。


 「だって…神社だろう?神様がそんな非道なこと」


 握る手は細くひんやりとしていて、本当に黄泉国へ行ってしまいそうな気がして。なんとか、出会ったばかりの友達を元気づけたかった。


 「神社なんて、後付けで建てたものだよ。文書によれば、うちは神社を建てる前からずーっと、この島で蛇を祀ってきた。始まりは巫女のようなものだったのかもしれないが、そのうち忌み嫌われるようになってね。今では蛇憑きの家だなんて噂されている」


 出入りの業者や、頻繁に入れ替わる使用人達の噂話。子供は意外なところで聞いているものだ。

 烈生は、何も言えなくなって月衛の手を握りしめた。そっと見遣った白い頬が、お月様のようだと思った。




 貴賓席に父と並んで座る烈生の眼前で、錦の稚児装束が微かに衣擦れの音を立てた。揺らぐ篝火の中を、白粉を塗り紅を差した月衛が静かに歩いていく。その姿は、あまりに妖艶で美しく、人というより、いっそ精霊の類いに見えた。


「父上」


 月衛の運命を聞いてしまった小さな胸が、不安でいっぱいになる。昨晩、父に月衛から聞いたことを話し、本土に連れて行こうと訴えた。誠之輔は闊達に笑って、月衛の冗談だと烈生を宥めた。この現代に、そんな話があるものかと。

 誠之輔が、不安げな息子の肩をポンポンと叩いた。昨日、応接間で紹介された月衛は、妙にませた印象だった。まだ幼い烈生と違って、すでに青年期特有の愁いを抱えるようになっているのかもしれない。十代にはよくある思い込みだ、と誠之輔は理解していた。

 月衛が宮の中へ入ると、一族の女達が扉を閉め、閂をかけた。張り上げる祈りの声が、一層、高くなっていく。祝詞とは違う、独特な節回しだ。古代語だろうか。歌詞もよく聴き取れない。拍子を取る鼓の音が段々に速くなっていく。熱狂の中、月衛は教えられた通りに礼を捧げ、米を噛み、菊の花を浸した御神酒と共に喉に流し込んだ。途端に、目の前が昏くなった。

 後のことは憶えていない。気がつけば、白い布団に寝かされていた。目を覚ますとすぐに、身を清めるのだと風呂場に連れて行かれた。着物を脱がされ、自らの左腕を見て、戦慄が走った。白い肌に、蛇のようにうねる赤い痣。鏡を振り返れば、口角から両頬にかけても痣が伸びていた。あまりの禍々しさに身を震わせて涙を零す月衛を囲んで、女達はお目通りが上手くいった証だと喜んだ。

 赤い痣も落ち着き、殆ど見えなくなった頃。部屋にヌエが来て、普段の着物に着替えて穂村様を見送るようにと命じた。


 ――烈生!!


 初めての人間の友達が、海の向こうへ帰ってしまう。一昨日、月衛を元気づけようと握ってくれた、温かな手。絶対に離したくない、離してはいけない。


「穂村様!!」


 細い声を振り絞る。


「お待ちください!月衛も本土に行きたい!!学校に行きたい!!」


 縋りつこうとした手を、ヌエの冷たい手が掴んで、引き戻す。


「あらあら。我儘はやめなさい。お前は身体が弱いのだから」


 まただ。苦い薬湯も、脂ぎった食事も、この言葉で押し付けられてきた。柔く優しく月衛を縛る、女達の呪いだ。


 ――もう、たくさんだ!


 月衛が、ヌエを突き飛ばして玄関を走り出た。


「誰か…誰か!月衛を捕まえて!!」


 女中達が追ってくる。息が上がる。頭が痛い。白く灼きつく陽射しの中を、月衛は歯を食いしばって走った。門を飛び出て、塀に沿って走る。息を切らしてようやく屋敷の裏に回ると、眼前に碧く雄大な海が現れた。


「近づくな!!」


 崖っぷちで振り向いて、追ってくる女達に吼える。


「危ない…こっちへ来なさい!月衛!」


 女中達の後ろから、よちよちと高い草履を履いたヌエが出てきた。


「嫌だ!本土へ行く!!学校へ行く!!」


 今まで、こんな大声を出したことがあっただろうか。烈生から聞いた、きらめくような世界。この海の向こうには、考えもつかなかった希望が開けている。


「馬鹿を…馬鹿をおっしゃいな!!お前は身体が弱いのよ!本土なんて、学校なんて、我儘を言うんじゃありません!!」


 ヌエが、キィキィと甲高い声で叫ぶ。


「…月衛が二十四まで生きていないと、困るんだろう!?ならば、それまで好きにさせろ!!どうしても止めるなら、今、ここから飛んで死んでやる!!」


 脅しではなかった。この家に閉じ込められて、屠られるまで、退屈を持て余しながら生きるなんてまっぴらだ。それくらいなら、このどこまでも続く海に散りたいと願った。


「…ヌエ殿」


 誠之輔が進み出た。


「ここは、月衛君の希望を聞いてやってはどうだろう。子供は仲間が欲しいものだし、現代の子供なら、相応の教育が必要でしょう。我が家で預かりますゆえ」


 烈生の話では、月衛は十二になるまで学校に行ったこともなければ、人間の友達が出来たこともないという。いくら虚弱だとはいっても、家庭教師もつけずに家に閉じこもらせているのはいかがなものか。烈生とさして年も違わぬ月衛が必死に訴えるのを見て、さすがに不憫に思ったのだ。


「まぁ…穂村様がそうおっしゃるなら…。次の大祭までにきちんと帰してくださるなら」


 さきほどまでのキィキィ声が嘘のような猫なで声に変わった。父についてきた烈生の顔が輝く。


「行こう!月衛!!」


 差し出された健やかな手を、白い手が掴む。握り返す手は陽射しのように温かく、仔獅子のような紅髪が金色にきらめいていた。




「月衛!ここにいたのか!」


 下から呼び掛ける闊達な声に、ちろりと藍の瞳が開く。聞いているとの返事代わりに、顔にかけた英字新聞を持ち上げた。大正7年の夏。神之屋月衛、21歳。富士ヶ峰高等学校高等科の3年生である。


「降りてこい!ミステリ研に客が来たぞ!!」


 穂村烈生、20歳。虚弱につき、1年遅らせて13歳で中学に入った月衛と同学年だ。学校では、月衛と「ミステリー研究会」を立ち上げ、部長を務めている。


「…客?」


 校舎裏の木の上から、月衛の声が降ってくる。お気に入りの昼寝場所だ。


「ああ!久しぶりに、面白い話が聞けそうだ」


 満面の笑みを見て、英字新聞を畳んだ月衛がストンと枝を降りた。学生服に包まれた身体はほっそりと小柄で、その分、身が軽いのだ。


「どうだかね…」


 白い頬に、ざんばらの黒髪が揺れる。偏屈な親友の物言いをまるで気にしない様子で、烈生が頷いた。




 「ミステリー研究会」の部室は、校舎の北の端にある。夏の間は、窓を開ければ快適そのものだ。その快適な部屋の快適な長椅子に、靴も脱がずにドーンと寝そべる男に、月衛の眉根が寄った。


「どけ、“寝候”。これは俺の長椅子だ」


 丸めた新聞でひっぱたかれた男が、瞳を開いた。猿飛さるとび銀螺ぎんら・23歳。諸般の事情で3年留年して、富士ヶ峰高等学校高等科に居座る3年生である。


「へえへえ、脚が長くて、すいませんね」


 2m近くにも及ぼうかという筋肉質な長身は、たしかに長椅子を丸々占拠していた。


「お前のなんかじゃ、あるまいて。学校の備品だろうが」


 銀螺は、ひょいと身軽に身体を起こし、頭を掻いて大あくびをかました。


「俺が虚弱だということで、特別に認められた備品だ。したがって俺のものだ」


 月衛が無茶苦茶をさらりと主張して、新聞でパタパタと座面の埃を払う。


「…お前、虚弱だったの?」


 態度はデカいわ、小さいくせに上から目線で偉そうだわ、とても弱そうには見えないが。


「昔な」


 使える方便は使わせていただく。実家に問い合わせてもらったって構わない。


「2人とも寝起きで、すまないな!村田!珈琲のおかわりはどうだ!?」


 長椅子の向かいに腰掛けていた青年に、烈生が声を掛けた。寝ぼすけ共のために、どっちにしても淹れるのだが。


「あ…じゃあ、いただこうかな…」


 村田の前に、おこしの入った菓子盆が突き出される。村田はそっと一包み取って、口に放り込み、目の前の長椅子で小突き合っている2人に目をやった。何か社交的な会話の1つもしなくてはと思うのだが、月衛の偏屈は、校内でも有名だ。

 艶やかな黒髪に、色白で秀麗な目鼻立ち。ほっそりとしなやかな体つき。全体に成績優秀だが、外国語科目は特に秀でている。それだけならば良いのだが、疑り深く気難しい毒舌家、何か気に入らないことがあるとネチネチと執拗に説教をたれる。

 爽やかな好青年の烈生が部長じゃなかったら、ミステリ研の部室になど近寄っていない。その上、ミステリ研って2名じゃなかった?なんで超絶有名3留アニキの銀螺さんがいるの?


「あ、の~…銀螺さんもミステリ研…なんですか?」


 ようやく会話の糸口が見つかったとばかりに、村田が口を開く。


「昼寝にしか来ない、“寝候”だ。居候というほど身を起こしているのは、見たことがない」


 月衛が、バッサリと切り捨てた。


「いや~、ミステリ研、夏は涼しいし、冬はストーブ入ってポカポカ…あ、もしかしてストーブも“虚弱につき”入れさせた備品か?」


 銀螺が、烈生から珈琲を受け取って、カフェテーブルに並べる。


「ああ。3年間も昼寝させてやっているのは俺の厚意だ。感謝しろ」


 月衛が、ふんと鼻を鳴らした。


「人を“三年寝太郎”みたいに言うんじゃねぇや。たまにゃお前らの話し相手もしてるだろうが」


「ミステリー研究会」の普段の活動内容は、国内外のミステリー小説や新聞の事件報道を読み、推理し合ってダベることである。男女両刀遣いの発展家で、遊び好き、世情に通じた銀螺は、育ちの良い烈生や、潔癖な質の月衛が知らないことを色々知っていて、時々、思わぬヒントをくれるのだ。


「さて!珈琲も行き渡ったところで、本日の主題と行こうか。村田、事情を説明してくれたまえ」


 烈生の闊達な声が響く。


「あの、実は…」


 村田が、膝に乗せていた風呂敷包みをそっと開く。中には、古ぼけた日本人形が入っていた。肌は煤け、髪はざんばらに乱れていて、いかにもおどろおどろしい。


「近頃から、このお菊人形の髪が、伸び出したんだ…」


 村田の説明によると、村田の両親は離縁しており、母と一緒に里に帰された、生き別れの妹・お菊がいるという。別れの朝、仲の良かった兄妹は別れを惜しんで、互いの宝物を交換した。以来、村田は、人形をお菊と名付けて部屋に大切に飾っていたのだ。


「なんと!髪が伸びるお菊人形とは、怪奇なことだな!!」


 烈生が鳶色の瞳を輝かせる。これは我等がミステリ研が取り組むに相応しい…


「馬鹿らしい」


 ぶった切るように、月衛の冷ややかな声が重なる。


「その古さからいくと、髪の毛は人毛だろう。人毛は湿度によって伸び縮みするものだ」


「違うんだ!元々は肩につく程度のおかっぱだったんだよ。明らかに伸びているだろう!?」


 たしかに、目の前の人形の髪の毛は背を覆うほどで、数ミリ伸びたの縮んだのでは説明できない。


「なら、髪をくっつけている膠が劣化して、部分的にずれ落ちているのさ」


 月衛がつまらなそうに説明する。こんなことなら木の上から降りるんじゃなかった。


「心配なんだ…お菊の身に何かあったんじゃないか…」


 村田は、月衛の説明も聞こえない様子で拳を震わせる。


「兄として…俺は、俺はどうしたらいいんだ!?」


 村田は、瞳を涙ぐませてテーブルを叩いた。妹を思うその心根は、しっかりと烈生の胸に突き刺さった。何とか…級友として助けてやりたいッ!!


「どうするって、おめェ…伸びた髪は切り揃えてやりゃァいいんじゃねェか?人形だって、女のコだろ」


 銀螺が、のんびりと声をあげた。村田が目からウロコが落ちたみたいな顔をしている。「人形の髪が伸びたら散髪する」なんて未来志向な発想、思いつきもしなかった。


「…解決だな。切り揃えて、リボンでも飾ってやれ。明日の朝、妹の枕元にリボンが届くかもしれんぞ」


 月衛が、ふんと鼻を鳴らして英字新聞を開いた。もうこれ以上、村田の話を聞く気はない。




 ミステリー研究会に「お菊人形の怪」が持ち込まれた翌日。


 「うおおおおおおお!!!穂村ァ~!!!」


 ミステリ研部室のドアが、叩きつけるように開けられる。村田が涙と鼻水を振り飛ばして飛び込んできた。


 「…①部屋に入るときはノックしろ。②中の人間の許可を得てから入れ。③…」


 「ああああああ!!!神之屋!?なんでお前なんだよ!?穂村は!?!」


 なんで、はこっちのセリフだ。こてんぱんに言い返してやろうと月衛が口を開いた時。


 「やぁ!昨日の今日でどうしたんだ、村田?」


 ドアの外から明るい声がかかる。救いの神・穂村烈生の登場だ。


 「穂村!妹の、お菊の身が危ない!!」


 またか、と月衛が顔をしかめる。


 「今度は何だ、人形が禿げ散らかしたか?」


 「電報だよ!電報が来たんだよ!!」


 村田が、握りしめていた紙を開いて見せた。


 ――タスケテ キク


 ごく短い、通信。


 「これだけではよくわからないから、明日、母の郷里の麻田村に行く。謎の事件だ!一緒に来てくれ。ミステリ研!」


 「…なんで?呼ぶなら村の駐在でも呼べ。俺達が行く理由は…」


 優美な眉を厭わしげに寄せて、月衛がネチりかけたとき。


 「俺はッッッ!!今ッッッ、モーレツに感動しているッッッ!!」


 鼓膜が割れるかと思った。烈生が拳を握りしめ、ただでさえデカい声を全身全霊で張り上げる。


 「村田!!幼時に、ただ1人の妹と生き別れ、形見の人形を10年以上も大切に可愛がってきた君の真心!この、穂村烈生がしかと受け止めた!!かくなる上は、妹御の危機にミステリ研総出で取り組もう!!月衛の推理能力があれば、どんな事件も快刀乱麻を断つがごとく解決だ!!」


 滂沱の涙を流して、村田とガッチリ握手する。


 「おい、俺はまだ何も」


 眉をひそめる月衛を、烈生が闊達な笑顔で振り返る。


 「月衛!麻田村の所在するA県は有名な米所だ!米の美味いところは酒も美味いぞ!」


 ――美味い酒!!


 月衛が瞳を瞬かせた。若干、藍色の宝玉に明るい光が射し込んだような。


 「…わかった。どうせなら、顧問の“ホームズ”先生に申請してもらって、遠征取材といこう」


 月衛が申請用紙を取り出し、サラサラと書きつけ始める。こうすれば、部の予算から多少旅費が出るし、運動部の遠征試合と同じような扱いで大っぴらに講義を休めるのだ。


 「うおおおおおおお!!!神之屋!!お前、イイ奴だったんだな!!てっきり粘着質の神経質で毒舌の根暗、穂村しか友達いない奴だと思っていたよ!!!ありがとう!ありがとう!!」


 涙と鼻水でぐしょぐしょの村田が、月衛の両手を握りしめて振り回す。


 ――月衛はイイ奴だ。誤解している皆に知ってほしい。


 烈生が、満面の笑顔で頷いた。




 「まぁまぁ、急なご旅行ですねぇ」


 帰宅した烈生と月衛から、明日A県に発つと告げられたおフジが、心配そうに割烹着を揉んだ。


 「うむ!急を要する事件だ。とりあえず、1週間留守にする。その間、穂村の家を頼むぞ、おフジ」


 3年前、烈生の母である朱子が他界した。最愛にして敬愛する妻を亡くした誠之輔は、哀しみのあまり身を持ち崩し、今では酒浸りの日々だ。そんな父に代わり、弱冠17歳だった烈生は、当主代理として葬儀を取り仕切り、法的手続きをこなした。さらに当主がまともに働けなくなったことを鑑み、財産を始末し、使用人に相応の退職金を渡して頭を下げ、何人もの使用人を抱える大所帯だった穂村家を整理した。若い烈生をみくびって、たかって来るハイエナどもを蹴散らし、荒れる誠之輔に幼い晴生、書生の月衛も含めた穂村家を守り抜いたのである。そのための作業は膨大で、高等学校高等科への進学を1年遅らせて専念した。月衛も一緒に進学を見合わせ、烈生を助けたものである。

 今では、使用人はばあやのおフジとおフジの夫で長く勤めてきた庭師の金五郎だけになった。年老いたおフジ1人では大きな洋館全体を管理することはできず、家族の生活に必要な寝室や食堂、台所といった所以外は、ひっそりと煤け、静まりかえっている。


 風呂をもらって、学生服から着物に替えるとやはり落ち着くものだ。時間の節約も兼ねて、烈生に月衛、晴生は毎日、3人で仲良く風呂に入っている。月衛は、晴生の小学校での話を聞くのが好きだ。毎日毎日、何かしら小さな事件が起こり、子供達は子供達なりの経験と知恵を積み重ねて大きくなってゆく。何気ないことかもしれないが、その小さな燦めきを見ていると、自分の命まで寿がれているような気になってくるのだ。


 「さあさ、烈生坊ちゃんも晴生坊ちゃんも。今日は夏野菜の天ぷらですよ」


 天ぷらは、おフジの得意料理で、烈生も晴生も大好きだ。


 「月衛さんには、塩もみを用意しましたからね。辛子味噌をつけて召し上がれ」


 食の細い月衛が少しでも食べられるように、おフジは夏にはひんやりとした献立を用意してくれる。ごく簡単なあっさりしたものが多いのだが、実家で無理やり食わされていたギトギトした料理と比べると、かえっておフジの思いやりが感じられて、好もしい。烈生と月衛には、お銚子1本ずつ、冷や酒もつけてくれる。烈生は、あまり銘柄にこだわらないので、もっぱら月衛好みの酒だ。月衛はかなりイケる口で、殆どウワバミと言ってもよい。杯を啜る、薄い唇。目尻に仄かに紅がさし、怜悧な眼差しが柔らかく緩む。烈生が、こくりと唾を呑んだ。




 薄いカーテン越しに、蒼い月光が降り注ぐ。この分なら、電灯も要らぬ。月衛は小さな枕元灯を消して、文庫本に読みふけっていた。肩に掛かる髪を軽くまとめて、白いうなじが月明かりの中に浮かび上がるようだ。背後で微かに部屋のドアが軋む音がした。


 「月衛」


 鍵もかけないでおいたドアをそっと開けて、神妙な顔をした烈生が入ってきた。ベッドに身体を横たえる月衛に覆いかぶさるようにして口づける。


「晴生は寝たか?」


 月衛が、寝返りを打って烈生と正対する。白い手が優しく烈生の頬を包んだ。


「ああ。あれも、もう十二になる。そろそろ1人部屋を用意してやらなくてはな」


 9歳で母と死に別れた晴生は、一時期、夜驚症を患っていて、烈生のベッドで添い寝してやるのが習慣になっていた。そして晴生が寝付くのを見届けてから、烈生が月衛の部屋に忍んでくることも。

 熱い唇が月衛の薄い珊瑚色の唇に重ねられる。月衛が僅かに唇を開き、烈生の舌を迎え入れた。


「ん…ふ…」


 蒼く照らされる部屋を、チュプチュプと淫らな水音が埋めていく。月衛が、口内を犯す烈生の舌を吸い、軽く甘噛みする。たおやかな腕を烈生の背に回し、抱き寄せた。


「月衛…ッ」


 烈生の欲望を自ら受け容れるような仕草が、興奮を煽る。烈生は堪らなくなって、白い顎に、首筋に、鎖骨に口づけを降らせた。


「ああ…」


 甘く湿る吐息を含んだ声。身体の奥から、悦びが湧き起こる。


 ――嗚呼!もっと!もっと!


 ふと、ヌエの嬌声が脳裏をかすめた。


 ――違う…俺は違う…


 白いシーツの上で、艶やかな黒髪が乱れている。上気した薄紅色の肌に散る、烈生の印。


「は…ッ、はァ…月衛」


 烈生の腕が月衛を堅く抱きしめた。


「月衛…愛して」


 言い終わらぬうちに、白い指が烈生の唇を摘まむ。


「だめだ、烈生…。それは、未来の奥方のために取っておけ」


 白い頬が、薄く微笑む。


 月衛は、穂村の家には返しきれぬほどの恩義を感じていた。自分を狭隘な島から連れ出し、教育を受けさせてくれた。あの日、烈生と見た海のように、世界がどこまでも広がっているのを知ることができた。初めて生きる歓びを感じ、授かった命を寿ぐことができた。そんな大恩を、烈生の未来を。自分が摘んでしまうことは許されないと思っている。

 高等学校の級友には、女郎屋通いを自慢する者もいるが、烈生は穂村の家を継いでいく大事な身だ。いずれ奥方を娶り、子を為さねばならぬ。不衛生な女郎屋などで、おかしな病気をもらってくるわけにはいかないのだ。自分の、女のように白い肌が、華奢な腰つきが、烈生の性欲処理に役立つというのなら、この身を捧げても構わない。


 ――月衛…


 烈生が、唇を摘まんだ指を絡め取った。その手を優しくシーツに押し付け、白い肌に何度も口づけを落とす。


 ――どう言えば、わかってくれる?どう言えば、君に伝わるんだ?


「愛している」以上の何が言えるだろう。肌は許しても愛は決して受け取らぬ、頑なな身体を、ただ虚しく抱くことしかできないのか。

 今まで会ったどんな女にも、こんな想いを抱いたことはない。まして、まだ見ぬ女など、どうでもよい。あの、篝火の中に浮かぶ蛇精を見てしまった、その夜から――…


 ――君だけだ。月衛。




 ―つづく―

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