第4話 ピアノ

 彼は、人間の姿を手に入れました。

 土に触れている足の感触も、鼻と口で吸う森の香りも、空気の味も。何もかもが初めてでした。

 戸惑いながら振り向くと、今まで自身が伸び続けた大楠の姿に驚愕します。こんなにも、大きくなってしまったのかと。みんなと一緒に歩みたかった時間はとうに過ぎ去り、唯一の友達を失った歴史が走馬灯のように流れ込みます。

 様々な言葉が、彼の頭に浮かび、それは胸の奥に響きます。

「なぜ生まれた」

「なぜ育った」

「私たちを犠牲にして」

「生きながらえて楽しいか」

「誰もお前のことなんか覚えていない」

「みんなお前のことなんか嫌いなんだよ」

 それが現実の言葉かどうか、わかりません。しかし、確かに聞こえたその声に、彼の体は震えます。自分は、大きな罪を犯してしまった。この罪はどう償わなければいけないのか。

 今までは、命なんて、いつ終わっても悔いはないと思っていました。あの嵐の日に、自分は死ぬはずだったのだから。だからこそ、ここで終われば、許され、救われるのではないか。人の形を模したのであれば、命を終えることも容易かもしれない。そんなことを期待しました。

 けれど、彼の脳裏によぎったのは、彼女の歌と、彼女の笑顔でした。

 彼は震える足を動かして、彼女を追いかけることにしました。

険しい山道を汗だくになって一歩ずつ上ります。木として生きていた時は、『疲れ』なんて感じたことはありません。初めての『疲れ』はとても新鮮でした。道中にいる虫たちは、彼の腕や足にまとわりついてきます。木でいたころより、虫たちの存在が身近に感じられました。

 山を登りきり、そこから下りの道に差し掛かります。すると、彼女の歌が聴こえてきました。また、聴いたこともない架空の言葉です。その言葉を追い求めるように、彼の足は早まります。

 ただ、途端に脳裏を様々な不安が過ぎりました。

会ったところで、彼女は何と言うだろう。

急に木から人になったなどと言って、不気味に思わないだろうか。

 その恐怖心は大きく膨らみ、彼はうつむき、歩みを止めてしまいました。そして、彼は思います。このまま、動かなければ、きっと栄養もなくなって、土に還れる。それが、一番望ましいのではないか、と。

 ペタペタと、足音が近づいてきました。

 顔を上げると、目の前に、大きな二つの瞳が見えました。

 間近で見る彼女の瞳は、夏の朝露のように透き通っていて、千年以上生きた彼は初めて誰かに見惚れてしまいました。

「あの、おなか、へって、ますか?」

 初めて会う人の姿の彼に対し、たどたどしく、彼女は言いました。

 人間は食事をします。そして最近雨は降っていませんでした。人間になった彼は、お腹のあたりがどこか切ない感覚がしていたのです。これを空腹だと、彼は初めて理解しました。

 返事に迷っている間、彼女は、彼の手をそっと握りました。

「よかったら、ごはん、つくります」

 そのまま、彼は彼女に手を引かれる形で、ふもとへと続く道を進みました。初めて、力強く、手と手がしっかり繋がれます。さっきまで感じていた不安や自責の念は、いつの間にか消えていました。

 そのまま歩いていると、二人は島のふもとにたどり着きました。木に囲まれていない、民家が数件立ち並んでいて、太陽はそんな空間を、じりじりと照らしています。

彼女は彼の手を引きながら、体の向きをぐるっと右に変えます。彼の目に、陽の光で、何かが星のようにキラキラと反射しているのが映りました。

 ずっと森の中にいた彼は、かつてやんちゃな木が教えてくれた、大きな水たまりこと、海を初めて見ました。どこまでも青く広い空間に、思わず目を奪われます。

「うみ、きれい、ですよ。とても」

 彼が見惚れているのを察してか、彼女は立ち止まりました。そして、防波堤に手をかけ、ぐっと体を乗りあげました。そして、下にいる彼に手を伸ばします。

「どうぞ」

 彼女に手を引かれ、彼は防波堤に上りました。

 夜空の星ともまた違った光の反射する海。遠くでエイが跳ね、水しぶきをあげていて、カモメたちは優雅に羽を羽ばたかせています。

「ここに、すむことにしたんです」

 ぼーっとしている彼の意識は、彼女の言葉で現実に引き戻されました。

「やらなきゃいけないことが、あると、おもったので、ここまできました」

 にこりと彼女は微笑みます。握られた手を彼女はぎゅっと強く握り返します。

「やらなきゃ、いけないこと?」

 彼は人の形を手に入れてから、初めて言葉を口にしました。人間ののどから出て来る、初めての声に違和感を覚えます。ちゃんと、伝ったのか、不安になっていると、彼女は戸惑うことなく彼の方を向いて、頷きました。

「はい」

 きちんと伝わっていたことに、彼は安心し、さらに問いかけます。

「なに、それは」

「ないしょ、です」

 いたずらっぽく彼女は笑って、彼の手を引いて再び歩き始めました。

 道中すれ違ったのは、二人のおばあさんです。

 彼は、そのおばあさんがどこの誰なのかわかりません。きっとおばあさんたちも、彼が誰なのかなんてわからないでしょう。そのことが気まずかった彼は、そっと目をそらしました。

「やさしい、ひとたちです。こわくないです」

 彼は、別に怖がっていたわけではありません。ですが、彼女の言葉に、どこかほっとしていました。

 そのまま道を進むと、細い路地裏にさしかかり、その先に草木にまぎれた小さなお家がありました。

 建付けの悪い引き戸を彼女が引くと、鈍い音と共に室内の様子が伺えました。

 人間の住む家を、彼は見たことがありません。あれがなにで、どれがなにでと、疑問を数えればきりがないほどです。しかし、彼女を質問攻めにしてしまうのも申し訳ないため、彼は、口を閉じていることにしました。

「さいしょ、ここにきたとき、おうちのなかは、むしさんで、いっぱいだったんです」

 建物の作りもだいぶ古くなっているため、なんとなく彼自身、その光景は想像できました。

「だから、ここはもともと、むしせんぱいのおうちだったんです」

 部屋の隅を羽虫たちは闊歩しています。彼女自身、その虫たちを毛嫌いしているわけではなさそうで、次第に彼も、彼女に嫌われてしまうのではという思いを忘れていました。

「のど、かわきましたよね」

彼女は部屋の隅にある小さな冷蔵庫を開き、中から麦茶の入った容器を取り出します。棚の上にあるコップを手に取り、麦茶を注ぐと、部屋の中央にある小さな机にそっと置きました。

 立ち尽くしている彼は、どうしていいかわからないまま、唾をごくりと飲み込みます。

「すわって、いいです、ここ」

 彼女はそう言って茶色い床を指さします。彼は人間が地面に座って食事をしていた場面を思い出しながら、床に座ることにしました。

「いま、ごはんつくってきます」

 彼女はそういうと、部屋を出ていきました。部屋に取り残された彼は、窓の隙間から入り込む風の香りをかぎながら、一口麦茶を飲みました。のどを通り過ぎる麦茶の感触は、乾いた体にしみわたり、とても幸せな気持ちになりました。

 その感覚にしばらく身を任せていると、いつの間にか卵とネギの香りが風に混じって運ばれてきました。

「もう、できます」

 彼女はにこにこと笑いながら、お皿に盛りつけられた卵の炒め物を彼に差し出します。

木の前で人々が宴をしていたころ、人間は様々な食べ物を口に運んでいました。あれが、人間の生きるための手段だったのでしょう。

見よう見まねでなんとなく覚えていた箸の持ち方を再現し、黄金色の卵を口へと運びました。

塩味のよくきいた、さっぱりとした味わいに、彼の胸は高鳴り、とてつもない幸福感で満たされました。

「おいしい、と、おもいます」

 いつの間にか隣で彼女も料理を口に運んでいました。

 人々が集って食事をすることが、どうしてあんなにも楽しそうだったのか。そのことが、ずっと気になって仕方がありませんでした。

「そっか。だから、か」

 誰かと、初めてご飯を食べ、人間がどうして集まって食事をしていたのか。感覚的に理解することができました。

 しばらくして彼がご飯を食べ終えたころには、彼女は食器を外の水道で洗っていました。

 人間として動くことに、ほんの少しだけ疲れた彼は、ごろんと床に寝そべりました。

 地面とはまた少しだけ違う冷たい感触。人の手によって作られた地面。心地よくて、優しい感触に、彼は目を閉じます。

 すると、彼の耳にまた始めての音が飛び込んできました。かつて、おしゃべりのカラスが、やんちゃな木とこんな話をしていたのを思い出します。

 音楽が好きな人間は、ガッキというものを使って綺麗な音を奏でると。

 きっと、これもガッキの音なのだと、彼は理解しました。

「これ、ピアノ、っていいます」

 声が後ろから聞こえたため、彼は目を開き、振り向きます。いつの間にか彼女は、ピアノと呼んだ黒くて大きな物体の前にある椅子に移動していました。

 そして、彼女は両手で勢いよく白と黒の鍵盤を叩き、部屋中に音が響き渡りました。

 風のように、木々の歴史の流れを表すかのような音の塊は、彼の胸の奥にぶつかってきます。彼女はその音と踊るように、体を前後に動かしながら鍵盤を叩き続けます。途中でバランスを崩し、椅子からガタンと音を立てることもありました。きっと彼女自身、音楽という突風に乗っていて、そこから落ちそうになってしまったのでしょう。

 がたんがたんと椅子が揺れる音と共に、彼女のピアノを聴き続けました。その時間は長かったはずなのに、一瞬のように感じ、音が止まったあと、彼の頭は真っ白な気持ちに包まれていました。

そして、彼女は一息ついて、椅子から降り、再び彼の前に座ります。彼女はお茶を口に運んだ後、こう言いました。

「あなたの、はなし、きかせてください」

 それは初めてのお願いでした。

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