第3話 人間
ここまでが、彼が生まれて、千年ほどのお話です。
島民たちは、その大楠の有様を見て、嘆き悲しみました。
「大楠様のお怒りだ。俺たちが、何か無礼を働いたんだ」
おとなしい木は、反論する元気すらありませんでした。何も通じない彼らに、何を言っても意味はありません。せめて、何か踊りでも踊って、お気楽に酒でも飲んでくれる方がましでした。
時がたつにつれ、彼らを崇拝する人間たちは、年を取り、やがて天寿を全うしていきました。彼らのために作られた歌を歌う人間もいなくなりました。
何百人もいた人間たちは、島を離れていき、にぎやかだった島に訪れたのは、悲しさと、さみしさと、残された島民の、ささやかな日常だけでした。
土に埋もれたおとなしい木は、それを悲しんでいいのかどうかも、わかりません。
人が集まれば争いが起こることを知ってしまいました。身に覚えのない崇拝をされ続けてしまうことも、知ってしまいました。
だからこそ、訪れた静寂と孤独は、一種の平和をもたらしたのです。
「で、お前さんは一人ぼっちになっちまったと」
おしゃべりカラスの家系は未だに続いていて、今や何代目かわかりません。それでもカラスは、気まぐれに彼の下へ訪れていました。
「うちの家系のモットーは、今の世界で起きてること。俺たちの知ってることを気まぐれで伝えに来ることだ」
「うん」
カラスの話を、彼は半分も聞いていません。何かを理解することに、彼はもうすっかり疲れてしまっていたのです。
「だがな、おしゃべりのうちの家系だが、何も聞きたくないやつに、無理やり話をするつもりはねえ。安心しろ。お前さんの素晴らしさはちゃんと俺が伝えておいてやる。それが、おしゃべりの血筋ってもんだからな」
そういうと、教えたがりのカラスは飛び去って行きました。
話を理解するのをやめていた彼ですが、カラスがもうここに来ないことだけは、なんとなく察しがついていました。
「もう、いっか」
何かをあきらめたように、彼はそう言いました。
彼のところを、カラスだけでなく、人間も訪れることはありませんでした。
新しい木でも生えたら、新しい友達でもできるかなとか、そんなことを思ったりもしましたが、その望みは叶いません。木の芽が出ても、それは彼からは離れた場所ばかりです。当然、彼の声は届きません。
季節は廻り続けます。彼は、夏だけはほんの少しだけ好きでした。
夏には、彼の体に、土の中から出てきた、数えきれないほどのたくさんのセミたちがのぼってくるからです。ミーンミンと、元気に鳴くセミたちの声を聴いていると、久しぶりに、彼は話をしたくなりました。
「ねえ、聞こえる?」
彼は気まぐれで、声をかけてみました。けれどもセミたちと彼は、波長のようなものがあわないみたいで、声は届きません。セミたちはセミたちで、毎日楽しそうに言葉を交わしていることでしょう。その言葉の意味を彼には理解できません。
「ごめん、なんでもない。でも、僕なんかのところに来てくれて、ありがとう。なんて言っているかわからないけどさ。でも、君たちの声が聴けてうれしいよ」
それでも、セミたちのにぎやかな鳴き声は、ほんの少しだけ、彼のさみしい気持ちを癒してくれました。
彼が生まれて千二百年が経ちました。島民たちはわずか十人ほどになり、彼に対する崇拝の思いを伝えに来ることはありません。
彼も望んでいませんでした。誰からも忘れられてしまえば、今はもういない、やんちゃな木や、自分のことを祝福してくれた仲間たちのところに行けるのではと思ったからです。
そんな彼の思いと真逆の出来事が、ある夏の日の昼下がりに起こりました。
その日の天気は曇り空で、天は灰色に染まっています。彼は今日も、自分の体に止まっているセミたちの声を聴きながら、時間をつぶそうとしていました。
すると、ペタッ、ペタッと、誰かの足音が聞こえてきたのです。
足音と共に、灰色の雲は動き始め、隙間から青空が見えました。
何年たっても忘れることのない、人間の足音です。
足取りから彼は、なんとなく訪れた人間が、幼い子どもではないかと考えました。
彼は少しだけ期待しました。子どもたちが集まって、枝葉を集めて無邪気に遊んでいたあの日がまたやってくるのではないかと。今までの出来事が、全部夢か何かで、ただ一人の友人と共に眺めていたあの頃に戻れるのではないかと。
しかし、彼の前に立っていたのは、子どもではありませんでした。
かつて人間が好んで着ていた和服とは異なり、汗や土で汚れた簡素な装いです。いつしか人間の服もずいぶんと様変わりしていました。
同時に様々な記憶が流れ込んできました。
自分のせいで争い、勘違いの末に自分のことを忘れていった、さみしい思い出。
思い出したくもなかったその記憶の波と共に、胸に鈍い痛みが広がりました。
だからこそ、彼はこう言うしかなかったのでしょう。
「こんなところに来なくていいよ」
届いても、届かなくても、どちらだろうと問題ではありません。そう言わなければ、彼の千年以上耐えていた心の傷が開いてしまいそうだったのです。
その言葉が人間の彼女に伝わるなんて期待していません。
けれど、彼女は真剣な瞳で、土砂で埋まってしまった彼の一部を見つめます。慈愛でも、敬意でもない、また別の感情が彼に流れ込んできました。
大きくて、温かくて、優しい何か。そのぬくもりに彼は飲み込まれそうになりました。
彼女は、何なのだろう。 そう思っている矢先、彼女は口を開きました。
聞こえてきたのは、歌でした。
囁くように、慰めるような高い声が、森中に響き渡りました。
聞いたことのない言葉です。おそらくこの世界の言葉ではないのかもしれません。彼女だけの持つ、彼女だけの言葉。それが、彼と彼女の合言葉のようで、一種の心地よさすら感じられます。
何のつもりで、彼女は歌を歌っているのか。何のためにここに来たのか。尋ねたいことは、たくさんありました。そして、一瞬だけですが、彼は、人が集まり、にぎわっていたあの時間を思い出しました。
歌い終えると、彼女はどこか満足そうに微笑みます。
「こん、にちは」
彼女は、たどたどしく言葉を紡ぎます。大人なのに、子どものような言葉のリズムでした。
彼女の挨拶が空間に吸い込まれた後、森に沈黙が流れました。そして、彼女は腰から深く、両手を左右に広げながらお辞儀をしました。
崇拝とも、敬意とも違うそのお辞儀に、彼は戸惑います。
彼女は体をあげると、彼に背中を向け、森を去っていきました。
その夜。彼は彼女のことばかり考えていました。
なんで自分なんかに、歌を歌ってくれたのか。
目的は何で、どこから来たのか。人間についてこんなにも興味を抱いたのは初めてのことでした。
だから、今日みたいなことが、またあったらいいなと思う一方で、もう来なかったらこんなにも思い悩むこともないのに。二つの気持ちがぐるぐるしている間に、朝がやってきました。
次の日の朝も、無邪気な足音と元に、彼女はやってきました。
かつて起きた土砂崩れの名残はふかふかの腐葉土となり、その上一面に生えている草花を、彼女は愛おしそうに撫で、にこりと笑います。そして、彼の体を見上げました。
「こん、にちは」
まるで、新しい木が生えて友達ができた気分になりました。
だから、今度は拒絶の意を発することなく、彼女の方を眺めることにしました。落ちている草をむしり、それをほぐしながら、細長い糸を作ったり、葉っぱをちぎってそれを手の中に入れ、音を出して遊んでいました。
そして、彼女はまた歌を口ずさみます。今度は昨日のような熱い思いとはまた違う、彼女の好奇心をそのまま歌に乗せたような旋律です。
かつてお祭りがあった日のことを思い出していました。
彼女は、数時間周辺で遊び続けた後、ぐっと伸びをした後、彼に手を振りました。
「また、ね」
そよ風のような笑みに、彼の胸は少しだけ温かくなりました。
「うん」
そう、彼は返事をしました。
そして、少しだけ、彼女のことを知りたいと思い始めたのです。
だからでしょうか。彼は初めて、強い祈りを抱きました。
心の中に新たな形を思い浮かべます。はるか昔、彼の周りに集まっていた和服を纏った人間の姿を。頭の中にできた偶像は、少しずつ現実の森の中へ形作られていきます。土や草、根たちの力もあったのかもしれません。
彼は、人間の姿を手に入れました。
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