エピローグ 運命のモラトリアム

第86話

「ねえーせんせー?」


 ある男の子が、砂場で他の子と遊んでいる私の肩をポンポンと叩いてきた。


「なあに? ゆうと君?」


「ゆきちゃんがねー、じぶんのこと『ぼく』っていうんだー」


 ゆきちゃんとはゆうと君と同じクラスの女の子のことだ。


「それがどうしたの?」


「ぼくのね、おかあさんはね、おとこのこは『ぼく』で、おんなのこは『わたし』って言うんだよって、おしえてくれたの。でもゆきちゃんはちがうよ、おんなのこだも

ん」


 すると自分の名前が呼ばれたのが聞こえたのか、当の本人のゆきちゃんも私たちの姿を見つけてこちらへとトコトコとやってきた。


「ゆうと君、ぼくが『ぼく』っていうのそんなにいやなの? ぼく、おとこのこみた

いになりたいの。おとこのこってすっごいかっこいいじゃん……」


 彼女は少し悲しそうな眼をしている。

 実はこの二人はかなり仲が良くていつも一緒に遊んでいるのだ。

 友達、或いはそれ以上の関係を既に幼い心ながらも築こうとしている。


「いやじゃないけど、なんかへん。ふつうじゃ、ないっ」


 なるほどね。そういうことか。

 私は「ねえ、ゆうと君」と言って彼に視線を合わせると優しく、まるでいつも絵本を読み聞かせる時みたく、優しい口調で語り掛ける。


「自分のことはね、自分の好きなように呼んでもいいんだよ」


「なんでー?」


「その方が自分らしくいられるでしょう? 例えば『ぼく』ってどんな感じがするかな?」


「……なんか……かっこいい」


「でしょ。ゆきちゃん、こないだの運動会でもかけっこ一番だったじゃない。あのゆきちゃん、すごいかっこよかったでしょ?」


「うん。ぼくよりもはやくてかっこよかった」


「そう。そんなすごいかっこいいゆきちゃんが『ぼく』って言ったらもっとかっこいいじゃない? もっとこう、応援したくなるでしょう?」


「なる。だからいいの?」


「うん。だから逆にゆうと君が『わたし』って言っても良いのよ?」


「それはやだ! ……恥ずかしい」


「そうだよね。でもゆきちゃんはそうしてるの。なんも変なことじゃない。これも普通なの」


「ふつう……」


「だから大切なことは良い? ゆうと君? 相手の気持ちを大切にするのよ。相手に優しくしてあげるの。そうすればもっと毎日が楽しくなるわ」


「……うん。やってみる」


 コクンと頷いたゆうと君は私の背中に隠れていたゆきちゃんに


「いこうゆきちゃん、いっしょに、あそぼう!」


「うん!」


 二人は仲良く肩を並べて元居た遊び場に戻っていった。

 幼稚園生にこんな話はすごい難しいかもしれないし、しなくていいのかもだけど、私はこうやって一人一人の児童と向き合ってみんなにもっと幸せに過ごして欲しいと決めたから……



 そう――私は今、保育士をしている。

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