第81話

「なら仕方ないな……あんまり水野は傷つけたくないんだが……一発やって分からせるか」



 そう呟くと彼は私の胸倉を掴んで無理やり立たせてくる。

 私は息を荒くさせながら恐怖に怯えていた。

 怖い。

 嫌だ。

 止めて。

 でも絶対にこの目を離さない。


「ふんっ。準備は良いか? まあそうだな。憎むならこの女を憎むんだなぁ!」


 彼は次の瞬間思いっきり後ろへと右腕を振りかぶっていよいよ殴る姿勢に入った。 私はそれを見てからぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばって耐得られるわけ無いのに耐えようと必死に心の準備をした。

 もう、終わりだ……さよなら、昨日までの私。

 そして私たち。


「行くぞぉー!」


 ――ボンッ!


 先ほどのような鈍い音が耳元で聞こえた。

 でも何故かそれは私の身に起こっていなくて。

 気が付けば私の胸倉を掴んでいた彼の手は離されていて。

 そこにいるのは泡を吹いて地面に倒れ込む彼の姿だった。

 一体……なに、が……状況を把握しようと急いで周りを見渡すと、意外にもその人物はすぐ近くに。気が付けば私の肩をこれでもかと揺らしていた。


「はぁーはぁー……大丈夫かぁ⁉ 水野ぉ!」


「せ、先生……っ‼」


 そこには普段は全然頼りにならなそうで、だるそうで、弱そうで。でも実は私たちのことを陰でちゃんと見てくれて支えてくれた高野先生が心配そうな顔をしていた。


「なんで……ここに?」


「保健室に星宮がいるって先生方から聞いたから様子を見に行ったんだ。そしたら彼女が険しい顔して『月が危ない』って言って保健室から飛び出して……その危険がなにかは分からないけど、後から心配になってここに来たらご覧の有様で……」


「そう、だったんだ……ありがとう先生。先生のおかげで……って今は違うっ! 今すぐ救急車を呼んで先生! 海がっ! 海の意識が無いの!」


「ほ、ほんとにっ⁉ 分かった。今すぐ電話する‼」


 ポケットから急いでスマホを取り出した先生は、電話越しにすごい冷静な対応を取って部無事救急車を呼んでくれた。



 その後ものの数分で救急車は走ってきて海と吉原君を担架に乗せてそのまま病院へと直行していった。

 退院曰く命に別状は無いそうだから少しほっとした。

 そして残された私と先生は道路の片隅で二人肩を並べて、事の全てを話していた。


「そ、そんなことが……」


 すべてを話し終わると、先生は悲しそうな表情を浮かべて、目にはほんのりと涙をうるうるとさせていた。


「すまん、俺がもう少し早く来ていれば星宮も……」


「そんなこと、ないって。来てくれただけで十分だよ。それに先生……すごい強いじゃん……全然そんな風に見えないのにさ」


「あはは……昔はもっとガツガツしてたんだけどね。生徒に怖がられちゃってそれから大人しくしてるんだ」


「先生って意外と周りに敏感?」


「かもな」


「……」


「……」


「私……すごい怖かった」


 ちょっとの無言の間に、私の中でふと膨れ上がる思いがあった。


「ずっと良い人だと思ってた吉原君が……それに私の父親だって……」


「ああ」


「誰も私を助けてくれなかった……唯一の味方だった海もあんなになって……私怖か

った!」


「水野、お前は良く……ってうわぁっ⁉」


 気が付いた時には、私は先生の胸に飛び込んでいた。

 傍から見る先生はひょろひょろしてて頼りないけど、彼の胸板はとても厚くて、温かかった。

 頼れる大人だった。


「おまっ、なにして――」


「先生ありがとぉぉーっ」


 先生の胸の中で私は泣いた。

 ポロポロ、ボロボロと安心と不安の涙は私の無意識下で延々と頬を伝い、先生の白いシャツをゆっくりと湿らせていった。

 先生は一瞬ためらうような素振りをしていたが、少しして私の背中に腕を回して優しく包み込んでくれた。


「……本当によく頑張ったな、水野。もう全部終わりだ。もう大丈夫だぞ」


「……うん……私ぃー……っ、頑張ったよぉ……っ‼ 」


 もう辺りは暗い。

 こんな生徒と先生がこんな時間にこんなことをしているのを誰かが見たらすぐに通報されるだろう。

 でも私は。

 そんなことがどうでもいいくらい、今は先生に溢れる感謝を伝えたかったのだ。

 とても長くて、苦しくて、悲しくて、でも救われたこの一日に幕が閉じた。


 全部終わった。

 いじめもトラウマも複雑に絡んだ人間関係も。全部。私を取り巻いていた死ぬほど嫌なものが全部消え去った。

 中学校から始まって……長かったなぁー……


 私は嬉しいのか悲しいのか分からないまま

 きっと味はしないだろう。


 そして、虫たちもまだ

 きっと笑っているだろう。

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