第67話

「月、出番だよ」


「うん」


 いよいよ残るは私たちだけとなった。

 ステージ裏とステージの入れ替わりの際、さっきまで演奏していた沢野たちとすれ違う。


「ミスしたら、がっしゃーん……だからね?」


 耳元で舐めるような声を囁かれた。

 ギターを思いっきり地面に叩きつけるジェスチャーをした沢野の顔はこれまで以上に口元にしわを寄せていて、これでもかと歯を見せていた。


「どうしたの月?」


 立ち止まっていた私に、ステージへと出かかっていた海が戻ってくる。


「不安になってきた?」


「そんなんじゃ……ない」


「嘘つき」


「え……?」


「手、震えてるよ」


 いつの間にか小刻みに振動している私の手を、すかさず海が握る。


「僕を見て」


 俯いていたら、下からのぞき込むように海が視界に現れる。


「僕たちならいけるよ」


「……ごめん、ね。急にさ、怖くなっちゃったの。沢野の言葉で昔のこと思い出しちゃってさ。笑っちゃうよね……威勢良くしてたのに、本番前に弱気になってる自分がいて、さ……」


 本当に私は弾けるのか。

 笑顔でいられるのか。

 あの頃みたいにみんなを笑顔に出来るのか。

 色んな感情がパレット上でぐちゃぐちゃに混ざって、気が付けば真っ黒になっていた。


「海……私さ……って、んっ⁉」


 途端に海の顔が急接近してきて思わず目をぎゅっと閉じる。

 そして


 ――ぷちゅり


 キスをされた。

 それは愛を確かめ合うようなものじゃなくて、相手を安心させるような、温もりを分け与えるかのような、優しい天子のキスだった。

 今まで何回もしてきたけれど、今このキスが一番温かい。

 本当に海の体温が私に憑依してくる不思議な感覚。


「ちょ、ちょっとうぅ海⁉ い、いきなり過ぎだしここ学校だし――」


「怖くなくなった?」


 あたふたして目が回る私の言葉の上から、海が柔らかい頬をほんのりと上に運び微笑する。


「……うん、大丈夫、だけど……」


「それは良かった。いけそう?」


「…………うん」


「よし! じゃあ行こう月。最高の演奏をしようっ!」


 海は再び手を差し伸べてくる。

 垂れ幕から零れる光で海の表情は陰になってあまり見えないけれど、その手だけははっきりと見えた。

 豆だらけの手。努力の結晶が散りばめられている。


「うん」


 もう手の震えは収まっていた。

 怖い感情も何処かへ飛んでいった。

 たったキスの一つなのに。

 それはここまで私を変えてしまう。

 そんな都合の良いことあるかって? 

 あるよ。

 だって私は今恋をしているから。

 愛はすべてを朗らかに包み込み、二人の心の距離をフワッと結んでくれる。

 彼女と出会って。

 何度も何度も海は絶望の淵から私に手を差し伸べてくれる。

 初めはその手を取るのをためらっていたけれど。

 今はしっかりと掴むことが出来る。

 はぁー……やっぱり、さ。



――私は海のことが大好きだ


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