第54話

 その後の週末は例によって海の家でバンドの練習会を行った。

 オリジナルの曲を作り終えた今、これを弾けるようになるのが最優先目標である。


「ここ難しいぃー!」


 何度も間違えて駄々をこねる海。

 その幼さと可愛さは、一瞬彼女を幼稚園児だと錯覚してしまいそうなくらいだ。


「ほーら、もう一回やってみる」


「ここどうやって指やるんだっけ?」


「昨日、教えたじゃん」


「そう、か。そうだったね……」


 私に言われて思い出したのか、海の表情に陰りが見えた。


「やっぱダメだね、僕」


「あー、い、いやぁ! 今のはそういう意味じゃ……」


 海もハンデを背負っていることをちゃんと理解しないといけないのは私の方だ。

「良いんだ。ちゃんとノートに書いてなかった僕が悪い。忘れないように書いとかないと!」


 海はギターを始めてから、いつでも書き込めるように、確認できるようにいつも手元にノートを置くようになった。

 忘れて覚えて、また忘れて、覚えて。

 一度楽器をやったことのある人なら分かるだろう。

 この頭から抜けていく気持ちを。苦労を。自分自身への嫌気を。


「そう言えば月の方は大丈夫……? まだ手は……うん。ちょっと震えてる」


 海が私の手を上から包み込んでくる。細くて長い、綺麗な指。

 でも、確かに熱を帯びていて、それでいてとても頼りがいのある大きな手だった。そして幾つものマメができていた。


「まあね。流石にまだ万全の状態じゃないよ? 弾いてるとやっぱり思い出しちゃう……」


 思っている以上に恐怖は体に馴染んでいた。

 それを解くにはやはり沢山弾くしかない。


「まだあと一か月あるよ。徐々にお互い慣れていこうよ。ね、月?」


「分かったよ、海」


 うっすらと柔らかい笑みで私の顔を覗きこんできた海に、私は瞳を奪われる。

 なんだか今の海はちょっと火照ったような雰囲気で。

 その白い頬にもうっすら桜が咲いていた。

 今は夏だ。


「月……」


「海……」


 いつの間にか、お互いの吐息が顔に当たるほどの距離になっていた私たちは、そのまま目を閉じてキスをした。

 まどろむような彼女の瞳も、ふっくらとした彼女の感触も。

 私はいつまでも経っても忘れないし、海にもいつまで経っても忘れて欲しくなかった。

 囁くように愛を伝えた。



 週末は無情にも終わり、また新しい一週間が始まる。

 相変わらず平日は勉強漬けの日々であり、精神がおかしくなってしまいそう。

 更に追い打ちをかけるように、太陽は刻々と熱を帯びていく。

 また今年もニュースでは「十年に一度の猛暑」なんて戯言が流れている。

 「それ、去年も言ってたよね?」と思ってしまうのは私だけ? 

 そんな疑問が溶けるアイスをペロンと舐めながら頭上に浮かんでいる。

 そしてようやくまた週末に入った。

 勉強からお唯一の解放、そして「彼氏」との対面。

 これが最近の私の生きがいだ。


 ――ピンポーン


 酷暑の中、なんとかたどり家に辿り着いた私は、この大きな家には似つかわしくない小さなインターホンを押す。聞こえて来た声の主は意外なものだった。


「どちら様ですか?」


 真紀さんだった。いつもならこの時間帯にはいないはず……


「あ、あっ。み、水野です。星宮さん……じゃなくて海を訪ねてきました……」


 未だに私はこの親たちが苦手だった。嫌いとも言うべきか。


「ああ、水野さんね。仲良くしてもらってる。ごめんなさい、海は今、家にいないの」


「えっ……いないって……」


「そうよ……海、今病院に急遽いるの。真人さんが同伴しているわ」


「海っ!」



 私は急いで病院までかけていった。

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