第49話
「くそっ! あいつら、月が弾けないことを分かった上で……っ!」
学校から私の家への帰り道、海と私は田んぼ沿いをそろそろと歩いていた。
空は灰色に染められ、今にも雨が零れてきそうなほど、厚い雲の羽をこれでもかと伸ばしていた。
「どうにかして出ない方法はないの⁉ 先生に言って取り消してもらうとかさっ」
「……無理だよ。先生たちは行事に関して一切不干渉だよ」
「じゃあっ、今度の委員会の時に私たちで委員長に直接かけあってみようよ! 本当はやりたくないんですって!」
「……エントリー用紙に『却下不可』ってあったから無理だよ」
「っ……ならっ、もっと別の方法で――」
「いい加減にしてっ‼」
気が付けば道路の真ん中で地面を見つめて叫んでいた。
ごぉー……と雷の音が体に響く。
「つ、月……?」
「どう考えたってもう無理だよっ! 私ギターなんか弾けないし、弾きたくもない! でも弾かなかったらまたあいつらに陰口言われる。恰好のネタにされる! もう……私は……っ」
「ぼ、僕がなんとかしてみせるって‼ 安心してよ! 大丈夫だか――」
「大丈夫って言わないでって言ったじゃん! 私は……全然大丈夫なんかじゃないよっ‼」
海の説得を腕を振って遮り、私は喉がはち切れそうなくらい動悸が激しくなる。
「海、私のこの感覚分かる……っ? ギターを持って平常でいられると思うの……っ? 何度も罵声を浴びて、何度もなにかを壊されて、何度も暴力を受けて。クラスの晒し者にされて……っ‼ あいつらは今回で完全に私を堕としにきてるのよ……? 私にとって……ギターはトラウマなの……そんな状況で、大丈夫なんか軽い言葉を使わないでぇっ‼」
ぽつぽつと重たい雲から雫が落ちてくる。
髪は次第に濡れ、頬を伝い、まるで私の生気を吸い取るかのように、冷たいベールで私を覆う。
アスファルトの濡れた匂いが体にこびりつく。
「第一、海にギターも無理だよっ! だって忘れちゃうんでしょっ⁉ そんなん出来ないに決まってるじゃん! 海はいいよ、嫌な思い出だって忘れられるよっ! でも、私は一生背負って生きていくんだっ! 忘れることなんか出来無くて、体にその見たくもない跡を残して、一生苦しめられるんだぁーっ! もう嫌なのぉー……っ」
私は最低なことを言っている。
海だって望んで病気を背負っているわけじゃないのに。
でも今だけはその苦しみさえも私には眩しく輝いて見えた。
「月……」
海は茫然として私を見つめる。
透明の傘越しに見えていた彼女の顔はすっかりと水滴でぼやけて見えなくなる。
雨は依然として激しさを増し、私の感情と呼応してるみたく、無情にも私のすべてを洗い流す。
「そう、だよね……」
私たちはもうダメなのかもね。
私は海を傷つけた。
もう彼女の隣にいる資格なんて……
自分に言い聞かせるように、下唇をぎゅっと噛んでいると。
――ぱさ
目の前で傘が落ちる音がした。
「でも、やっぱり、さ。僕たちなら上手くやっていけるよ。ここまで頑張ってきた僕たちだからこそ。だからさ、大丈夫なんかもう言わない。月、頑張ろうよ」
「……っ」
気が付けば海に抱き着かれていて、思わず私の手から傘がポンと離れていく。
雨は冷たく私たちを流していくのに、体の内から温かい熱が少し湧いているのを感じる。
「頑張ろうよ、僕たち。体育祭だって頑張れた。文化祭だって、さ。それで……これからもずっと一緒にいようよ。僕はやっぱ月が隣にいないとダメなんだ。寂しくて泣きそうなんだ」
「う、海……」
「実は、さ。僕、記憶忘れちゃうって言ったけど、唯一忘れられないのがあるんだ」
「……なに?」
「月を助けたあの日のこと。少年院で過ごした数年間、一秒たりともあの日のことだけは忘れなかったんだ。どんなに苦しいことがあっても、傷ついても、死にたくなっても、あの日の月の表情が忘れられなかった。他のことは忘れちゃうのにね、なんでだろう。それで気が付いたんだ。僕にとって……月はトクベツな存在なんだって」
「……そう、だったの……?」
「うん。だから、月。最後にもう一回チャンスを僕に欲しい……もう月を不安にさせたりしない。誰からも傷つかせない。僕の目を見て。手を握って。胸に手を当てて。僕だけが、いつまでも月の隣にいるから」
嗚呼、どうしてなんだろう。
さっきまであんなに海と私自身に憤怒していたのに、こうも簡単に解けていくのは。
今、一番欲しかった言葉を海は言ってくれた。海に言って欲しかったのは「大丈夫」なんていう「安定」なんかじゃなくて「頑張ろう」という「前進」だった。
まず他人を信じてみること。
ここからなら――絶望の一歩手前を経験した私たちなら、もう一度だけ這い上がれるかもしれない。文化祭も、いじめも、私の親のことも、海の病気のことも。
そして受験も。
「…………私も、海の手なんか一生離してやんないから」
「もう、大丈夫?」
「……うん。傷つけるようなこと言ってごめん……病気のことも海頑張ってるのに私……っ‼ 本当にごめん、なさい……っ」
「良いんだ、全然。僕も悪かったからさ。もう泣かないで。雨になっちゃうよ?」
人生で最大の山場を、海となら、乗り越えられる気がした。
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