第29話

 風呂場は見たこともないような広さと豪華さで、あわや腰を抜かしそうになったが……なんとか持ちこたえた。でもその後、普通に足を滑らせた。


「海と同じ匂いのシャンプーとリンス……」


 なにちょっとそんなこと考えて興奮してるの私? 

 同じだからなんなのよ……ねぇ?

 存分にお風呂を楽しんで海の部屋にそのままお邪魔すると、海はベットに座って私の帰りを待っていた。

 なんだか、表情がとても落ち着いていて、ふんわりしていた。


「こっち、おいで」


 海が自分の隣をポンポンと叩くので、私はまだ生乾きの髪をタオルで包みながら海の傍へと腰を下ろした。


「いよいよ明日だね」


「うん」


「緊張してる?」


「ちょっとだけ……でも楽しみ」


「そっかー……僕も月との体育祭、すごい楽しみ」


 一つ一つの言葉の間がいつもより長くなる。

 海と私は同じ天井を見つめていた。


「ねえ月? 月はさ……僕と一緒に居て楽しい?」


「急にどうしたの? 海らしくないよ?」


「……っはっは。僕もさ、たまに思うんだ。もうこの際ぶっちゃけるけどさ……確かに僕は五年前月を助けた。それで今こうして月と一緒にいる。でも……怖いんだ。逆に言えばさ、僕は月にとって自分を助けてくれただけの存在で。すぐに僕の手の届く所から遠ざかって行っちゃうんじゃないかって。僕は本当に月のためになにかしてあげられてるかなって……」


 本当に海らしくない萎れた声色。

 それはすぐにこの部屋の空気に消えていった。


「……そんなことない! 確かに最初はちょっと驚いてたし怖かったよ? いくら助けてくれたからってそのー……距離の詰め方がすごいし。ほら、私いじめられてるしさ。私に絡んで良いことなんてないから、海のこと意識的に遠ざけてた」


「だよね……」


「でも違うの聞いて! でも……海と過ごして分かった。今の私には海が必要なんだって! 私は人付き合いが苦手だから、伝わりにくいかもだけどさ……」


 この約二ヵ月を過ごして、ずっと心の中でモヤモヤしていたものが、今晴れる気がした。


「私は海と一緒に居れて幸せだよ」


 ずっと他人を避けてきた私。

 そのフィルターを海にもかけていたせいで、初めは本当の海をこの目で直に見れていなかった。

 先入観という色眼鏡をかけていた。

 でも今は違う。

 私が望んでいた日常をくれて。

 たくさんの愛をくれて。

 まるで膨らむ風船みたく、もう両手には収まり切れないくらいに、計りし得ない希望を海は私に届けてくれた。

 やっと、この想いに気が付けた。

 私の言葉を聞いて、海はゆっくりとこちらを見てくる。

 その瞳にはほんのり揺らぎが見えていて、うるうるとした視線は私を掴んで離さない。


「本当に?」


「うん。本当に」


「本当に僕は月と一緒に居ても良い? これから先もずっと……?」


「うん。ずっと居ていいよ。ずっと居て欲しい」


「そっか……それじゃあ良かった……!」


 そこで一つ笑うと、同時に一つ雫が頬を伝う。

 それがほんのりとピンクに染まった唇に吸い込まれていく様子に私は………


 ――ペロン


「……涙ってこんな味、なんだね」


 人差し指で拭って、そのままあの時の海と同じように舐めてみせた。


 ――ちょっとしょっぱい


「っていうか、なんで涙なんか流すの? そんなに……私のことで不安だったの?」


「……ううん。言われてみればなんでだろうね。自分でも分かんないや」


 ここで一呼吸。

 不思議と私の鼓動は早くなっていた。


「最後に一個、月にお願いしても良い?」


「うん。いいよ。なにするの?」

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