第30話

「最後に一個、月にお願いしても良い?」


「うん。いいよ。なにするの?」



「僕から月への日頃からのプレゼントがあるから……目、瞑ってくれない?」


「そんなもの用意してくれたなら私だってしたのに……」


「いいんだ。僕の一方的なプレゼントだから。瞑って、くれる?」


 やけに潤んだ声で海は私に囁くので、私も大人しく目を瞑る。

 私はどんなものが目の前に出てくるのか期待で胸を膨らませながら、海の声を待っていると「っふー」と彼女の深呼吸が近くで聞こえてきた。


「じゃあ、行くよ」


 チロッと唇を舐めるような音がした次の瞬間。


 ――ちゅ


 深い温かみを持った柔らかいものが私の唇に当たった。


 私のガサガサなそれとは違い、確かな潤いを保ったそれはついばむように私の唇をツンツンとつつく。


 まるでお互いの感触を確かめ合うように、ただひたすら自分はここにいるのだということを示しているように。


 時間でいえば数秒のことなのに、数分も経っているような感覚に陥る。


 ちょっとくらくらする。


 顔が熱い。


 湯気が出てきそうなほど、体も火照る。ピリピリとする。


 雷に打たれたみたいな、レモンの味。


 そんな一瞬の出来事に、私は驚いてすぐさま目を開くと、顔の前には赤らんだ頬と、とろけるような瞳に私だけが映ったミルク色の白い瞳があった。

 潤いは哀から愛へと変わり、ただひたすらにその純粋な眼差しを、私になにか求めるかのように訴えかけてくる。


「えっ、ちょ、ちょっと、海、なにして――」


「黙って」


 ――ぷちゅ


 口を塞がれ、もう一回。


 今度は海の唇の形が分かるくらい押し付けられた。


 そこで初めて私は自分の輪郭を知る。


 人は内と外との間隔をすぐ失ってしまう。


 そんなもの複雑な人間関係の中で脆くて消えてしまいそうで。


 だから寂しさに溺れて悲しくなる。


 だから他人がいるのだろう。


 寄りかかれるように。


 自分を見失わないために。


 誰かに自分を見つけてもらうために、人は触れ合い、形を確かめ合い、安らぎを得る。


 もう頭の中はぽかーんとしていて、この不思議な甘い感触だけで脳が埋め尽くされていた。

 内から熱という熱が湧き上がり、息遣いも荒くなる。


 はぁーはぁー……まだ、するの……?


「っぷはー……はぁーはぁー……」


「はぁーはぁー……」


 ようやく海は私の唇を解放して、酸素を奪い合うかのように私たちは激しく息をする。

 鼻と鼻が触れ合う距離で私たちは見つめ合っていた。

 今だけは私の瞳にも海しかいなかった。


「う、海……これは……」


「……っはっは、なんで、だろうね。こんなこと……月は、嫌だった……?」


「嫌、というか、びっくりというか……分かんない。でもこんなことはきっと恋人同士がするやつで……私たち女子同士がするようなことじゃ……」


 意識が朦朧としていて今この感情を表せるだけの語彙力が足りない。

 でも今私たちがしたことはおそらく多くの人は経験しないだろうということだけは分かった。


「それは……ごめん」


「謝るようなことじゃないよ。けど……なんかいけないことをしたような気分な、だけ……」


「……月の優しい言葉を聞いて、顔を見たらなんだか抑えられなくなっちゃって……言葉だけじゃ伝わらない。伝えきれない。だから、どうにかして今の気持ちを月と共有したくて……」


「……」


 海のその言葉と表情に嘘は無くて、私はただ彼女の言葉を俯きがちに聞くことしか出来なかった。

 この状況にどう答えていいか分からなかったのかもしれない。

 それとなく無言が続き、気まずい雰囲気になると海の方から


「……あっ。僕、あのクソ親どもに用事を思い出したから。月は気を付けて帰ってね。暗いから足元に気を付けないと、明日の体育祭が台無しになるよー」


 取って付けたような文句を呟いて、海はせっせと部屋を出ていった。


 一人、部屋に残された私。

 外はもう帳を下ろしている。

 言われた通り、帰る準備をするのだが、頭の中はさっきまでのことで一杯だ。


 何度も自分の唇にそっと触れてみる。

 まだ微かに温かい。

 海の唇の形も思い出せる。

 彼女の表情も鮮明に思い浮かべられる。

 なにもそこには無いのに。

 何度も唇に触れた指を確認する。

 まるで名残惜しむかのように、その触れた人差し指をじっと見つめる。


 ――私は、海とキスをした。


 それは私が海を好きだから? 


 違う。


 じゃあ海が私を好きだから? 


 それは……分からない。


 分からない。


 海はこれまでずっと私に「好き」と言ってくれる。


 ねえ、海。

 その「好き」ってどういう好きなのかな? 


 それって友達同士の「好き」なの? 


 それとも……異性?


 もしかして。


 そういう本当の「好き」なら私はちゃんとそれに向き合わないといけない。

 答えないといけない。


 海の目は私に答えを求めていたようにも思えてきた。


 ――でも私たちは女の子同士だ。


 異性じゃない。


 じゃあ、本当にそういう「好き」って許されるのかな? 


 "みんな"は認めてくれるのかな? 


 もし海の気持ちを受け取ったとしてその先はどうなるの? 


 上手くやっていけるのかな?

 色んなことが頭を駆け巡る。

 子供の私には難しい。


 この感情を整理するには時間がかかりそうだ……明日は体育祭なのにね。


 私の短くなった髪はとっくに渇き、海みたく良い匂いを醸し出してさらさらになっていた。



 私は――もう一度、唇に触れた。

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