第8話

「もう一回聞くよ。誰の仕業?」


「……」


「……分かった。それが月の答えね。待ってて」


「え……ちょ、ちょっと⁉」


 私の意志に反して、彼女は本能で動いていた。

 

 海はその場でボンと立ち上がり周囲を見渡したかと思うと


「おい、お前ら! まだこんなしょうもないことやってんのか! 相変わらずゴミだなぁ‼」



 ある一点に強くて痛々しい眼光を向けながら指をさす。

 その線の先には、陽キャ組がいた。

 いきなり大きな声を向けられたので、彼らは一瞬で陰湿な笑いを止めたものの、すぐに威圧的な視線を差してきた。


「おいおい、なんのことだよ星宮~? いきなりそんなこと言うなんて。そもそも一体なんの話だよ? そこから教えてくれよぉ~」


 青柳とはもう一人の生徒――頭を坊主にしている反町そりまちが体の前で大袈裟に両手を振る。

 あの中では一番筋肉質で喧嘩好きな奴だ。私も何度もこいつに殴られた。

 メンチを切りながら、段々と互いの距離は近づいていき、遂には、両者が腕を伸ばせば当たるような位置でにらみ合いをし始める。


 チクタクチクタク――

 時計の針の音がうるさかった。


 私はなにも出来ずに、ただ突っ立って海の後ろ姿を見ていた。


「覚悟は出来てんだろうなあ⁉」


 反町が戦いの一歩をドンと踏み出した――その瞬間。


 ――ガラガラガラ!


 まるでこのタイミングを見計らっていたかのように、職員室に戻っていたはずの高野先生が教室に入って来たのだ。

 そしてしばらくクラスを見渡していた先生は、私と目が合った瞬間、またすぐに視線を交戦一歩手前で会った二人の方へと向ける。


「星宮と反町、なにやってんの?」


「おっ、先生! 良い所に来たねー。実はこれからこいつと――」


「なんでもねーよ!」


 海の声をかき消すように慌てて反町が大きな声を出す。

 先生は依然として無表情のままだ。


「本当だぜ、先生? 星宮もそうだろ? ほらっ、ちゃんとお前も言えよ!」


 彼としては――彼らとしては犯行の瞬間を見られたら当然困る。

 勿論私をいじめていることだって明らかになってしまう。それはなんとしても避けたいのだろう。


「嫌なこったい」


 海は両手を頭の後ろで組んで、口笛を軽やかに吹き始める。

 綺麗な音色だった。


「結局なにもないんだな? お前ら」


「なにもありませんよ、先生。っていうか先生は一体なんのようですか? ホームルームはとっくのとうに終わったじゃないですか」


「自分が担任をしているクラスに来るのになにか理由が必要か? それともよっぽど俺が来たら困るようなことでもしてたの?」


「……ちっ」


 これには反町もなにも言い返せなくなり、いら立ちを隠しきれていない。

 対する先生はそんな威圧的な態度を取られてもなお、一切怯む様子を見せない。ガタイの良さで言えば、先生も反町もほぼ同じであるのに。

 怖くないのかな……?


「あーあ。折角のいい機会だったのに残念。まあ今日のところはこれくらいにしとくかー」


 先生の登場によって場が落ち着いたので、海が笑顔を見せて背伸びをする。


「よしっ。じゃあ月、一緒に帰ろうよ! 今ならオッケーしてくれるよね?」


「え、あっ……」


 いきなり聞かれて一瞬口がどもってしまうも、今は海という緩衝材がいた方が私にとって安全……ここは仕方がない、か。


「う、うん。帰ろう、海」


「うんうん! そうこなくっちゃ、月!」


 よっぽど私のイエスが嬉しかったのか、早く早くと残った荷物の整理を急がせて私の腕を強く優しく引っ張ってくる。

 思った以上に彼女の手は大きかった。


「あ、でも財布……」


「いいよ。そのことに関しては僕が後でなんとかするからさ」


 そうしてクラスを足早に出た私たちであったが、廊下から階段へと向かおうとした矢先、いつの間にか教室から出ていた先生に待ち伏せされていた。


「おい、水野」


 呼び止められた私は足を止める。

 海は階段の半分を下り終わろうとしている所で私が立ち止まっているのを見ていた。


「なん、ですか、先生」


 やっぱりいざ先生を目の前にするとちょっと怖い。声も低くてコワいのに、体も大きくて本能的に怯えてしまう。

 私は彼らの恐怖に毒され過ぎているんだろう。


「水野、お前……」


 ようやく口を開いたかと思うと次の瞬間、先生は


「あいつらにいじめられてるだろ?」


 今日一番の重々しい声で淡々とそう言われた。


 ――ドクン


「え、なんのことですか? 私はなにも――」


「無理はしなくていい。ただ大事になる前に手を打たないとお前が一生苦しむ」


 ――ドクン


 もう元には戻れないくらい苦しんでるんだよなぁ……


「だからなにかあるなら俺に言ってみろ。少しは役に立てるか――」


「……黙ってください」


 自分でも驚くほどに喉の奥で潰れた声が出る。

 これは親に毒を吐く時並みの憎悪の感情だ。


「あなたに私のなにが分かるんですか? あなたになにが出来るっていうんですか? 私のことを知ったかぶらないで下さい」


「……」


「教師はあんま無責任なことは言わない方が良いですよ? 生徒は余計期待して傷つきます」


 海には決して聞こえない声の大きさで、目に力を入れたまま先生を見上げた。


「……水野がそう言うならいい。もう止めだ。悪かったな」


「はい」


 これ以上の詮索は観念したらしく、海の方へと視線を向けて、いいぞ、と合図してくる。私も大人しくそれに従って歩き出す。

 もう、この話題について話したくもなかった。

 立ち去る時、最後に先生がもう一言独り言のように呟いた。


「この世に絶対的な正しさなんてない。だから自分が正しいと思ったことを信じて進んでいくしか人には出来ない。でも、厄介なのは人それぞれの正しさの基準が違うことなんだ」


 それがなにを意味するのか、今の私にはさっぱりと分からなかったので、聞こえなかったふりをして待ってくれていた海の元へと向かう。


「なに話してたの?」


「なんでも……ない」


「ふーん。じゃっ、今度こそ行こうか!」


 彼女の頭上に窓から木漏れ陽が指して、その透き通る銀の糸を淡く温かく染めた。


 それはただひたすらに眩しくて、一凛の白いバラが咲いているような可憐さだった。

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