第1章 メモリアの少女

第3話

 時は無情にも流れ行き、今日は四月の上旬。

 ついに高校三年生の幕開けの日となった。


 これからの一年で起きることは全て「高校生活最後の」という、一種の感嘆と悲しみを与える枕詞が付くけれど、今の私には殊更関係が無い。

 それはまるで頭上にどこまでも広がる白い雲を掴むようなもの。

 私にとっては今日を生きるのが精一杯だから、三年生になったとて、運命というものは、なんら痛みや悲しみを待ってくれやしないのだ。

 暖かい季節とは裏腹に、そんな冷めた思いで目が覚めた私はリビングへと向かう。

 今日はそこに珍しく父親がいた。


「ん? ああ月か」


 この人も「おはよう」とは言ってくれやしない。


「帰ってたんだ」


 別に嬉しくともなんともないから淡白に声をかける。

 むしろ皮肉さえ交えた。


「ああ。立て込んでた仕事がようやく終わってな」


「そ。母さんは?」


「ああ……あいつは今朝俺の顔を見るなり、どっか外に泣きながら出ていったよ」


「追いかけなくていいの?」


「ああ。別に追いかけたところで意味ないだろ」


 彼は私の顔なんか見ずに、終始コーヒー片手に新聞を広げている。

 ここにはまだゴミが散乱しているにそんなものはお構いなし。

 まるでこの家の部外者かのように彼はこの空間にいる。

 果たしてこれは「家族」と言えるのだろうか? 

 つくづくそう思う。

 それに、私は彼の言葉が嘘であることを知っている。

 彼は今も綺麗に仕立てたような紺色のスーツを着て、いかにも高級そうな腕時計をキラキラ目立たせているけれど、実際はそんな有能サラリーマンなんかじゃない。ちっぽけなこの田舎のちっぽけな会社で、毎日ちっぽけな取引先に頭下げて回っているような低年収の平社員なのだ。

 その上、この親たちはお金持ちだったおじいちゃんが死んだ後、その全財産を使い切り、挙句の果てに私を今の中高一貫校に通わせ、将来の私にお金を工面させようとしているのだ。

 ほんと、クソだ。どいつもこいつも。



「らららー……♪」


 外に出ると妙にぽかぽかとした空気が、鼻歌を歌う私の鼻の頭をそっと撫でた。

 長かった冬はようやく眠り、その背後から春がこんにちはと姿を現す。

 緑色の田んぼの向こう側に見える桜の樹々は暖かい季節を祝うように、その淡いピンクの花びらを宙に舞わせ踊っている。

 落ちてから相当時間が経っているのか、道に落ちている花びらは少しばかり茶色く汚れていた。

 私はその上から更にそれを踏みつける。

 綺麗なものをもっと醜い姿にしてやりたい衝動に駆られたのだ。

 私よりもっと醜くなれ。

 ちなみに今日は自転車通学ではない。

 というのも、あの日――二年最終日に散々ビンタをされなんとか耐えたものの、心はぽっきりと折れていた。

 早く帰りたい。そんな思いで終業式を終え、すぐに駐輪場へ向かうと、そこには金属バットで殴ったのか、原型を留めていないぐちゃぐちゃな私の自転車が無残にも転がっていた。

 要するに、あいつらにしてやられたのだ。

 だから今日は徒歩。

 生憎新しい自転車を買うようなお金も持っていない。

 家のお金は全て学校の授業料で消えていくのだ。

 勿論、親の稼ぎは蟻みたいなもんだから。

 歩くのは時間がかかるけど、たまにはこんな通学もありかなと思っていると、ふと後ろから聞き慣れない異質なエンジン音がした。軽トラでもショベルカーでもない音。

 なんだろう?

 気になって音のする方に振り返ろうとしたその瞬間――この古臭い緑の田舎にはとても似つかわしくないほどの、漆黒を模した車が体の横を走ってきた。


「おっと」


 私はぶつかりそうになり、思わず田んぼの淵の近くへとポイっと横跳びをする。


「びー、えむ、だぶりゅうー? ……あっ、BMW」


 スマホで見たことがあった。

 東京では良く見かけるお高い外車だ。十七年間生きてきて初めて見たかもしれない。

 それにしても一体どんな人が乗ってたんだろうか? 

 私が思うに、きっと人生の成功者でお金持ちで人徳のある人が乗っているに違いない。

 きっと現代風の素晴らしい思考を持っているに違いない。

 いいなぁ、うちとは天と地の差だ。


 オイルの匂いにほんのり湿った、汚れた花びらがさらっと私の視界を遮った。


 あらら、もうこんな近くに学校が。

 どうせ今日も良い事なんてありやしない……

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