第2話

 ――ガラ、ガラ、ガラ……


 日に日に重く感じるこのドアを開けると、教室にいる人たちの視線が一斉にこちらへと向けられた。

 これは決して私がいわゆる「人気者」だからではない。

 むしろその逆。

 原因は窓際にある自分の席に行くとすぐに分かった。


『死ねよ ゴミクズ 首釣って消えろ 自殺しろ なんで生きてんの 人生無価値 きもい 本物のブス デブ小人 淫乱ビッチ 性奴隷 援交女 パパ活って楽しい?』


 人間が考え付ける限りの罵声が「水性ペン」で私の机や椅子に書かれていた。

 油性の方が消えないから良いと思うかも知れないが、そうすると誰がやったからの証拠が残る。

 むしろ水性の方がすぐ消せて何度も何度もいくらでも罵倒を書き続けられる。

 ある意味、頭が良い。

 私がこれをあとで消すことも、先生に言わない――言えないことも分かっての行動だろう。

 今まではずっと物を盗まれたり、教科書を破られたり、バケツの水を浴びせられたり。

 中に「それ」が詰まったコンドームを下駄箱に入れられたり、ゲロをカバンに吐かれたり、校舎裏で殴られたりと、私自身に対しての攻撃だった。

 が、それもとうとう本格化してきた。

 二年生の最後の日にこうするということは、三年からはいよいよ私の身も心も殺すつもりでいるのだろうか。

 ただ、いくら心を傷つかれようとも私はそれを表には出さない、出せない。

 出したらこれを書いた奴らが私のうろたえる様子を見てひゃっひゃと陰で笑い、もっと酷いことをする。

 もっと酷い事――その言葉は、朝起きた時のお腹の痛みを再び思い出させるものだ。


「よおぉ~元気にしてるぅ~?」


 ある男がポッケに手を入れながら近づいて来た。


「……」


 いつものように私は無視する。こいつの顔なんか死んでも見たくなかった。


「お~い、聞こえてますかぁ~? 水野みずのさ~ん? 無視すんならぁ~……」


 顔を伏せて視線を避けていると、いきなり私の前髪をかき分けて無理やり顔をぞろりとのぞき込んできた。

 目の前に男の顔が現れる。


「っておいみんなぁ~! 水野は今日もきっしょい顔してんぞぉ~! ほらっ見てみろぉ!」


 生首を晒すかのように力強く髪を鷲掴みにして私をまるで見せモノのように扱う。

 私は強引に視界を前へと持っていかれ、みんなの反応が嫌でも瞳に映った。

 「ぶっすー! やばすぎw」と猿のように手を叩いて笑っている男女四人組。

 これと目の前にいる男子がまさに私を五年間も壊し続けてきている。

 そしてこの五人以外のクラスのみんなは……ただ傍観しているだけ。

 なんとかして笑顔を作り、同調するかのような態度を見せる。


 結局のところ、いじめっていうのはこんなものなのだ。

 誰か複数人がある一人をいじめ、他の人は見て見ぬふり。

 だって反抗なんてしたら今度は自分がいじめられるかもしれないから。

 人間ってのは自分が良ければそれで良い生き物らしい。

 そうやって今まで進化してきた。


 ――私は五年間、全てを恨んでいた。


 この五人組に。

 見て見ぬふりをして、私を犠牲にして、安泰に高校生活を送るクラスのみんなに。

 救ってくれない学校に。

 夫に見限られてよその女に寝取られるような母親に。

 そんな憎しみを沸々と内に秘めて、この男の顔を見ていると


「あぁ? なんだその反抗的な目は? 文句あんなら言ってみろよぉ~!」


 しまった! 考えてたことが表情に……っ。


「なにも」


「なんだその口の利き方は? 奴隷なら奴隷らしい態度してろよなあぁ⁉」


「ほ、ほんとになにもないから!」


「やっちまえ青柳あおやぎ~!」


 こうなってしまうともう遅い。

 あの四人組がこの様子を見てこの男――青柳を囃し立てる。

 すると彼は「じゃあ、いっくぞ~!」と彼らに笑顔を見せたかと思うと……


 ――パチン


 痛い。

 彼は左手で私の髪を掴み、自分の顔の前に持ってくる。

 次の瞬間、右手で思いっきり頬の辺りをビンタしてきた。

 予想以上の激痛に私は叩かれた頬を抑えながらその場に膝から崩れる。


「おらぁ、誰が勝手に座っていいって言った? 立てよおらぁ!」


 また髪を強引に引っ張られて、私は操り人形みたいに立たされる。

 否、私に人権はない。


「二発目いきま~す!」


 ――バチン


 痛い。

 もう本当に精神が崩壊しそうだった。

 しかもこれで終わりじゃない。

 一時間目が始まるまでビンタされ続けるだろう。昨日のお腹を蹴られたのもそうだった。

 どんどん私の体は痛み、傷つき、壊されていく。

 気が付けば私は深い穴に落ちていて、救いの光はここまで届かない。


「もう止めてぇっ!」


 これが限界だと思った。

 いざ完全な暴力の前になると、いつも私は私でいられなくなる。

 アイデンティティ崩壊どころじゃない。

 「もう止めてぇーっ!」とありったけの声をもう一度。

 でも、彼らは私の声を聞いて余計嬉しそうに、顔白の悪魔みたいな笑顔を浮かべる。


「止めねーよば~かぁ!」


「ほんとにもうやめておねがいーっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいって‼」


 私の叫び声と叩かれ続ける鈍い音だけが、この腐った教室に反響する。

 その悲鳴はす誰の耳にも受け付けられず、何処か記憶の彼方へと抹消されていって……誰も助けてくれやしない。


 ――こんなことが繰り返される度に私は思い出す。


 五年前、両親の意向で入ったこの中高一貫校。

 入学して半年経った頃にはもうこうだった。

 今よりは酷くないけど、私は捕食される側の人間だった。

 生物ピラミッドの最下層だった。

 当時から私は死にたかった。

 このちっぽけな世界を憎んでいた。


 でも一度だけ。


 五年前のあの日。


 こんな生きる価値を見失い、感情も失い、でも怖くて死ねないでいる自分自身のことが嫌になる私を救ってくれた女の子がいた。

 彼女はいじめられていた私を庇い、青柳の顔面を思いっきり殴り病院送りにした。

 目の前に淡い血が飛沫のように飛んだのを今でも覚えている。

 彼女の拳は綺麗な鉄に染まっていた。

 でも私にはそれがとても美しく見えたんだ。

 鮮やかな深みを持ったその血の色が、私の血をドクドクと掻き立て、妙な高揚感をもたらしてくれた。

 生きている心地がしたんだ。


「もう大丈夫だよ。僕がいる限り、これからは僕がつきを守る」


「こ、こんなことしちゃって大丈夫なの?」


「なんでよ? こいつら悪いことしてんだよ? 悪いことしてる奴を殴ってなにが悪いんだよ。僕の方がよっぽど『正しい』だろ? 超痛そうだよね! ほんと、スカッとしたー!」


 彼女の顔には返り血がついていた。

 けれど、それでも笑う彼女の顔はまるで彼岸花のよう。

 しかし彼女は今ここにいない。彼女は少年院に送られた。

 所詮、正しさなんてものは悪の前に通用しなかったのだ。結局、私に希望なんてものは無い。

 私は一生いじめられるしかない。

 なんならこの少女にさえ少し嫌悪の念を抱いてしまっていた。

 なんで私を今助けてくれないの? 

 あなたがあの時に青柳を殴ったからその腹いせで私は今もっといじめられてるのよ?

 自己中なのは分かっている。

 でも誰かを恨んでいないと、悪にしないと、私が私でいられなくなるような気がするのだ。

 やはり人間ってのは自分が良ければそれで良い生き物らしい。


 学校に居場所はない。


 帰る場所もない。


 生きる意味もない。


 でも、やっぱり死ぬのは怖い。


 バチンッ‼


 ――嗚呼、痛いなぁ……



「月……っ!」


 その時、ふと脳裏によぎった声。

 誰だろう、この声……確かどこかで……

 分からない、思い出せない……


 ボンッ‼︎


 嗚呼、もうどうでもいいや。

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