モラトリアムが私を掴んで離さないから

堅乃雪乃

プロローグ 福音は日食のように

第1話

 ――ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ。

 ガチャッ!

 今日もまた、体が救援信号を送っているかのような感覚を感じながら目を覚ます。

 出来れば覚ましたくなかった。

 ずっと寝ていたかった。

 夢に溺れていたかった。

 そんなことをまだ意識のはっきりしないまま考え、布団から起き上がると、お腹のあたりがズキズキと痛んだ。

 はぁー……昨日は酷かったなぁ。もう大抵の痛みには慣れたはずなのに、恐怖っていう支配は無意識の内に体に沁み込んでしまっているみたいだ。

 カーテンから零れる外の光も、寂れたこの部屋で存在感のあるあのギターも、私の気持ちを元気にはしてくれない。

 なんとかして起き上がり、ぐうーっと背伸びして、鏡を見る。

 ガラスはとっくのとうに白く曇り果てているけれど、私にはその濁りさえも眩しく見えた。


「ひっどい顔」



「おはよ」


「……」


 リビングへ行っても「おはよう」と社交辞令の一つも返してくれる優しい人間はいない。

 私は足元に広がる無数の「麦とホップの生ビール」の缶を雑に避けて、「半額」のシールが貼ってあるお惣菜のゴミが放置された部屋のテーブルで突っ伏す人間のもとに歩み寄る。


「またたくさん飲んだの? 体に悪いよ」


「……あぁ? ひっく。お前……まだ生きてたのぉ?」


「うん」


 私が聞きたいくらいだ。自分自身に。そしてあなたに。


「良くもまあ、ひっく、そんなに飄々としてるねぇ。誰のせいでまたこんなに酒を、ひっく、飲んだと思ってんのぉ?」


「ごめんなさい」


「分かってんならぁ、ひっく。さっさと視界から失せろぉ……ほんとにうぜーんだよぉ!」


「うん、分かった。あと……父さんは?」


「だからうるせーって言ってんだろうがぁ! ひっく、黙れよっゴミがぁーっ!」


 その瞬間、いきなり起き上がってテーブルの上にあったあらゆるゴミをこちらへと振り払ってきた。

 思わず手を顔の前に広げたものの、隙間から食べカスやらなんやらが通り抜けて、私の顔をペチペチと襲う。

 最悪。汚い。臭い。


「あの人の話なんて二度と私の前でするんじゃないよぉ! お前の……お前のせいでぇ! あの人は今もどっかの知らない女とぉ……ひっく」


 怒ったのかと思えば、今度はまたテーブルに突っ伏しておいおいと泣き始める。


「くっそ……なんでお前なんか産んじゃったんだよ私……」


 そうして嘆く姿を見ながら、一体どうしたらそのしょっぱい涙を流せるのだろうと思った。

 あなたたちの無責任な一瞬の快楽の果てにいるのが私なのだとこっちが言いたい。

 私は早くこんな息苦しい空間から逃れたくて、私をあざ笑うかのように顔にこびりついた食べカスをペラペラのティッシュで拭きとってから、黙って学校へ行く準備をし始めた。

 外に出たって、なんもここと変わらないのにね。変わるのは景色くらい。

 そういえば――今日は高校二年生、最後の日らしい。

 こんな日にふさわしい寝起きだった。



 灰色に灰色を重ねて今にも重くて落ちてきそうな空。

 水平線のように広がる田んぼ。

 その奥に見える森。

 そんな道沿いをギーコギーコと錆びた自転車をしばらく走らせて学校に着いた。

 この学校では、自転車通学の生徒に一人一スペース自転車置き場が用意されているけれど、今日は……誰かの弁当の残飯らしきもの散らかっていた。

 腐っているところを見るに昨日のだろうか。親切に牛乳までかけられていて、今にも嗚咽しそうな異臭があたりを漂っていた。

 その光景と匂いに気持ち悪くなりつつも、私はふーん、としか思わない。

 もはや思えないのだ。

 いや、正確には、私はこれらに反抗する感情と意思を遠い昔に失っているんだ。


 私はそれを避けるように自転車を止めて、重い足を教室へと運んだ。


 これから起こる出来事に、私はまだ気が付けないでいた。

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