さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -10-
それから三十分ほどで戻ってきた園寺は、由衣を見ると荒肝をひしぎ、あんぐりと口を開けた。
「おま……マジ? なんか未練あるとか、そういうやつ?」
「よく、分からないけれど……そうだね、紬君を一人にしてしまったのが心配だ」
「由衣さん……」
紬は感涙に咽ぶ。
「由衣さんがいてくれるなら、私、もう寂しくないです」
「紬ちゃん、前に言ってなかったか? 幽霊はいずれ黒ずむ、って」
園寺は淡々と告げる。
幽霊は苛烈な激情をエネルギーとして現世に留まり続ける。由衣の心配は苛烈とは言い難く、その分どう転がるのか分からない。本当に感情を歪めてしまうのか。由衣はそんな人ではない。けれど紬はたくさん見てきた。別人のように変貌してしまった幽霊たちを。
「由衣さんに限ってそんな」
「同じ幽霊だ」
園寺はにべもなく言い切ると、由衣に向き直る。
「いいか由衣、約束しろ。いつか由衣が由衣じゃなくなったら、その片鱗が少しでも見えたら。成仏しろよ」
「ああ、それはもちろん。死んでまで人様に迷惑はかけられないからね。だからもしも、和也」
由衣はそこまで言うと、寂寞の一拍の後、実直な瞳で頼み込んだ。
「私が黒ずんだら、よろしく頼むよ」
***
由衣は無表情だった。けれど言葉を噛みしめた由衣は、瞳にまつ毛の濃い影を落として「そうか」と。残念だ、と呟いた。
「約束を守ってくれてありがとう。そうか、私は本当に、気付けないまま黒ずんでしまっていたんだね」
「由衣さん、そんなことないです」
「紬君」
「無理です、私、由衣さんがいないなんて、耐えられないです」
「紬ちゃん、認めろ」
園寺が紬の肩を揺さぶる。その折に涙がぽろぽろと零れて、園寺はさらに渋面を濃くした。
「あれからもうすぐ一年、紬ちゃんの傷が少しでも癒せるならって、寸劇に付き合ってきた。その結果、どうなった? 現実逃避ばっかで夢と現の区別すら曖昧になったじゃねぇか」
感情が歪んだのは紬の方だ。黒く醜く、まるで幽霊みたいな紬は、熱に冒されて都合のいい夢にしがみついた。
もう言わせてもらうけど、と園寺はため息交じりに、無理やりはめ込んでいた由衣というピースを外していく。
「大祭で俺が堕ち神に首絞められた時、その場に由衣がいたって、紬ちゃん認めなかっただろ」
園寺が厄除けの札を由衣にもらったと噓を吐いた。紬がその場にいた由衣を受け入れられなかったからだ。すっかり弱って思念の玉となった由衣を。
「なんで弱っちゃったんだろうって考えても分からなくて、そのまま消えちゃったらどうしようって」
あの時は信じたくなくて見なかったふりをしていた。
「紬君の傍から長く離れたことがなかったものだから……きっと、私が今ここに人間の姿で立てているのも、紬君が傍にいるからなんだろうね」
「由衣の現世への執着はどぎつくねぇもんな。なのに一年近く人型で完璧に振舞えてたのは、紬ちゃんの超強力な霊力の恩恵だったんだろうな」
園寺は紬の顔色を見てから「結界で別れた後、」と話を続ける。
「井守村に行った由衣は出られなくなった。村人たちの異常な幽霊への執着が、由衣を井守村の中に捕らえちまったんだ」
由衣は申し訳なさそうに謝る。
「連絡もできなくて、心配しただろう」
だから電話が繋がらなかったのだ。園寺は咄嗟に由衣の携帯が壊れたなどと噓を吐いたが、それも紬のためだった。
その後、由衣は井守村で見ていた。警察の捜査に納得のいかない武人が現れて村人たちを嗾け、大祭の夜に村中の人と神社の裏へ向かったのを。
「追いかけたんだ。そうしたら、堕ち神が出てきただろう。和也が襲われて。私には堕ち神を追い払うのが精いっぱいだった」
由衣の陽の気、陰湿な霊が嫌う、神社の次男の気。
その場にいた由衣を、紬は認めたくなかった。弱った姿はまさに幽霊そのものだったから。
由衣が生きていたら。探偵の由衣と言葉を交わせる依頼人ばかりを選別した。その結果、幽霊がらみの相談ばかりで、一層紬は霊感に囚われた。園寺の中途半端な霊感は、時折由衣との会話に支障をきたす。その度に紬は死を直視せざるを得なかった。だから園寺には霊感がないと思い込んで、霊感に阻害されている事実から目を背けようとした。
園寺は「紬ちゃんだけじゃない」と容赦なく続ける。
「由衣、民家への不法侵入をしたな。自分を生きてると思い込んだのか?」
タエの家だ。紬が鼻水を啜ると、寒さを感じない由衣は少しだけ顔をゆがめた。
「あぁ……そうだった。あの時はなぜか、会話ができていると思い込んでいて……そうか、生者と死者の境界線を曖昧にしてしまっていたんだね。不甲斐ない」
「人を思いやって行動をしていた由衣が、自分のことを考え始めた。だからもう駄目なんだ」
園寺はすっぱりと言い切る。紬は一年前からじくじく、由衣に心配かけてばかり。この期に及んで、紬はまだ我儘を言って由衣を困らせている。
さみしい。さみしさは枯渇することがない。いつかくる今日という別れの日を、いつも恐れて、考えないようにしていた。怖くて、一分一秒が大切で、覚めてはいけない夢。
夢こそが紬の人生だった。夜が明けてしまったら、紬はきっと燃え尽きて灰と化した炭になる。火桶の赤さなど忘れた雪の色。それはとてもさみしい。
紬は自分の体をきつく抱き締める。すっかり感覚のなくなった指先は、震えることすら忘れていた。吐く度に視界を曇らせる息が、由衣の顔を覆い隠す。
「由衣さん」
伸ばした手は由衣に触れられない。それを突き付けられるのが嫌で、いつも寸前で手を止めていた。紬は観念して、凍えた指を由衣の胸へと伸ばした。由衣をすり抜けて、悴んだ指は、何も掴めない。
――当たり前だ。
「……ふ、ぅう」
紬は膝を抱えて蹲った。二度目の別れは、永遠だ。希衣が嫌がったように。一度知ってしまった救いようのない絶望を。もう一度選ぶなんて、とても。
「こわい……」
由衣はかける言葉を見つけられず、園寺は紬を待ち、長い夜はしんしんと深まりゆく。避けられない別れ。寒さを思い出した体は全身を揺さぶる。それでも別れを切り出せなかった。察した由衣は、紬の目線にしゃがみ込み、優しい瞳で紬を包み込む。
「ごめんね、さみしい思いをさせてしまって。――辛かったら目を閉じていてもいいよ。忘れてくれて構わない。困ったことがあったら和也を頼るんだよ。和也はとても面倒見がいいからね」
由衣がフッと立ち上がる。縋りつく思いで見上げた紬は、涙で視界を歪ませた。
由衣の体に三日月が透けていた。
「由衣さん! 由衣さん、由衣さん」
泣き叫ぶ紬を園寺が支える。
「由衣さん、ありがとうございました、今まで、ずっと」
消えてしまう前に。
紬はありったけの感謝を伝えようとした。けれど昂った感情が喉をつっかえさせて、ありふれた言葉しか出てこない。紬の思いの百分の一も満たせない。
焦る紬に由衣が「分かってるよ」と微笑みかける。
「由衣。お前こそ、さみしがるなよ」
園寺は指が白くなるほど、強く拳を握り締める。由衣はほんの思念ほどの玉となり、三日月へと吸い込まれていく。園寺にはもう見えていない。けれど紬には分かる。この厄介な霊感が、由衣を教えてくれる。
三日月へ。三日月へ。
紬はずっと眺めていた。
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