さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -9-


 ほんのひと箱、チョコレートを食べただけでは腹は膨れない。紬も卵を溶いて、霜降りの牛肉を頬張って食べた。口の中でとろける肉は、紬の体まで溶かす。一口食べるたびに机に突っ伏す紬と、それを見てゲラゲラと笑う園寺。由衣は美味しい美味しいと、肉よりも椎茸を食べていた。


 店を出た帰り道、満腹になった紬はどうやって事務所に泊まり込もうかと画策した。終電にはまだ早い時間だが、可惜夜は終わりに近付いている。紬は一人きりのアパートにはなるべく帰りたくなかった。あそこは魔窟だ。由衣がいないだけで幽霊はわんさかやってくる。事務所には由衣の寝室があり、ベッドは一つだが布団は三枚。ソファでなら寝られるのだ。

「園寺さんはもう帰るんですか?」

「? おー、明日も早いからなあ」


「……由衣さん、今日」

 泊っていいですか。

 そう聞こうとした紬は、嫌な空気を感じて振り返る。大通りは夜も交通量が多く、車のヘッドライトが町を明るく照らす。その明るさをビルの隙間越しに見た。逆光になって、こちらへ向かって歩いてくる人の顔は見えない。

 けれど見覚えのある、この暗さ。

「……三門さん?」


 名前を呼んで、戦慄した。向かってくる男が放つ気は、まるでチョコレートを落とした男の子のようで。無関心の裏に激情を押し殺した、隠しきれない殺気。

 ほろ酔いの園寺は「え?」と振り返る。その先にいる三門を見つけても、異様な空気に気付かず「おーい、三門さーん」と大きく手を振った。

 紬は唐突に向けられた殺気に立ち竦んでしまった。それは急に夢から覚めて、現実に心が追いつかない朝ぼらけの寒気だ。異変を察した由衣が「紬君?」と不思議そうな顔をする。

「あ、あの、」


 男が。

 紬は由衣の上着の裾にしがみつく。

 ロングコートを羽織った三門は、両手で腹を抱えるように迫る。錆びた笑みがギシ、ギシ、と吊り上がる。

 殺す気だ、と。

 確信した時には、銃口の暗い穴が紬に向けられていた。

「! つむぎく、」


 ――バンッ


 覆い被さった由衣の重みに耐えかねて、紬は地面に尻もちをつく。紬に倒れ掛かったままの由衣。

 全身の血の気が引いた。

「……ゆ、由衣、さ」

 手が濡れた。

「由衣さん!」

 紬は悲鳴じみた叫び声を上げる。止められない震えが、四肢の感覚を奪っていくのを感じた。


 二度目の銃声に、紬が顔を上げると、三門が倒れていた。あと一歩、間に合わなかった園寺が、混乱した表情のままどこかへ電話をかける。薄暗い裏通りに通行人はなく、銃声を聞きつけた人々が大通りから顔を覗かせて紬たちを見ていた。

 「ヤバ」「死んでる」「銃声?」「警察は?」「救急車」「殺人?」「こわ」

 紬は由衣を抱き締めて、ぼんやりとその光景を見ていた。地面に散乱した、紬が園寺に贈った菓子。


 チョコレート。ビスケット。グミ。ラムネ。


 由衣の荒い息が弱々しい。園寺の早口が警察を呼ぶ。大通りから人が押し寄せる。フラッシュが焚かれる。カメラが紬を見ている。園寺の怒声が路地裏に響く。三門は動かない。紬は何もできない。

 遠くから聞こえてきたサイレンが近付くにつれ、紬の意識は薄れた。



 葬式が終わり、喪服で事務所に戻った紬は、応接セットのソファに座って放心した。薄暗い事務所に幽霊がいる。由衣がいたころには絶対になかった。換気扇がバラバラと周り、一階の中華料理屋の匂いが微かに部屋に滞留する。

 由衣が死んだ。

 それは紬への、死の宣告だった。


 泣きすぎて朦朧とした意識が事実を拒んでいた。由衣にはもう会えない。手を引いてもらうこともない。幽霊を追い払ってくれることもない。死者ばかりが紬に寄ってくる。生きていた由衣は死んでしまった。紬を護って死んでしまった。

「これじゃ死神だ……」

 紬は顔を覆って、痛む胸から滲む涙に暮れた。静まり返った事務所に歔欷がたゆたい、がらんどうの瞳で見つめる幼子が紬を「お母さん」と呼んでいた。


 なぜ。他人の紬を母と思い込むのか。

 なぜ。大好きな由衣がいないのか。

 なぜ。こんな時ばかりどうでもいい幽霊が寄ってくるのか。

 なぜ。由衣は幽霊として会いに来てくれないのか。


「由衣さん、いるなら返事してください」

 紬は無人の事務所で、切実に頼み込んだ。

「由衣さん、幽霊でいいのでそばにいてください」

 無茶な願い事だ。本気で望んでも、叶うとは思えない夢物語。紬は震えるため息を吐いて、顔を上げた。

 ――そこには由衣がいた。


 生きている時と全く変わらない出で立ちは、何も知らない人から見れば、生きていると錯覚するほど。紬は自分の喪服に目を落として由衣を見上げた。奇跡だった。

「幽霊になってしまったから、嫌がられるかと躊躇したんだが……」

 由衣は困り顔ではにかんだ。

「そんなに泣くものではないよ」

「由衣さん!」


 紬は思わず抱き着こうとして床に倒れ込む。「大丈夫かい」と手を差し出した由衣もすぐに手を引っ込めた。

「どうも生きていた時の感覚が抜けないな」

 由衣はそうっとソファに座ろうと挑戦し、喜色を浮かべた。

「お、座れた」


 紬は床に手を付いたまま、園寺に電話をかける。園寺はあの後、捜査一課に移動願を出した。三門は自殺し、あの夜なぜ拳銃を持ち出して凶行に至ったのかは判然としなかったが、警察内部では怨恨の線が強いだろうと言われていた。警察側も事の経緯を考慮して、移動願はすんなり受理されたらしい。その後は移動に伴う引継ぎや諸々で忙しそうだったが、園寺は紬を気遣って事務所で寝泊まりしてくれている。が、それも夜遅くで、今はまだ夕方だ。到底待っていられない。三コールで出た園寺に、紬は食い込み気味に言った。


「園寺さん! すぐに帰ってきてください! 由衣さんが、由衣さんがいるんです!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る