さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -8-


      ***


 去年の春のこと。


 捜査二課管理官に出世した園寺を祝うため、由衣と紬は警視庁にいた。退勤後の園寺と合流して夕食を食べに行く約束だった。捜査二課は詐欺などの知能犯罪や、賄賂などの汚職犯罪、選挙犯罪、通貨偽造犯罪といった事件を受け持つ。きっと頭を酷使するだろうから、と紬はコンビニでお菓子を買い込み、園寺にプレゼントしようと片手にビニール袋を提げていた。


 チョコレート。ビスケット。グミ。ラムネ。


 警察が懇意にしている探偵の由衣は、警視庁に顔見知りも多い。正面入り口の警察も由衣を見つけると「どうされましたか」とやってきたので「園寺を待っている」と伝え、空いている応接室に案内してもらった。革張りのソファ、低いテーブルにはお茶、白々しい風景画は壁にかけられ、窓の向こうには一列に並ぶ木々の奥に法務省の赤レンガが見える。

 紬は手持ち無沙汰にソファに座り、由衣にも隣に座るよう促した。とはいえ約束の時間まであと少しだ。


「お腹空きましたねー。園寺さんにって買ったおやつ、少し食べちゃおっかな」

「たくさん買ってたからね。いいんじゃないかい」

 チョコレートは二種類買った。船の絵が描かれたチョコが乗った全粒粉ビスケットのパッケージのものは、園寺が好んで食べるのを知っている。紬は宇宙船の名前を背負ったイチゴとミルクのチョコレートを開けた。小さなチョコレートの粒を口に放り、由衣が差し出した手のひらにも三粒ほど乗せる。


 腹の足しには程遠いが、食べている間は退屈も凌げる。紬は一粒に一分かけようと考えながら、差し出された手にさらに三粒渡す。すると由衣に渡したはずのチョコレートが床に散らばった。

 しまった、と思った時には遅い。チョコレートを受け取れなかった子供の幽霊が、もっと、もっと、と切実な顔でせがむ。部屋の隅にいたほんの埃ほどの思念すら寄ってきて、紬はまるで公園の鳩に餌をやっている気分になってきた。


「この辺かい?」

 由衣が目星をつけて幽霊がいるであろう場所を手で追い払う。紬は無言で何度も頷き、由衣の気を嫌う幽霊が散っていくのを眺めていた。

 由衣は平安時代より続く由緒正しい神社の次男だ。けれど由衣には霊感がなく、幽霊が嫌う陽の気を放っている。無意識に幽霊を退ける、まるで歩くお札のような由衣は、合宿免許で出会った誘蛾灯の如き紬に、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。学生のうちに探偵事務所を開業した由衣は、紬を雇い入れるだけでなく、こうして今も幽霊から守ってくれている。紬は由衣の背に隠れながら、過去の自分からは考えられない幸福に、つい唇を窄めて笑んだ。


 廊下から足早に近づいてくる革靴の音が聞こえてきた。あの急いた歩き方は園寺だ。振り返る間もなく乱雑に扉が開き、紬の想像通り、乱れた髪を掻き上げながら園寺が部屋に入ってきた。園寺は紬と目を合わせるとあからさまに破顔し、部屋の有り様と由衣の効能に、堪え切れずに「だはは」とやんちゃな笑い声を発した。

「またやってんの、紬ちゃん! 由衣もおつかれ」

「やあ、和也。すまないね、チョコを落としてしまった」

「いーよいーよ。あ、ほらこの人が前に言ってた、同じ管理官の三門さん」


 園寺に紹介されて廊下から顔を出したのは、四十代を過ぎた年上の男だった。どこか暗い空気を漂わせた三門は、背が高いのに猫背で、癖毛の髪は目にかかり、一応浮かべた笑みもどこか錆びついて軋んでいる印象を受ける。以前園寺が話していたのはこの人か、と紬はどこか符合しないパズルのピースを無理やりはめ込んだ気持ちになった。

 警察にはキャリアとノンキャリアという種別がある。キャリアは国家公務員であり、ノンキャリアは地方公務員にあたる。難易度は圧倒的にキャリアの方が難しく、その分階級も高く給料もいい。園寺はキャリア組で、その中でも出世頭、いずれは警視総監という呼び声が高いほど優秀だ。


 管理官にはキャリアとノンキャリアから一人ずつ任命される。そして園寺と同じ管理官に任命されたのが三門だ。警察としての経験が豊富で、ノンキャリアから警視にまで上り詰めるにはもちろん優秀でなければならない。見た目で三門を決めつけるには早計だ。

「園寺さんは……これからどこに?」

 かすれた声で三門が問う。


「警視に昇進したから祝ってくれるんですよ。表通りの一本裏に個室の和食屋があるでしょう。俺は初めて行くんすけど、なんでも美味いって話で。知ってます?」

「そうなんですか。私も行ったことないので」

 三門は「いってらっしゃい」と紬たちを送り出した。


 警視庁を出て、鍵盤のような車道を左目に横断歩道まで歩く。四月はだいぶ日も伸びてきた気もするが、クリスマスのイルミネーションが綺麗な冬の夜と比べると、いささか寂しい。とはいえ寒くないのはいい。


 紬は意気揚々と大股で歩き、前を歩く二人の他愛もない話を聞いていた。最近読んだ推理小説のトリックについてだった。

 由衣が予約した和食屋には庭があると聞いていたが「ここだ」と立ち止まった由衣の見上げる先にはビル。けれど中に入ってみて驚いた。ビルらしいガラス張りの壁の向こうには庭園が広がっている。手入れされた紅葉はライトアップされ、枯山水はなだらかな曲線を描く。石灯籠は橙色の明かりを灯し、向かいのビルは竹垣で目隠しされていて、とても都内のビルの中とは思えない景色だ。


「おー、すげ」

 園寺は案内された座敷に胡坐を掻くと、紬に庭園を指差して尋ねる。

「一人?」

 幽霊が。園寺は自身の中途半端な霊感を楽しんでいるきらいがある。紬は嫌々目を凝らして数えた。

「二人と五玉。ってか竹垣の後ろのビルの方がやばそうですね、見えないけど」

「へー」


 由衣が庭園側に座ると、近くを浮遊していた思念がふい、と遠くへ移動する。紬は由衣の隣にぴったりと座って人心地が付いた。

「あ、そうだ園寺さん。これどうぞ」

 紬はすっかり忘れていたお菓子をビニール袋ごと渡す。受け取った園寺は可笑しそうに、嬉しそうに袋の中を覗いた。

「ありがと、紬ちゃん」


「チョコひと箱、我慢できなくて食べちゃったんですけど」

「ああ、さっき落っことしてたやつ」

 事前に予約していたコース料理が運ばれてきて、園寺は菓子袋を脇に置く。紬はアルコールが苦手なので代わりに烏龍茶を、二人は日本酒を掲げて乾杯をした。


「改めて、昇進おめでとう和也。友人として私も鼻が高いよ」

「園寺さんの出世スピードは異様だって、応接室に案内してくれた人も言ってました」

「まあね。俺、デキる男だから」

 園寺はふざけて言うと、運ばれてきたすき焼きに飛びついた。

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