さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -7-


「俺が紬ちゃんに初めて会ったのは、大学一年の夏に行った合宿免許でさ。夕飯の時だよな。しんどそうな紬ちゃんを見かけて由衣が話しかけに行って」

 技能講習が上手くいかずに落ち込んでいるのだろうと、はた目にはそう見えた。バイキング形式の夕飯は、好きな量を皿に盛って各々で食事をとる。園寺は合宿免許には一人で参加していたが、相部屋になった由衣とすぐに仲良くなった。お人好しな由衣はバランスよく料理を取り、紬の元へ向かった。園寺は面倒だと思いつつも、できたばかりの友人の後を追った。


 紬の皿には大量の髪の毛が落ち、トレーも食器も黒く手形に汚れていた。

「呪われてんの?」

 驚いた園寺が直球に尋ねるが、紬は首を振って「いつものことだから」と諦めた風だった。由衣は自分の夕飯をトレーごと紬に差し出した。紬の救いを求める瞳が、髪の隙間から由衣を見上げる。それはまるで、土砂降りの夜に満月を見つけたようだった。


 紬は涙ぐんで由衣の夕飯を食べた。腹が満たされてゆくと、紬は訥々と幽霊の悪行を打ち明けた。

「それ聞いてさ、こんなに幽霊に執着される奴がいるのかってビビった」

 幽霊は湿っぽく鬱々とした人間を好む。あの時の紬はまさに幽霊の標的となる暗さだった。それに加えて霊感も強く、埃ほど小さく擦り切れそうな感情にも気付いてしまう。それは大量の幽霊の中で育ってきたのだろうと、容易に察せられるほどに。

 紬は堕ちるところまで堕ちていた。


 そこから救い上げたのが由衣だった。

 園寺は話しながらも確信していた。

「紬ちゃんが人より霊力が強いのは確かだ。どれだけ強いかなんて考えたこともなかったけど、今回ので大体分かった。少なくとも人の倍以上の霊力があるんだな」

 幸か不幸か。紬は園寺が語った思い出話に、当時の鮮烈な感情を思い出した。


 死んだ人間ばかりが寄ってくるから、生きている人間は離れていった。幽霊を追い払う方法も分からなくて、幽霊に囲われて、もういっそ自分も死んでしまえば対等の友人になれるかも、と捨て鉢な感情を抱いていた。合宿免許なんて幽霊の巣窟を自ら選んだのも、やけくそだった。憑き殺したいならやってみろ。黒い皿に白米。怒りも湧かず、涙も出なかった。食欲などあるはずもなく、ぼんやりと、空腹の虫が鳴き止むのを待っていた。

 由衣に出会って、鮮やかな感情が溢れて、まだ自分は生きていたのかと驚いたのだ。


「自分の霊力に生かされたって、なんか皮肉だよね」

 紬は神界の檻を思い出す。閉ざされた世界。一人きりの世界。やっと感情が追いついてきた。

「生きててよかった」

 紬がぽつりと零すと、園寺は「当たり前だ」と紬の頭に手を置いた。

 列車は加速と減速を繰り返して環町を一周する。東の住宅街駅、環ビル駅を過ぎて三つ目の環町入り口駅に戻ると、紬は列車から飛び降りて鉄道橋の下へ向かった。由衣が消えた瞬間の話を真白から聞いて、居ても立っても居られなくなったのだ。


 紬以外の三人は、環町の結界が修復されて『隙』を狙う堕ち神を完全に追い払ったことを伝えるため、環町の内側へ戻って行った。堕ち神に襲撃された交番の心配もある。じきに本厄は終わったのだと防災無線が流れるだろう。紬は佐伯の無事を祈ってから、鉄道橋の長い階段を降り切って結界の境界線まで走った。


 由衣はそこにいた。

 境界線の奥で笑んでいた。


 紬は由衣の名前を呼んで駆け、境界線の手前で止まる。本厄は終わった。足首の火傷痕も薄れている。紬は深呼吸をして堕ち神の幻覚を振り払い、一歩、境界線の外へ踏み出した。

「へへ」

 思わず笑みが零れる。近くから見上げた由衣は、初めて会った時から変わらない、温かな空気を纏っている。紬を幽霊だらけの日々から引っ張り上げてくれた由衣。手の届かない場所に別たれた、その距離分の焦がれが身を焼く。


 何時間でもそうしていられた。寒風が吹き荒ぶ夜は深まるが、紬はちっとも辛くなかった。



『――こちらは環町警察署、および環神様からお知らせします』



 防災無線が環町の外まで聞こえてくる。紬はハッと環町を振り返った。初めて来た時と何ら変わりのない環町。無菌室の如き美しさを保つ環町。

 けれど紬の居場所は環町の外にある。幽霊だらけの、この外に。



『さきほど結界の修復がされました。これにより幽霊は消失、本厄は終わりました。ご協力ありがとうございました』



 終わったのだ。紬は環町に背を向けて、ズビ、と鼻水を啜った。

「これで、帰れますね」

 そう言って、環町旅館に荷物を全部置きっぱなしにしていることを思い出した紬が、もう一度環町を振り返り「あ、」と声を上げる。

「和也だ」

 由衣も気付いてゆらりと手を挙げた。


 険しい顔をした園寺がこちらへ向かっている。本厄はもう解決したのに、と疑問を抱いていたら、園寺はあっという間に紬の目の前までやって来て、紬を叱り飛ばした。

「風邪引くだろ。何やってんだ、こんなとこでずっと」

 園寺は着ていたコートを脱ぎ、紬の肩にかける。園寺の体温が残っているコートにくるまれた紬は、歯が鳴るほどの寒さをやっと自覚した。


「ありがとうございます……あったか」

「当たり前だ」

 園寺は真面目な顔で由衣に向き直ると言明する。

「由衣。お前、もう駄目だ」

 その宣告は、紬の芯を瞬く間に凍り付かせた。

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