さようなら、もう二度と逢えない貴方へ -5-
「バレた」
錆びついた声。心臓が握り潰される恐怖に、真白は訳が分からず震えた。
なんでここに。
そう思ったのは真白だけではなかった。園寺と由衣も、加見の姿をした堕ち神を凝視する。葵は淡々と説明した。
「御霊が飛んできた。加見さんが捕まって、姿を模した堕ち神が名を騙ったって」
園寺が舌打ちする。
「いつすり替わった? 御霊は消えたんじゃなかったのか」
「大元の環神様が余力を加見さんじゃなく御霊に回したんだ。加見さんは消失して御霊が遣わされた。ババに来る前、園寺さんたちは交番に寄ったんでしょう? そこで」
「マジかよ、最悪だな」
交番なら、佐伯も無事ではないだろう。
園寺は堕ち神を睨み据えたまま由衣に問う。
「何とかできないのかよ、由衣?」
「ただの幽霊ではないんだ。神には神しか対抗できないんじゃないかな」
「んな悠長な」
頼みの綱は葵だけ。真白は咄嗟に葵を堕ち神から遠ざけなければと、後ろから抱きしめるように引っ張って逃げようとした。いくら御霊がいるとはいえ、堕ち神は母体だ。御霊だけでは拮抗するだけの力がない。簡単に打ち負かされてしまえば、この列車内だけではない。環町全体が蝕まれてゆく。
煮え滾る紅い瞳に、堕ち神の狂気が宿る。
堕ち神は圧倒的に自分が優勢だと知っていた。真っ黒の口が享楽に吊り上がり、険しい顔の園寺に顔を向ける。
「シルシ持ちダ」
堕ち神は徐に片腕を持ち上げる。指先から黒い靄が、園寺目掛けて噴き出す。グゥ、と園寺が苦しみ出した。園寺を襲った靄が首を締めたのだ。徐々に両足が浮き、園寺は苦しそうに喉に絡まる靄を掻く。
「和也!」
由衣が靄を引き剥がそうとするが、靄は掴むことすらできない。由衣は堕ち神に向き直り、打開案を探すように唇を噛み締めた。
「紬君、戻ってきてくれ」
「無駄ダ」
堕ち神は顔を引き裂いて半月型に笑む。
列車の外が赤い。環町にない大岩や泡を吐き出す川、干涸びた枯れ木。とぐろを巻く紅い空は列車の中にまで紅い光を差す。まるで地獄だ。
真白は葵を抱きしめる腕に力を込めて、体の震えを止めようとした。列車だけが環町の遺物のように、変わってしまった世界の中を滑り続ける。
「力を献上しなけレば帰れなイ」
堕ち神に。紬は結界の修復のため、自ら神界に赴き、霊力を環神様に捧げる。けれど加見を騙った堕ち神に送られたことで、神界に堕ち神の意思が介在してしまった。堕ち神の望みは、紬の霊力を横取りすること。
外の景色は、紬の霊力を奪った堕ち神の果て。気付いた真白は絶望に愕然とした。
贄の子は役割を終えなければ、名前を呼んでも目を覚ませない。
もう一度、と。二度目の譲渡は死を意味する。
園寺の両腕がだらりと垂れる。
力なく宙吊りになる園寺は――死んだのか。堕ち神は興味を失ったように靄を消す。床に頽れた園寺は、激しく咳き込んで喉を抑えた。
「っ! よかった生きてる」
真白は四つん這いで園寺の傍に近付く。首にはくっきり靄の黒い痣が巻き付いている。
「飛べ」
堕ち神は由衣を嗤った。
いつの間にか開いていた乗降口のドア。外から吹き上げてくる生温かい風に、由衣のスーツがバタバタとはためく。据えた匂いが列車に雪崩れ込んでくる。
靄はいつでも園寺をまた。堕ち神は由衣を脅している。
「飛び降リロ」
堕ち神は愉快だと由衣を追い詰めた。園寺は涙目のまま由衣に何かを伝えようとするが、荒い呼気に阻まれて言葉が発せない。
由衣は一歩でも後退れば最後、走る列車の外へ、地獄の紅さへ堕とされる。由衣の一挙手一投足を堕ち神は監視している。
――由衣さん、私、頑張りますね。
――由衣さんがいるから頑張れるんですよ。
真白は神界で聞いた紬の声を思い出して、震える喉を諫めた。由衣を必要としている人がいる。真白を救ってくれた人の、心の拠り所。大切な人。
真白は笑う膝を𠮟咤する。
助けないと。身代わりになってでも。真白を助けくれた紬を、今度は真白が救うのだ。
真白は葵を抱き締めて立ち上がる。地獄の底がどこへ繋がっているのか分からない。二度と戻ってこられないかもしれない。それでもやるのだ。由衣を死なせてしまうくらいなら。
一歩。進もうとした真白の手首が強く引かれる。
振り返ると、息も絶え絶えの園寺が膝に片手を突いて、もう片方の手で真白を掴んでいた。荒い息の隙間から、鋭い眼光が真白を射る。そのあまりの威圧感。真白は飛び上がり、切り詰めた決心はビーズの如くはじけ飛んでしまった。
「今……なに、考えた」
真白の覚悟を見透かした眼力。真白はその場にへたり込んで園寺を見上げる。
「ど、うして」
「俺が、今まで……! 一課の刑事として、自殺を見過ごすわけには、いかない」
園寺は真白の手首を掴んだまま、崩れるように座り込む。「由衣」と咳き込みながら呼ぶと、由衣は「すまない」と強く目を瞑った。
すると真白の隣で園寺を介抱していた葵が、ピクリと動いた。真白の心配をよそに立ち上がった葵は、堕ち神の興味を一身に引きつける。
葵は深呼吸をして目を閉じた。
「掛けまくも畏き環大神よ、畏み畏み白さく」
祓詞。真白はもしかして、と葵を見上げる。葵には今、御霊が憑いている。堕ち神の顔がぐしゃり、と崩れる。
「堕つ神祓ひし追儺の結界を築くが贄の子、遠香紬、高き尊き神教えのまにまに、霊力を献げ奉る」
人の表情からは大きく逸脱した堕ち神。禍々しい空気が蔓延し、黒い靄が祓詞に対抗しようと肥大する。
真白は生唾を呑み込んで手を握った。神界で動きがあったのだ。葵は言った。遠香紬、霊力を献げ奉る。
無事だろうか。
葵の額には汗が浮かんでいた。
「環大神よ、再び結界を築き守り給へ」
葵に迫る堕ち神の怒気を孕んだ靄を、御霊の力が跳ね返している。堕ち神は熱で炙られたように溶け出した。頬肉が蝋燭のように滴り、紅い眼球が零れ落ちる。堕ち神の豪雨のような叫び声が赫怒にひずむ。
「堕つ神よ、久遠に鎮まり睡り給へ」
葵が言い終えると同時に、赤黒かった列車の景色が閃光を発したように白く光った。すると、ドアのすぐそばに立っていた由衣の体が、ドアの外に投げ出された。堕ち神が苦悶の表情を露わにして虚空を掴む。そのまま、火が搔き消えるように。黒煙の残滓を遺して堕ち神は消滅した。
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